第1章 第22話 追う側の事情
四人で食事をした翌日、悠斗はいつも通りタクシー会社へ出勤していた。
銀色のセダンを買っても、生活そのものが急に変わるわけではない。
朝は会社まで自分の車で向かい、従業員用の駐車場へ停める。そこから制服へ着替え、今度は会社のタクシーへ乗り換える。
自分の車を持てたのは嬉しい。
けれど、燃料代も保険も必要になる。三千ドルを使ったばかりなのだから、むしろしばらくは今まで以上に真面目に働いた方がいい。
「車買ったら自由になると思ってたけど……普通に金かかるな」
誰に言うでもなく呟きながら、悠斗は配車端末に表示された次の依頼を受けた。
場所は中央地区。
オフィス街から少し外れた公共施設前だった。
◇
昼前の中央地区は混雑していた。
高層ビルの間を車が途切れることなく流れ、交差点ではスーツ姿の会社員や買い物客が信号を待っている。路肩には配送車が停まり、少し先では警備員が搬入口へ車を誘導していた。
指定場所へ着くと、歩道脇に立っていた女性が片手を上げる。
黒髪を肩のあたりでまとめ、今日は濃紺の制服姿だった。
悠斗はすぐに気づく。
「……アリサさん」
後部ドアが開いた。
「お願いします。中央署まで――」
そこまで言った桐生アリサも、運転席を見て目を止めた。
「あら、神谷君」
「はい」
「偶然ね」
アリサは少しだけ笑い、そのまま後部座席へ乗り込んだ。
悠斗が彼女を乗せるのは、これが二度目だった。
最初に会った頃は、まだタクシーを始めてそれほど経っていなかった。警察官だと聞いただけで妙に緊張し、運転にまでその硬さが出ていた記憶がある。
今は、以前ほどではない。
「中央署でいいですか?」
「ええ。急がなくて大丈夫」
「分かりました」
悠斗はウインカーを出し、交通の流れへ戻った。
「運転、前より落ち着いた?」
後ろから声がする。
「少しは」
「最初は車線変更するたびに肩に力入ってたものね」
「そんなに分かりました?」
「分かるわよ」
カイにも似たようなことを言われた。
どうやら自分は思っている以上に、緊張が態度へ出るらしい。
「最近、自分の車も買いました」
以前なら、自分から世間話を広げることはほとんどなかった。
それでも今は、何となくその話をしてみようと思えた。
アリサが少し驚く。
「本当に?」
「中古ですけど」
「何買ったの?」
「古い銀色のセダンです」
「堅実ね」
「やっぱりみんな同じこと言う……」
思わず漏らすと、後部座席から小さな笑い声が聞こえた。
「でも最初の車なら、そのくらいでいいと思う。慣れる前に速い車へ乗って事故する人、本当に多いから」
「やっぱりそうなんですね」
「特に最近はね」
アリサの口調が少しだけ仕事のものへ変わった。
「東部で違法レース絡みの事故が続いてるの。一般車を巻き込んだ件もあったから、交通部門も巡回を増やしてる」
悠斗の手が、ハンドルの上でわずかに強張る。
レースを見学していた頃なら、まだ他人事として聞けたかもしれない。
今は違う。
自分も近いうち、そこへ参加しようとしている。
「事故、多いんですか?」
「件数自体が急に倍になったとかじゃない。ただ、大きい事故が続いた感じね」
アリサは窓の外を見ながら続けた。
「こっちが巡回を増やせば、向こうも場所を変える。時間をずらしたりもするし、正直いたちごっこ」
もちろん、具体的な巡回場所や時間については何も言わない。
それでも、警察が何も考えずに同じ道を走っているわけではないことは伝わってきた。
配信で見ていた頃、警察の追跡は一つのイベントだった。
逃げ切れば盛り上がる。
捕まれば、それはそれで話になる。
けれど、ここでは違う。
警察官たちは勤務として現場へ向かい、事故が起きれば対応し、その後も同じことを繰り返さないために動き方を変える。
追う側にも仕事があり、生活がある。
「神谷君は真似しちゃ駄目よ」
突然言われ、悠斗は思わずバックミラーを見た。
「え?」
「違法レース」
「……なんで俺に?」
「十七歳で車買ったばかりって聞いた直後だから」
「ああ」
心臓が少し速くなる。
何か知られているわけではない。
「……気をつけます」
嘘はつかなかった。
けれど、本当のことも言わなかった。
アリサは特に疑う様子もなく、
「それならいいけど」
と答えた。
◇
中央署前へ到着する。
悠斗が料金を告げると、アリサは端末で支払いを済ませた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
アリサがドアを開けかけたところで、ふと思い出したように振り返る。
「そうだ。車買ったなら、本当に安全運転してね」
「はい」
「次に会う時、私が赤灯つけて後ろにいないことを祈ってる」
少し冗談めいた言い方だった。
悠斗も小さく笑う。
「それは俺も祈ってます」
「じゃあ余計なことしないことね」
「……気をつけます」
アリサは軽く手を振り、警察署の正面玄関へ歩いていった。
その背中を見送りながら、悠斗はゆっくり息を吐く。
安全運転する。
それ自体は本心だ。
けれど、警察から逃げる仕事もしている。
違法レースにも出ようとしている。
人間関係が増えるほど、表と裏が少しずつ近づいている気がした。
◇
夕方。
勤務を終えた悠斗が従業員用駐車場へ戻ると、銀色のセダンのボンネットが夕日の光を反射していた。
運転席へ乗り込み、エンジンをかける。
その直後、スマートフォンが震えた。
《仮》に新着メッセージが入っている。
『蓮:腹減った』
『アキラ:知らん』
『ナナ:報告する場所間違ってる』
『蓮:連絡用だろ』
悠斗は思わず笑った。
昨日作られたばかりのグループは、すでに本来の用途から少し外れ始めている。
『悠斗:俺も腹減った』
送る。
数秒後には返事が来た。
『アキラ:じゃあ飯行く?』
『蓮:行く』
『ナナ:今日は無理』
『蓮:裏切り者』
『ナナ:何の?』
画面を見ながら、悠斗は笑った。
特に用事がなくても会話が続く。
仕事でも、犯罪でもない。
それだけなのに、少し嬉しかった。
その時、別の通知が上に重なった。
一ノ瀬ハルトからだった。
『初心者枠、明後日の夜になった』
続けて場所が送られてくる。
東部の郊外。
以前見学した場所とは別の集合地点だった。
『今回は短いコース。参加するなら開始一時間前に来い』
悠斗の表情が少し引き締まる。
昼間、アリサから聞いた言葉が頭をよぎった。
最近、違法レース絡みで巡回が増えている。
一般車を巻き込んだ事故もあった。
危険を知ったからといって、走ってみたい気持ちまで消えたわけではない。
無茶がしたいわけではない。
警察から逃げることを楽しみたいわけでもない。
以前、助手席から見たあの景色を、今度は自分の手で走ってみたい。
蓮のようには走れない。
ハルトたちのような速さもない。
それでも、自分がどこまでできるのか試してみたい。
悠斗はしばらく画面を見つめたあと、返信した。
『参加します』
すぐに既読がつく。
『了解。遅刻すんなよ』
悠斗はスマートフォンを伏せた。
明後日。
初めて、自分の車で違法レースへ出る。
昼間にアリサから安全運転を念押しされたばかりなのに。
「……さっき気をつけるって言ったばっかりなんだけどな」
自分でも苦笑してしまう。
それでも、銀色のセダンのハンドルを握る手には、ほんの少しだけ力が入っていた。
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