第1章 第29話 桐谷タクミ
翌日の夜、悠斗は銀色のセダンを南部へ走らせていた。
日中に降った雨はとうに上がっていたものの、路肩にはまだ細い水溜まりが残っている。工業地帯へ近づくにつれて高層ビルは減り、代わりに低い倉庫や修理工場、大型車両の出入りする物流会社が目立つようになった。
助手席にはアキラ。
後部座席には蓮が座っている。
「やっぱ悠斗の車、後ろ狭いな」
蓮が膝を動かしながら文句を言う。
「普通のセダンだから」
「俺のクーペよりは広いけど」
「じゃあ文句言うなよ」
「乗せてもらう側が一番自由に文句言えるんだぞ」
「初めて聞いた」
アキラが笑う。
「嫌なら自分の車で来ればよかっただろ」
「三台で同じ場所行くの面倒じゃん。それに帰り悠斗の運転見れるし」
「何で採点される前提なんだよ……」
「前より良くなったぞ」
「それはどうも」
悠斗は苦笑しながらハンドルを切った。
会話をしていても、胸の奥には小さな緊張が残っている。
今日は知らない人間に会う。
昨日、自分からメッセージを送った相手だ。
タクミから返事が来た時は安心したものの、実際に顔を合わせるとなると別だった。
何を話せばいいのか。
変に沈黙したらどうするのか。
そんな考えが頭の隅に浮かぶ。
「次の角、右」
アキラが言う。
「うん」
悠斗はウインカーを出した。
細い道路へ入り、古びた雑居ビルの裏手にある駐車場へ車を停める。
待ち合わせ場所は、その一階に入った小さなカフェだった。
◇
店内には、夜勤前らしい作業着姿の客が何人かいた。
カウンターの向こうでは若い店員が常連らしいトラック運転手と笑いながら話している。壁際には地元のライブや中古部品市のチラシが何枚も貼られ、店の外を大型トラックが通るたび、低い振動が窓ガラスへ伝わってきた。
奥の四人掛けテーブルに、一人の男が座っている。
短く整えた黒髪。
黒縁眼鏡。
薄手のジャケットの下にグレーのTシャツ。
テーブルの上にはアイスコーヒーと、小型のタブレット端末が置かれていた。
アキラが手を上げる。
「タクミ」
「遅い」
「まだ時間前だぞ」
「俺は十分前に来てる」
後ろから蓮が口を挟んだ。
「そういう奴、知ってる」
タクミが蓮を見る。
「久我?」
「名前知ってんの?」
「レース会場で何回か見た。直接喋ったことはほとんどないけど」
「俺、有名だからな」
「騒がしい車で覚えてるだけ」
「車を悪く言うなよ」
「お前を褒めてない」
蓮が不満そうな顔をする。
アキラは笑いながら悠斗を示した。
「こっちが神谷悠斗」
視線が向く。
「……初めまして」
少しだけ声が硬くなった。
「桐谷タクミ。よろしく」
「よろしくお願いします」
「敬語じゃなくていいよ。俺、そういうの気にしないから」
「……じゃあ、よろしく」
「うん」
タクミはそれ以上特に何も言わない。
無愛想というほどではないが、アキラほど人懐っこくもない。
悠斗にはむしろ話しやすかった。
三人も席につき、飲み物を注文する。
「で」
タクミがストローを指先で回した。
「水城から、一回会いたいって聞いたけど」
「うん」
「仕事あるの?」
「まだ……ない」
タクミの眉が少し上がった。
「ないの?」
「その……いきなり知らない人と仕事するより、先に一回話した方がいいかなって思って」
悠斗は一度言葉を区切る。
「俺、そういうの得意じゃないし」
「知らない奴と組むのが?」
「それもある」
少し考えてから付け足す。
「危ないことするなら、余計に」
タクミは数秒黙ったあと、小さく頷いた。
「まあ、それは分かる」
悠斗は少し肩の力を抜いた。
「アキラから、機械とか電気関係に詳しいって聞いた」
「その辺は得意」
「どんなの?」
「車の電気系統とか、監視カメラ、通信機器、電子ロック。ネットワークも触れるけど、何でもできるわけじゃない」
「できないこともある?」
「普通にある」
即答だった。
「現物見ないと分からないこと多いし。相手の設備も知らないのに『何分で何とかできる?』って聞かれるの、一番困る」
蓮が笑う。
「そういうの聞きたくなるじゃん」
「お前みたいなのが一番困る」
「まだ何も頼んでないだろ」
「そのうち頼みそう」
「偏見だ」
悠斗も少し笑った。
何でもできる人物ではない。
むしろ、できないことを最初に言える。
その方が信用できる気がした。
「タクミからも聞きたいことある?」
悠斗が尋ねると、タクミが少し意外そうな顔をした。
「俺から?」
「俺だけ色々聞くのも変だし」
「じゃあ……神谷は今何してる?」
「昼はタクシー」
「それは水城から聞いた。裏の方」
「運搬とか、送迎とか。人と一緒に動く仕事も少し増えた」
「銃は?」
「持ってない」
悠斗は首を振った。
「この前、シオンに射撃場へ連れていってもらって、初めて撃っただけ」
