第2章 第48話 タクシーを降りる日
黒いクーペを諦めた翌日の昼過ぎ、悠斗のスマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見た瞬間、胸の奥がわずかに重くなる。
タクシー会社だった。
逮捕されたあと、会社からは勤務停止を言い渡されている。警察側の処分や社内確認が終わるまで営業車には乗せられない。その後については改めて連絡すると言われたまま、しばらく時間が経っていた。
いつか来ると分かっていた電話だった。
それでも、着信画面を見つめたまま親指が動かない。
三回目の呼び出し音。
四回目。
ここで切れたら、自分からかけ直さなければならない。
その方が嫌だった。
「……はい」
ようやく通話ボタンを押す。
『神谷君?』
「はい。お疲れさまです」
『今、少し話せる?』
「大丈夫です」
電話の向こうから聞こえるのは、以前から何度も声を聞いていた配車担当の男だった。
『処分の件なんだけど、一度会社に来てもらえるかな』
その一言だけで、大体の結果は想像できた。
「……分かりました」
◇
一時間後。
悠斗はタクシー会社の営業所前に立っていた。
初めて来た頃にはやけに広く感じた駐車場が、今日は妙に小さく見える。
建物の横には黄色や白の営業車が何台も並び、一台のボンネットを整備担当が開けていた。入口近くでは制服姿の運転手がキーを受け取り、奥からは配車無線の声が途切れ途切れに聞こえてくる。
少し前まで、自分もそこにいた。
制服を着て、キーを受け取り、知らない客を乗せるたびに緊張していた。
最初は目的地を聞き返すだけでも声が上ずったし、車線変更のたびに肩へ力が入った。
それでも、続けるうちに少しずつ慣れた。
カイと出会ったのも、ジンを最初に乗せたのも、この仕事を始めたからだった。
「神谷君」
呼ばれて顔を上げる。
営業所の責任者が入口に立っていた。
「どうぞ」
「はい」
◇
小さな事務室には、机と椅子が二つずつ置かれていた。
責任者は悠斗の向かいへ座ると、手元の書類へ一度目を落としてから口を開いた。
「先日の件だけど、警察からこちらへも必要な範囲で確認が来ている」
「……はい」
「盗品を盗んだ本人として扱われているわけではないことは確認してる。そこは分けて考えてる」
悠斗は少しだけ顔を上げた。
「ただ、警察官の停止命令に従わず、車で逃走した。その事実は変わらない」
「はい」
言い訳はできなかった。
あの時、アキラは止まれと言った。
警察も止まれと言った。
それでも、自分が怖くなって逃げた。
「会社として一番重く見ているのはそこなんだ」
責任者の声に怒気はなかった。
だからこそ、悠斗には余計に堪えた。
「タクシーはお客さんを乗せる仕事だからね。運転技術だけじゃなく、判断も含めて会社が責任を持つ。今回の件のあと、君をまた営業車に乗せるのは難しいという結論になった」
悠斗は膝の上で手を握った。
予想していたはずなのに、実際に言葉にされると胸へ重く落ちる。
「……クビ、ですか」
「言い方は悪いけど、そうなる」
責任者は少し息を吐いた。
「正直、残念だよ」
悠斗は思わず相手を見る。
「最初は危なっかしかったけど、最近は大きな苦情もなかったし、遅刻もほとんどなかった」
「……ありがとうございます」
「まだ若いんだから、これで人生が終わるわけじゃない。別の仕事だって探せる」
「はい」
悠斗は小さく頷いた。
また別の表の仕事を探すのか。
それとも、これまで以上に裏の仕事へ比重を置くのか。
今はまだ決められない。
ただ、口座残高を考えれば、いつまでも何もしないでいられるほど余裕がないことだけは分かっていた。
罰金。
拳銃を買った金。
銀色のセダンの維持費。
安宿代と毎日の生活費。
勤務停止になってから、表の収入はずっと止まっている。
