第1章 第24話 逃げなかった夜
銀色のセダンを空き地から出した時、サイレンはまだ遠かった。
それでも、誰かが「気のせいだろ」と笑っていられる距離ではない。
バックミラーには、先ほどまで並んでいた車たちが次々と別方向へ散っていく姿が映っていた。ハルトの赤いスポーツカーも、蓮の青いクーペも、すでに暗い道路の向こうへ消えている。
悠斗は一人だった。
「……落ち着け」
自分へ言い聞かせる。
レースは終わっている。
今は速く走る場面ではない。
少なくとも、まだ警察が自分を追っているとは限らない。
サイレンが鳴っただけで慌てて速度を上げれば、それだけで目立つ。
悠斗は呼吸を整え、東部の郊外道路を流れに合わせて走った。
雨上がりの路面は黒く濡れ、街灯の少ない道ではヘッドライトが照らす範囲だけが妙に明るい。タイヤが浅い水たまりを踏むたび、細かな水音が車内へ伝わってくる。
前方に分岐が見えた。
右へ行けば市街地。
左へ行けば工業地区の外周。
どちらへ行くか迷った、その時だった。
バックミラーの遠くに、赤と青の光が現れた。
「……来た」
心臓が一気に速くなる。
警察車両はまだ遠い。
自分を追っているのか。
別の参加者を追っているのか。
分からない。
悠斗は反射的にアクセルを踏み込みかけた。
けれど、その足を止める。
自分の車。
自分の名義。
自分の免許。
この車には、自分の名前が紐づいている。
今ここで逃げたとしても、それで全部が消えるわけではない。
ナンバーを見られれば、後から辿られる可能性だってある。
「……まだ、俺を追ってるって決まったわけじゃない」
声に出すと、少しだけ考えが整理された。
警察車両は少しずつ近づいてくる。
悠斗はそのまま直進した。
速度を上げない。
乱暴に車線を変えない。
前方の信号が赤へ変わる。
悠斗は減速し、停止線の手前で車を止めた。
「ここで止まるのか……」
自分で決めたことなのに、怖い。
数分前まで違法レースに参加していたのだから当然だった。
バックミラーの赤と青が、次第に大きくなる。
警察車両は悠斗の二台後ろまで来た。
一台前の車が左へ寄る。
今度は悠斗の真後ろ。
車内へ赤色灯の光が差し込み、ルームミラーの縁まで赤と青に染まった。
悠斗は前だけを見る。
手のひらに汗がにじむ。
逃げるなら今か。
そんな考えが一瞬だけ浮かぶ。
けれど、ここで急発進したら、それこそ自分から怪しいと知らせるようなものだ。
数秒後、警察車両のヘッドライトが一度だけ強くミラーに反射した。
「……見られてる?」
ナンバーを確認されたのかもしれない。
ただ前が詰まっていただけかもしれない。
分からないことが、余計に怖かった。
信号はまだ赤。
心臓の音ばかりが大きく聞こえる。
やがて警察車両が少し右へ寄った。
悠斗の横へ並ぶ。
助手席側の警察官がこちらを一瞬見たような気がした。
悠斗は視線を正面へ固定する。
次の瞬間、警察車両はサイレンを鳴らしたまま前へ出た。
交差点へ差しかかると、そのまま右折していく。
「……行った」
悠斗は数秒、動けなかった。
信号が青へ変わる。
後ろの車から短くクラクションを鳴らされる。
「あ、すみません」
聞こえるはずもないのに呟き、悠斗は車を発進させた。
警察から逃げ切ったわけではない。
そもそも追われていたかどうかも分からない。
それでも今夜、少なくとも一つだけ分かったことがある。
怖いからといって、反射的に逃げればいいわけではない。
◇
それからしばらく、何事もなかった。
けれど気持ちは落ち着かなかった。
サイレンが聞こえるたびに肩が反応し、ミラーへ光が映るたび胸が強く鳴る。
さっきの警察車両は、どうやら別の参加者を追っていたらしい。
だからといって安心できるわけではない。
警察がレースの存在へ気づいていることは確かだった。
悠斗が東部の小さな町へ入った頃、スマートフォンが何度も震えた。
運転中なので触らない。
ガソリンスタンドの駐車場へ入り、エンジンを切ってから画面を確認する。
《仮》に通知が並んでいた。
『蓮:生きてる?』
『アキラ:何があった?』
『ナナ:蓮が急にそれだけ送ってきたんだけど』
『蓮:レース警察来た』
『アキラ:悠斗走ってたやつ?』
『ナナ:悠斗大丈夫?』
悠斗はすぐに返信した。
『悠斗:大丈夫。今止まってる』
すぐに既読が三つ並ぶ。
『アキラ:捕まってない?』
『悠斗:捕まってない』
『蓮:よかった』
『ナナ:怪我は?』
『悠斗:ない』
『アキラ:なら一回落ち着いてから帰れ』
『蓮:車変な音してないかも見とけ』
『悠斗:そこなんだ』
『蓮:そこ大事だろ』
悠斗は小さく笑った。
