第1章 第31話 赤と青の光
翌日の昼過ぎ、ユウジから詳しい連絡が届いた。
ちょうどタクシーの休憩時間で、悠斗は営業所近くのコンビニ駐車場に停めた車内で、遅い昼食を取っていた。
フロントガラスの向こうでは、配送トラックが何台も大通りを行き交っている。隣の区画では、作業着姿の男が紙コップのコーヒーを片手に電話をしていた。
悠斗のスマートフォンが震える。
『南部。二十二時』
『古い配送会社の倉庫からバッグ一つ回収』
『指定場所まで運べば千五百』
昨夜なら、そのまま場所だけ聞いていたかもしれない。
けれど、文字を眺めているうちに引っかかった。
『悠斗:誰の荷物?』
返事は少し遅れて届く。
『ユウジ:依頼人の私物』
『悠斗:依頼人の名前は?』
『ユウジ:俺の知り合い』
名前は出てこない。
悠斗は眉を寄せた。
最初に聞くべきだったことだ。
『悠斗:倉庫には入っていいの?』
『ユウジ:話は通ってる』
これも曖昧だった。
断ることはできる。
今からでも遅くない。
スマートフォンを持ったまま、悠斗はしばらく考えた。
昨日の仕事も最初は怪しかった。
それでも現地で本人と書類を確認し、条件が変われば帰るつもりで動いた結果、何事もなく終わった。
今回も、現場を見て変なら帰ればいい。
全部を最初から断らなくても、自分で判断できる。
そんな考えが浮かんだ。
『悠斗:分かった。変だったら帰るから』
『ユウジ:好きにしろ』
送信したあとも、胸の奥には小さな違和感が残っていた。
けれど、それを「断る理由」とまでは考えなかった。
◇
夜。
銀色のセダンの助手席にはアキラが座っていた。
「で、結局依頼人の名前は教えてもらってない?」
「うん」
「怪しいな」
「やっぱり?」
「怪しくないと思ってたの?」
「……怪しいとは思ってる」
「じゃあ何で来たんだよ」
悠斗は返事に詰まった。
南部へ向かう大通りは、夜でも交通量が多い。信号待ちの列の向こうでは、スーパーから買い物客が出てくるところだった。
「前も、現地で確認したら大丈夫だったから」
ようやく答える。
アキラが横目で見た。
「それ、今回も大丈夫って理由にはならなくね?」
「……うん」
「帰る?」
すぐには答えられなかった。
ここまで来た。
ユウジにも行くと伝えた。
千五百ドル。
そんな考えが一瞬ずつ頭を過ぎる。
「場所だけ見る」
「悠斗」
「中に入る前に変だったら帰るから」
自分でも、少し言い訳っぽいと思った。
アキラは数秒黙ったあと、シートへ深く座り直す。
「分かった。でも俺がヤバいって言ったら帰ろう」
「うん」
「お前が『まだいける』って言っても」
「……分かった」
そこまで念を押され、悠斗は苦笑するしかなかった。
◇
指定された場所は、南部でも港湾地区に近い一角だった。
昼間なら配送車両が行き交う場所だが、午後十時を過ぎた今は人通りが少ない。古い倉庫と小さな物流会社が並び、フェンス越しに防犯灯が点々と浮かんでいる。
目的の建物は、既に営業を終えたらしい配送会社だった。
正面の駐車場に灰色のワゴンが一台停まっている。
「誰かいる」
悠斗が速度を落とす。
「依頼人側かな」
「ユウジに聞く?」
「聞く」
少し離れた路肩へ車を停め、メッセージを送る。
『悠斗:灰色のワゴンいるけど関係者?』
すぐ既読が付いた。
『ユウジ:たぶんそう』
「たぶん?」
アキラが画面を見て、露骨に顔をしかめた。
「もう帰る?」
悠斗も迷った。
その時、倉庫の脇から男が一人出てきた。
黒いジャケット姿で、こちらへ片手を上げる。
「神谷?」
名前を呼ばれた。
悠斗とアキラが顔を見合わせる。
「知ってる人?」
「知らない」
男が近づいてくる。
「ユウジから聞いてる。バッグ一個持ってくだけだろ?」
「……そうです」
「中にある。すぐ終わる」
態度は普通だった。
焦っているようにも見えない。
アキラが先に口を開く。
「ここの人ですか?」
「前に働いてた」
「今は?」
「もう辞めたよ」
アキラの目が少し細くなる。
「倉庫、入っていいんですか?」
「大丈夫だって。俺の荷物取りに来ただけだから」
「誰に許可取ってるんです?」
男は一瞬黙った。
「細かいな」
その返事だけで十分だった。
アキラが悠斗を見る。
帰ろう。
口に出さなくても分かった。
「すみません。やめます」
悠斗が言う。
「は?」
「聞いてた話と違うので」
「違わねえよ。荷物持ってくだけだろ」
「でも――」
突然、倉庫の建物側から鋭い電子音が鳴った。
悠斗が振り向く。
「何?」
アキラも目を見開いた。