今回の解雇で、それが一時的なものではなくなった。
◇
制服と社員証を返し、最後にロッカーの中身を確認した。
ほとんど何も入っていない。
予備のタオル。
安いボールペン。
いつ買ったのかも忘れたガム。
それだけだった。
営業所の外へ出ると、傾き始めた陽射しが駐車場を長く照らしていた。
一台のタクシーが客を乗せて出ていく。
運転席には、何度か話したことのある年配の運転手がいた。
「神谷」
呼ばれて振り向く。
「今日で終わりなんだって?」
「あ……はい」
「そっか」
男は事情を詳しく聞かなかった。
「まあ、元気でな」
「ありがとうございました」
悠斗は頭を下げた。
たったそれだけのやり取りなのに、営業所を離れる足は少し重かった。
◇
そのまま安宿へ戻る気にはなれず、悠斗は歩いてカイの勤める整備工場へ向かった。
仕事中なら顔だけ見て帰ろう。
そう思いながら入口を覗くと、奥でカイがタイヤを外していた。
「カイ」
「ん?」
顔を上げたカイが、悠斗を見て眉を上げる。
「珍しいな。予約なし」
「ここ、病院じゃないでしょ」
「似たようなもんだろ。車の」
いつもの調子だった。
それだけで、肩に入っていた力が少し抜ける。
「何かあった?」
カイが工具を置いた。
悠斗は一瞬だけ迷ってから答える。
「タクシー、クビになった」
「あー……」
カイは気まずそうに頭を掻いた。
「やっぱ駄目だったか」
「うん」
「まあ、警察から逃げたら会社も困るわな」
「分かってる」
「怒んなよ」
「怒ってない」
カイは少し笑い、自販機で缶飲料を二本買った。
一本が悠斗の方へ飛んでくる。
「ほら」
「ありがとう」
「奢り。失業祝い」
「祝いなんだ」
「じゃあ失業お疲れ会」
「もっと嫌だよ」
二人で工場の隅にある古いベンチへ座る。
目の前では別の整備士がエンジンをかけ、低い排気音が建物の中へ響いた。
「次どうすんの?」
カイが聞く。
悠斗は缶を両手で持ったまま、少し考えた。
「まだ決めてない」
「ふーん」
「……裏の仕事は続けると思う」
カイは驚かなかった。
「そうか」
「止めないの?」
「犯罪相談は俺にすんなって言っただろ」
「言ってた」
「俺が止めたらやめんの?」
悠斗は答えられなかった。
カイはその顔を見て、小さく肩をすくめる。
「じゃあ意味ないじゃん」
軽い口調だったが、突き放してはいなかった。
「ただ、食えなくなったら言えよ。飯くらいは奢る」
「仕事は?」
「店で雇ってほしいって?」
「いや、そういう意味じゃ……」
「お前、車直せねえだろ」
「……はい」
「まずそこからだな」
カイが笑う。
悠斗もつられて笑った。
タクシーを失った。
収入もなくなった。
それは普通に困る。
けれど、タクシーを始めたからできた友人まで、一緒に失うわけではなかった。
そのことが今は少しだけ嬉しかった。
◇
夜。
安宿へ戻ると、《仮》にメッセージが届いていた。
『蓮:飯行かね?』
『アキラ:俺いける』
『ナナ:今なら』
『シオン:行く』
悠斗は画面を見つめた。
少し前までの自分なら、仕事を失った日は一人で部屋へ籠もっていたと思う。
誰かへ話す理由も、呼ばれる相手もいなかった。
今は違う。
『悠斗:行く』
送信してから、少しだけ迷う。
『悠斗:あと、タクシークビになった』
数秒で返事が来た。
『蓮:マジ?』
『アキラ:やっぱ処分出たか』
『ナナ:大丈夫?』
『シオン:飯食え』
悠斗は思わず笑った。
『悠斗:食べます』
制服はもうない。
明日から営業所へ行く必要もない。
表の収入を失った不安は、確かに残っている。
それでもスマートフォンには、今夜どこで飯を食うか相談する通知が次々と増えていった。
悠斗は上着を手に取り、部屋を出た。
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