第1章 第23話 初めてのストリートレース
違法レース当日の夜、悠斗はいつもより少し早くタクシーの勤務を終えた。
会社の更衣室で制服を脱ぎ、駐車場へ出る。
夕方まで降っていた雨はすでに上がっていたが、路面にはまだところどころ濡れた跡が残っている。従業員用駐車場の隅では、銀色のセダンが街灯を鈍く反射していた。
スポーツカーでもない。
速そうな見た目でもない。
それでも今夜は、この車で初めてレースへ参加する。
キーを握った時、手のひらが少し湿っていることに気づいた。
「……緊張してるな」
当然だった。
前世では、こういう光景を何度も画面越しに見てきた。車が並び、周囲が騒ぎ、合図と同時に一斉に走り出す。
見ている時は簡単だった。
速い。
遅い。
上手い。
危ない。
好き勝手に感想を言えた。
今夜は、自分が運転席に座る。
悠斗はエンジンをかけると、ハルトから送られてきた集合場所へ向かった。
◇
中央地区を離れて東へ進むにつれ、街灯の間隔が広くなっていった。
高層ビルは低い建物へ変わり、やがて道路脇には乾いた土地と資材置き場が目立つようになる。
指定された場所は、幹線道路から少し外れた古い倉庫街の外れだった。
広い空き地には、すでに十数台の車が集まっている。
低く響くエンジン音。
タイヤと油の匂い。
缶飲料を片手に話す者。
ボンネットを開け、最後の確認をしている者。
何人かは笑っているが、その一方で運転席に座ったまま黙って前を見ている者もいる。
配信で見た賑やかさと似ている。
けれど、こちらの方がずっと生々しかった。
悠斗がゆっくりと空き地へ入っていくと、一瞬だけ周囲の視線が集まった。
無理もない。
並んでいるのは古いクーペや軽量スポーツ車が中心で、そこへ銀色の四ドアセダンが入ってきたのだから目立つ。
「来たな」
赤いスポーツカーの横から、ハルトが手を上げた。
「こんばんは」
「固い固い。今日は面接じゃねえぞ」
「緊張してるんです」
「顔見りゃ分かる」
ハルトが笑う。
少し離れた場所には、蓮の青いクーペも停まっていた。
「蓮も走るの?」
「今日は見学」
「珍しい」
「初心者枠に俺が混ざったら空気悪くなるだろ」
「自分で言うんだ」
「事実だし」
蓮は平然としている。
ハルトがその横で肩をすくめた。
「今日は俺、初心者枠の進行任されてんだよ。主催の奴が別の組で走るから」
「ハルトさんが?」
「何その不安そうな顔」
「いや……」
「大丈夫だって。毎回やってるわけじゃねえよ」
そう言われて少し安心する。
ハルトが手元の端末を確認した。
「あと、お前の車で問題ないからな」
「聞こうと思ってました」
「初心者枠で車種なんか揃えねえよ。むしろ速すぎる車持ってきて調子乗る方が面倒だ」
ハルトは銀色のセダンを見ながら笑った。
「最初は遅くていい。壊さず帰って、また次も来られる方がいいからな」
軽い口調だったが、その言葉は妙に現実的だった。
◇
今回の初心者枠は六台。
悠斗の銀色のセダン。
古い二ドアクーペが二台。
小型ハッチバック。
白いセダン。
黒いオープンカー。
見るからに高性能な車はない。
ハルトは参加者を集めると、簡単に説明を始めた。
「初心者が一晩で英雄になろうとすんなよ。無理な抜き方は禁止。ぶつかりそうなら引け。速い奴に張り合うな」
数人が笑う。
「車潰した奴は次走れねえし、誰か巻き込んだらもっと笑えねえからな」
そこで空気が少しだけ引き締まった。
走るのは東部郊外を使った短い区間。
交通量が減る時間を選んでいるとはいえ、公道だ。
一般車が来る可能性はある。
完全に閉鎖されたコースではない。
「対向車見えたら勝負よりそっち優先。事故ってまで一位取りたい奴は今日帰れ」
ハルトの言葉に、悠斗は黙って頷いた。
昼間にアリサから聞いた、一般車を巻き込んだ事故の話が頭をよぎる。
レースへ出ること自体が違法なのは分かっている。
それでも、自分たちだけの問題では済まないことまで忘れるつもりはなかった。
「悠斗」
蓮が横から声をかける。
「何?」
「最初の二つの曲がり、無理してついてくな」
「うん」
「前の車ばっか見るな。自分の位置と出口見ろ」
「分かった」
「あとブレーキ早くても気にすんな。遅いより事故る方がダサい」
「それ、前にも言われた気がする」
「大事だから何回でも言う」
悠斗は少し笑った。
「……ありがとう」
「礼は帰ってきてからでいい」
蓮の言葉に頷き、運転席へ乗り込む。
ドアを閉めると、外のざわめきが一段遠くなった。
シート。
ミラー。
シートベルト。
ハンドルの位置。
いつもと同じ確認をする。
それでも心臓の音だけは、普段よりはっきり聞こえた。
◇
六台が順番に道路へ並んだ。
悠斗は後ろから二番目。
前に白いセダン。
後ろに黒いオープンカー。
遠くの街灯が濡れた路面へ細長く反射している。