張り詰めていたものが、少しだけ緩む。
◇
それから十分ほどして、今度は蓮から直接電話がかかってきた。
画面に名前が表示される。
電話自体はいまだに好きではない。
けれど蓮からなら、以前ほど身構えなくなっていた。
「もしもし」
『お、生きてた』
「メッセージしただろ」
『声聞いた方が早い』
電話の向こうからエンジン音が聞こえる。
「蓮は?」
『俺も平気。今ハルトと合流した』
「ハルトさんも?」
『無事。何台か警察に見つかったっぽいけど、今のところ事故ったって連絡は来てない』
「よかった……」
『お前、追われた?』
「分からない。一台後ろまで来た」
『マジで?』
「信号で止まってたら真後ろに来て、横まで並ばれた」
『怖っ』
「本当に怖かった」
『逃げなかったの?』
「一瞬は考えた」
悠斗は正直に答えた。
「でも、俺を追ってるか分からなかったし。この車、自分名義だから。そこで急に逃げたら余計にまずい気がして」
蓮が少し黙る。
『まあ、今回はそれで良かったな』
「うん」
『でも、結果的に何もなかったからって、次も同じでいいとは限らないからな』
「分かってる」
『あとさ』
「何?」
『初レースどうだった?』
悠斗は少し考えた。
「楽しかった」
『警察来たのに?』
「それは怖かった」
『どっちだよ』
「両方」
電話の向こうで蓮が笑う。
『じゃあ車壊れてないなら、明日カイんとこ持ってけ』
「え?」
『初めてあんな走りしたんだろ。タイヤとかブレーキ見てもらった方がいい』
「カイに何て言うんだよ」
『自分で考えろ』
「そこは投げるんだ」
『じゃ、俺ハルトと話あるから』
「うん。ありがとう」
『何が?』
「連絡くれたから」
一瞬だけ間があった。
『……別に普通だろ』
「そっか」
『じゃあまたな』
電話が切れた。
悠斗は画面を見て、少しだけ笑った。
◇
翌日の午後。
仕事を終えた悠斗は、銀色のセダンでカイのいる整備工場へ向かった。
工場には金属音と工具の作動音が響いている。
カイは別の車の下から這い出してくると、悠斗のセダンへ目を向けた。
「何?」
「ちょっと見てほしくて」
「なんか音する?」
「いや、そういうのはない」
「じゃあ何した」
「……少し走った」
「少し?」
カイが片眉を上げる。
「とりあえず見て」
「はいはい」
カイはしゃがみ込み、タイヤやホイールを順番に確認した。
「思ったより使ってんな」
悠斗の肩がわずかに動く。
「結構飛ばした?」
「……少し」
「東で?」
悠斗は答えなかった。
カイがゆっくり顔を上げる。
「お前、まさかハルトのレース出た?」
「……うん」
「マジかよ」
怒鳴るわけではない。
ただ、本気で呆れた顔をされた。
「買って何日だよ」
「まだ一週間経ってない」
「よく分かってんじゃん」
「ごめん」
「俺に謝ることじゃねえって」
カイは立ち上がり、手袋についた汚れを払った。
「お前の車だし、お前の金だし。ただ事故って持ってこられたら笑えねえからな」
「うん」
「順位は?」
「六台中五位」
カイは一瞬黙った。
「……遅っ」
「蓮にも言われた」
「じゃあ安心した」
「なんで?」
「初回で一位とか言い出したら、そっちの方が怖いわ」
悠斗は思わず笑った。
「車、大丈夫?」
「今のところ大きい異常はなさそう。ちゃんと見るけど」
カイはそう言って、再び車の確認へ戻った。
その時、ポケットのスマートフォンが震えた。
《仮》ではない。
画面に表示された名前を見て、悠斗の表情が少し変わる。
ユウジ。
最近はほとんど直接仕事が来なくなっていた。
『仕事ある。二、三人連れてきてもいい』
悠斗は画面を見つめる。
続けて、もう一通。
『報酬三千ドル』
高い。
最初に浮かんだのは、それだった。
以前なら金額だけで心が動いていたかもしれない。
けれど今は違う。
三千ドルなら、それなりの理由がある。
悠斗はすぐに承諾せず、返信欄を開いた。
『内容は? 誰の仕事? 警察が絡む可能性と、武器が必要かも知りたい』
送信する。
数秒待ってから、悠斗は《仮》も開いた。
『悠斗:ユウジから仕事来た。二、三人連れてきていいって』
送信。
既読が一つ。
二つ。
三つ。
ほどなくして、最初に返ってきたのはアキラだった。
『アキラ:条件聞いてから決めよう』
次に蓮。
『蓮:車いるなら俺行ける』
最後にナナ。
『ナナ:依頼人の名前分かったら調べる』
悠斗は三つの返信をしばらく見つめた。
誰を連れていくか。
何を任せるか。
それを考える仕事が、初めて自分のところへ来た。
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