男の顔色が変わる。
「チッ」
「警報?」
どうやら倉庫の警備設備が作動したらしい。
男は舌打ちすると、倉庫脇へ走り出した。
「おい!」
アキラが叫ぶ。
悠斗の心臓が一気に速くなる。
その頃には、遠くからサイレンが聞こえ始めていた。
この地域では、夜間の警報が警備会社へ自動通報され、異常が確認されれば警察も現場へ向かう。
そんな仕組みがあることを、悠斗は後になって知ることになる。
今はただ、赤と青の光が交差点の向こうへ現れたことしか分からなかった。
「警察……」
アキラが低く呟く。
「車戻ろう」
二人は銀色のセダンへ向かう。
その動きを、到着した警察官も見ていた。
「そこの二人、止まってください!」
スピーカーではなく、車外へ出た警察官の声が飛ぶ。
悠斗たちは足を止めた。
その間に、別の警察官が倉庫脇へ走っていった男を追う。
「銀色のセダンには乗らないでください。その場で待って」
明確な指示だった。
ここで待てばいい。
自分たちはまだバッグへ触っていない。
倉庫へ入ってもいない。
事情を話せば――。
そう考えた瞬間、別の恐怖が頭を占めた。
スマートフォンにはユウジとのやり取りが残っている。
今日だけではない。
これまでの運搬。
送迎。
怪しい仕事。
違法レース。
もし調べられたら、全部繋がるかもしれない。
今回何もしていないだけでは済まないのではないか。
そう思った途端、呼吸が浅くなる。
「悠斗」
アキラが横で低く言う。
「止まろう」
「……うん」
本当は、そうするべきだった。
なのに、悠斗の足は車へ向かっていた。
「悠斗!」
「ごめん!」
「待てって!」
運転席へ飛び乗る。
アキラも置いていかれるわけにはいかず、助手席へ乗り込んだ。
「何してんだよ!」
エンジンをかける。
「銀色のセダン! エンジンを止めてください!」
はっきり自分たちへ向けられた声だった。
それでも悠斗はアクセルを踏んだ。
車が駐車場から飛び出す。
「悠斗!」
「ご、ごめん!」
「謝る前に止まれ!」
後ろでサイレンが鳴った。
赤と青の光がバックミラーを染める。
逃げなければ。
でも、どこへ?
前世で何度も見た追跡劇とは違う。
ここは地図の上ではない。
交差点には普通の車がいる。
歩道には人がいる。
無理に曲がれば誰かを巻き込む。
悠斗は速度を上げきれなかった。
止まる決断もできない。
「左から来る!」
アキラの声。
別の交差点から、もう一台の警察車両が現れた。
悠斗は反射的にブレーキを踏む。
前方にも一台。
後ろにもいる。
「……終わった」
アキラが呟く。
悠斗は両手でハンドルを握ったまま、ゆっくり路肩へ車を寄せた。
サイレンの音だけが耳に残った。
◇
「運転手、両手を見える位置に!」
言われた通りにする。
ドアを開けるよう指示され、車外へ出た。
膝が震えていた。
地面へ手をつき、腕を後ろへ回される。
カチッ、と乾いた金属音がした。
手錠だった。
画面越しでは何度も見た。
今は自分の手首に掛かっている。
思っていたより重く、冷たかった。
「神谷悠斗、十七歳。間違いない?」
「……はい」
声が上手く出ない。
少し離れたところでは、アキラも拘束されていた。
「だから止まれって言っただろ!」
「……ごめん」
「俺まで巻き込んでんだからな!」
その言葉が胸に刺さった。
「……本当に、ごめん」
自分一人ならまだしも。
アキラは止まろうと言っていた。
それなのに自分が逃げたせいで、今こうして一緒に手錠を掛けられている。
悠斗は顔を上げられなかった。
その時、別の警察車両から女性警察官が降りてきた。
濃紺の制服。
肩口でまとめた黒髪。
見覚えのある顔。
向こうも悠斗を見るなり、足を止めた。
「……神谷君?」
桐生アリサだった。
悠斗は何も答えられなかった。
アリサは銀色のセダンを見て、それから手錠を掛けられている悠斗を見る。
驚きは一瞬だけだった。
すぐ警察官の表情へ戻る。
「この前買ったって言ってた車よね」
「……はい」
「そう」
それだけだった。
「桐生巡査、この二人は警報の鳴った倉庫前にいた車両の乗員です。停止指示後に逃走しました」
「分かりました」
アリサは悠斗へ近づく。
「怪我は?」
「ないです」
「同乗者は?」
「俺もないです」
アキラが答える。
「分かりました」
事務的に確認したあと、アリサは悠斗へ向き直った。
「詳しい話は署で聞きます」
そこでほんの少し間を置く。
「……前に言ったわよね。赤灯つけて、あなたの後ろを走ることにならないといいって」
悠斗は俯いた。