「どうだった?」
「思ってたより怖かったし、全然当たらなかった」
「正直だな」
「上手いって言っても、撃てばすぐ分かるし」
「それはそう」
タクミの口元がわずかに緩んだ。
その後もしばらく、仕事の話だけではなく、車や南部の店、最近街で増えている盗難事件の噂など、とりとめのない会話が続いた。
悠斗は途中から、面接のように質問するのをやめた。
蓮が妙な車の話を始めれば聞く。
アキラとタクミが昔一緒になった仕事の話をすれば、その時だけ気になることを聞く。
タクミも少しずつ言葉が増えていった。
やがて、飲み物が半分ほど減った頃。
タクミがタブレット端末を伏せた。
「実は今日来たの、俺にも理由あるんだよ」
悠斗が顔を上げる。
「理由?」
「一件、仕事来てる」
「今日?」
「昼に」
タクミはスマートフォンを取り出し、画面を確認する。
「事故で動かなくなった車から、車載機器を回収してほしいって依頼。明日の夜」
「普通の修理?」
「だったら俺も悩んでない」
タクミがテーブルへ肘をつく。
「場所が倉庫。依頼主は自分の車だって言ってる。書類も見せるらしいけど、機器だけ急いで外してほしいって」
「何を外すの?」
「車載カメラと通信系の機器」
アキラの表情が少し変わる。
「理由は?」
「個人的なデータが入ってるから、回収したいって」
「……怪しいな」
蓮も先ほどまでの軽い表情を消した。
「俺もそう思ってる」
タクミはスマートフォンをしまう。
「報酬は千二百。二人まで手伝い連れてきていいって言われた」
「それで、俺たちに会おうと思った?」
悠斗が尋ねる。
「半分はそれ」
タクミはあっさり認めた。
「水城から、最近何人かで動いてる奴らいるって聞いてたし。一回会って、変じゃなかったら相談しようと思ってた」
アキラが笑う。
「お互い様じゃん」
「そういうこと」
悠斗は少し意外だった。
自分たちだけがタクミを見ていたわけではない。
タクミもこちらを見に来ていた。
その方が、妙に納得できた。
「受けるつもり?」
「まだ決めてない」
「分からないこと、聞いた?」
「所有者名と車の場所は聞いた。事故のことは詳しくない。俺が知らないだけで、普通に合法かもしれない」
断定しないところも、悠斗には好ましく思えた。
「じゃあ……調べてからでもいいんじゃない?」
悠斗が言う。
「何を?」
「車とか依頼主とか。分かる範囲だけ」
「できる?」
「俺じゃなくて」
自然とナナの顔が浮かんだ。
「そういうの調べるの得意な知り合いがいる」
タクミが少し考える。
「信用できる?」
「……俺は、できると思ってる」
まだ「絶対」とは言えない。
けれど、少なくともこれまでナナが嘘を断定して伝えたことはなかった。
「料金は?」
「必要なら聞く」
「タダで頼むつもりはない」
その返答に、悠斗は昨日の会話を思い出して少し笑った。
「それならナナも嫌がらないと思う」
「ナナ?」
「雨宮ナナ。街の噂とか、ネットに出てる情報を拾うのが得意」
「へえ」
「確実じゃないことは、確実じゃないって言うから」
「それ助かる」
悠斗はスマートフォンを取り出した。
「依頼主の名前と、車の情報送ってくれる?」
「送る」
すぐにタクミからメッセージが届く。
悠斗は内容を確認し、《仮》のグループチャットではなく、ナナとの個別画面を開いた。
『急ぎじゃないんだけど、見てほしい依頼がある。調査頼むならいくらくらい?』
送信する。
「先に値段聞くんだ」
タクミが言った。
「昨日、そういう話になったから」
「ちゃんとしてるな」
「金で揉めたくないだけ」
「それ大事」
タクミの返事は早かった。
その一言だけで、前の仲間と何があったのかを全部聞かなくても、少し分かる気がした。
ほどなくしてナナから返信が届く。
『ナナ:内容による。何調べるの?』
悠斗はタクミへ画面を見せた。
「説明していい?」
「うん」
悠斗が文章を打ち始める横で、蓮がタクミのアイスコーヒーへ手を伸ばした。
「一口」
「自分の飲め」
「もうない」
「買えよ」
「冷たいな」
「それ俺のだから」
蓮の手が払われる。
アキラが笑った。
「お前ら、さっきまでほぼ初対面だろ」
「飲み物に初対面関係ある?」
「ある」
タクミが即答する。
悠斗はメッセージを送り終え、顔を上げた。
目の前では、蓮がまだタクミのコーヒーを狙っている。
アキラはそれを面白そうに眺めていた。
タクミも本気で怒っている様子はない。
悠斗は少し遅れて笑った。
明日の仕事を受けるかどうかは、まだ決まっていない。
タクミとこれから何度会うのかも分からない。
それでも今夜は、最初に想像していたほど息苦しくなかった。
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