ハルトが少し離れた位置へ移動した。
腕が上がる。
周囲のエンジン音が一斉に高くなる。
悠斗もアクセルへ足を乗せた。
怖くないわけではない。
それでも今は、走ってみたいという気持ちの方が強かった。
ハルトの腕が下がった。
六台が一斉に前へ出る。
「っ……!」
悠斗は少し出遅れた。
前の白いセダンが離れる。
後ろの黒いオープンカーにも横へ並ばれ、そのまま抜かれた。
開始して十秒も経たないうちに最下位。
それでも焦らない。
無理についていくな。
前だけ見るな。
蓮の声を思い出す。
最初の緩いカーブが近づく。
普段なら余裕を持って確認できる標識が、目に入ったと思った時にはもう横へ流れていた。
路面の小さな継ぎ目が、いつもの何倍も大きな振動になってハンドルへ伝わってくる。
少し早めに減速。
ハンドルを切る。
車体が外へ膨らみかける。
慌てて戻したくなるのを抑えた。
小さく。
急に直さない。
以前の練習で蓮に言われた通りに操作する。
車は大きく乱れず、カーブを抜けた。
「……いけた」
前との差は広がっている。
それでも、車はまだ自分の手の中にある。
次の直線で少し速度を上げた。
街灯が一本ずつではなく、帯のように後ろへ流れていく。
二つ目のカーブ。
前を走る黒いオープンカーが、入り口で少し大きく膨らんだ。
悠斗は一瞬、抜けると思った。
アクセルへ力が入る。
だが、すぐに戻した。
相手が立て直している。
横へ並べば狭い。
次の瞬間、オープンカーが急に内側へ戻った。
もし悠斗がそのまま出ていれば、接触していたかもしれない。
背中に冷たい汗が流れる。
「……危なかった」
速く走ることより、どこで引くかの方が難しい。
それが少しずつ分かってきた。
◇
コース中盤。
前方の交差道路から、一台の一般車が出てきた。
先頭集団が速度を落とす。
悠斗もすぐにアクセルを戻した。
白い一般車は、遠くから迫ってくる複数台を見て戸惑ったように減速している。
レース参加者たちは間隔を取り、その車が通り過ぎるのを待った。
たった数秒。
それでも悠斗には、その時間が妙に長く感じられた。
ゲームのコースなら、障害物として処理していたかもしれない。
けれど今すれ違った車にも、誰かが乗っている。
生活がある。
仕事帰りかもしれない。
家族のところへ帰る途中かもしれない。
白い車が離れてから、再び速度が上がる。
悠斗は気持ちを切り替えた。
◇
後半に入っても、悠斗は最下位だった。
ただし前の黒いオープンカーとの差は大きくない。
次の長めの直線で、相手の加速が鈍った。
道路幅は十分にある。
対向車も見えない。
悠斗はミラーと前方を確認し、ゆっくり横へ出た。
二台が並ぶ。
数秒だけ、エンジン音が重なった。
心臓が跳ねる。
先に出たのは悠斗だった。
ほんの少し。
本当にわずかな差だ。
「……抜けた」
思わず声が漏れる。
順位は五位。
それでも、一台を自分の判断で抜けたことが嬉しかった。
最後のカーブを抜け、ゴール代わりの集合地点へ入る。
すでに前の四台は停まっている。
悠斗も速度を落として空き地へ入った。
少し遅れて、黒いオープンカーが到着する。
エンジンを切った瞬間、全身から力が抜けた。
両手をハンドルから離すと、指先が少し震えている。
ドアを開けると、蓮が近づいてきた。
「五位」
「うん」
「遅いな」
「分かってる」
「でも悪くない」
悠斗が顔を上げる。
「本当に?」
「二個目のカーブで抜きに行かなかっただろ」
「見てたの?」
「そりゃ見るだろ」
蓮は銀色のセダンの屋根を軽く叩いた。
「あれ行ってたら、多分ぶつかってた」
「俺もそう思った」
「なら正解」
ハルトも歩いてくる。
「初回なら十分だな」
「五位でも?」
「初心者枠で最初から順位気にしてどうすんだよ」
ハルトが笑った。
「速さは後から覚えられる。無茶して車潰す癖の方が直すの大変なんだよ」
悠斗は自分の銀色のセダンを見る。
何も壊れていない。
自分も怪我をしていない。
順位は五位。
派手な結果ではない。
けれど、不思議と悔しさより満足感の方が強かった。
これまで眺めるだけだった世界を、今日は自分の手で少しだけ走った。
その時。
遠くから、微かにサイレンが聞こえた。
何人かが同時に顔を上げる。
ハルトの表情から笑みが消えた。
「撤収」
先ほどまでとは違う、短い声だった。
参加者たちが一斉に車へ戻っていく。
ただし、全員が同じ方向へ走り出すわけではない。
数台ずつ、別々の道へ散っていく。
悠斗も運転席へ戻った。
胸が再び強く鳴り始める。
レースは終わった。
けれど、この街ではそこまで走って終わりではない。
悠斗はエンジンをかけ、暗い東部の道路へ銀色のセダンを滑り出させた。
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