「……はい」
「残念ね」
怒鳴られるより、その一言の方が重かった。
◇
警察署の取調室は、白い壁に机と椅子が置かれただけの簡素な部屋だった。
天井の照明は明るく、映画で見るような薄暗さもない。
だからこそ、ここが現実だという感覚から逃げられなかった。
悠斗は聞かれたことへ答えた。
ユウジから仕事を受けたこと。
バッグを回収する予定だったこと。
中身は知らなかったこと。
倉庫前にいた男とは初対面だったこと。
倉庫へ入っていないこと。
バッグにも触っていないこと。
そして、警察官から止まるよう指示されたのに逃げたこと。
そこだけは言い訳できなかった。
「なぜ逃げた?」
向かいの警察官に聞かれる。
悠斗は膝の上で手を握る。
「……怖かったからです」
「何が?」
「捕まるのが」
「何もしていないなら、なぜそこまで怖かった?」
言葉に詰まった。
今回だけなら、確かにそうだった。
けれど、自分には他にも隠したいことがあった。
「……今までにも、怪しい仕事をしてたからです」
全部を詳しく話したわけではない。
それでも、逃げた理由くらいは誤魔化せなかった。
調べの結果、倉庫から回収する予定だったバッグには、数日前に盗まれた小型電子機器が入っていたことが分かった。
悠斗たちはバッグへ触れておらず、盗難そのものへの関与を示す証拠も、その時点では確認されなかった。
一方で、警察官の停止指示を無視して車を走らせたことは、悠斗自身が選んだ行動だった。
深夜。
十七歳という年齢のため、大人の被疑者とは別の区画へ通された。
簡素な寝台と、無機質な壁。
スマートフォンも財布もない。
横になる気にもなれず、悠斗は壁へ背中を預けた。
最初から依頼人の名前を確認していれば。
アキラが帰ろうと言った時に帰っていれば。
警察に止まれと言われた時、止まっていれば。
何度考えても、最後は自分の判断へ戻ってくる。
しかも失敗したのは自分だけではない。
アキラまで巻き込んだ。
ゲームなら、逮捕されても時間が経てば街へ戻る。
配信では、それすら笑い話になることがあった。
今は笑えなかった。
手首にはまだ、手錠の跡が薄く残っていた。
◇
翌日の午後。
長い確認と手続きを終え、悠斗はようやく警察署の外へ出た。
盗品については今後も確認が続くものの、現時点で悠斗自身が盗難へ関与した証拠はない。
一方、停止指示を無視して逃走した件については、高額の罰金と違反点数が付くことになった。
加えて、タクシー会社への報告も必要だと説明された。
これが仕事へどこまで響くのかは、まだ分からない。
「最悪だ……」
思わず呟く。
「俺の方が言いたいけどな」
隣から声がした。
アキラだった。
「……ごめん」
「もう聞いた」
「本当にごめん」
「それも聞いた」
怒っている。
当然だ。
「俺、止まれって言ったからな」
「うん」
「次また同じことしたら、今度は俺だけ降りるぞ」
「……うん」
「分かればいい」
許されたわけではない。
それでも隣を歩いてくれている。
悠斗が顔を上げると、署の前の道路脇に見覚えのある青いクーペが停まっていた。
ボンネットにもたれている蓮。
その横にはナナ。
少し離れたところに、シオンまでいる。
「……何で?」
思わず足が止まった。
蓮がこちらに気づく。
「遅え!」
「え?」
「迎え」
当たり前のように言われた。
ナナが腕を組む。
「連絡なくなって心配してたら、アキラから一回だけ『捕まった』って来たの」
「送れる時に送った」
アキラが言う。
「シオンまで……」
「暇だった」
シオンはそれだけ答えた。
たぶん、本当に暇だっただけではない。
悠斗は何か言おうとして、声が出なかった。
生前、画面の向こうで何度も見た場面が頭に浮かぶ。
仲間が捕まった。
だから誰かが迎えに行く。
たったそれだけのことが、あの頃の悠斗にはどうしようもなく眩しく見えていた。
「悠斗?」
ナナが首を傾げる。
「どうしたの?」
「……いや」
一度だけ目を伏せ、悠斗は首を振った。
「ありがとう」
蓮が青いクーペの鍵を鳴らす。
「とりあえず飯な。お前ら昨日からまともに食ってないだろ」
「俺、めっちゃ腹減った」
アキラが答える。
「俺も」
悠斗も続ける。
「じゃあ決まり」
歩き出した仲間たちの後ろを、悠斗は少し遅れて追った。
初めての逮捕は、思っていたよりずっと惨めだった。
それでも警察署を出た先には、自分を待っている人たちがいた。
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