第6章 第203話 残したいもの
夜九時半を少し回った頃、二台の車がいつものダイナーの駐車場へ入った。
先に停まったシオンの黒いレンジャーの隣へ、悠斗の白いヴェローチェが滑り込む。六人がそれぞれ車を降りると、蓮が大きく伸びをした。
「やっと飯だ。腹減ったな」
「……肉」
シオンが呟くと、アキラが振り返った。
「お前、車の中でもそれ言ってたな」
「腹減った」
「分かったって。早く入ろうぜ」
返事をする代わりに、シオンはさっさと入口へ向かった。
「一番腹減ってんの、シオンじゃん」
ナナが笑いながら後を追い、悠斗たちも店内へ入った。
遅い時間にもかかわらず、店には仕事帰りらしい客が何組か残っていた。カウンターでは作業着姿の男性がコーヒーを飲み、奥の席では数人の若者がスマートフォンを囲んで笑っている。
六人は空いていたテーブルへ案内され、それぞれメニューを開いた。
「何にしようかな」
悠斗が写真を眺めていると、シオンがメニューの一角を指差した。
「ステーキ」
「もう決めたの?」
「うん」
「早いな。俺なんかまだ迷ってんのに」
蓮がページをめくる横で、シオンはメニューを閉じた。
「美味い飯が食えればいい」
「お前、人生楽しそうだな」
「楽しい」
即答したシオンに、ナナが吹き出した。
結局、悠斗はハンバーガー、蓮はパスタを注文した。ほかの四人も注文を終えると、蓮が思い出したように口を開いた。
「そういや、あの会社を買ったら俺たちもイベントの仕事すんのか?」
「基本的には今いる社員の人たちに任せるつもりよ。必要な時には協力してもらうかもしれないけど」
玲奈が答えると、蓮は背もたれに寄り掛かった。
「俺、会場の設営とか向いてねえんだよな」
「フェスの時は楽しそうだったじゃん」
アキラが笑う。
「あれはレースがあったからだろ!」
「じゃあ、レースがないイベントは手伝わないの?」
「車の展示会なら行く」
「結局、車なんだ」
ナナが呆れると、それまで黙っていたシオンが短く付け加えた。
「屋台も」
「お前は食い物かよ!」
蓮の言葉に、六人のテーブルが笑いに包まれた。
その少し向こうでは、仕事帰りらしい二人の男性客が食べ終わった皿を脇へ寄せていた。
「明日、何時からだっけ?」
「俺は昼から。お前は?」
「朝からに決まってんだろ。また課長が無茶な予定入れやがって」
「相変わらずだな、お前んとこの課長」
「昨日も定時で帰ろうとしたら、急に資料作れって言われてさ。朝までに必要だって騒いでたくせに、結局まだ見てねえんだよ」
「ははっ。そりゃひでえな」
一人が残っていたポテトを摘まみ、もう一人はスマートフォンを取り出した。
悠斗たちのテーブルでは、蓮が三か月後の大型イベントについて尋ねていた。
「そういや、三か月後のデカいイベントって、結局何やるんだ?」
「ミュージックフェスよ」
玲奈が答えると、蓮が顔を上げた。
「へえ、音楽フェスか!」
「結構な規模のイベントみたい。会社にとっても大きな仕事になるわね」
「いいじゃん。俺たちも見に行けんの?」
「まだ会社を買ったわけじゃないんだけど」
アキラが笑うと、蓮は肩をすくめた。
「分かってるって。買えたらの話だよ!」
「仕事の邪魔にならなければ、見学くらいはできるんじゃない?」
ナナがそう言うと、シオンが小さく呟いた。
「……屋台もありそう」
「お前、また食い物かよ!」
蓮の声に、テーブルが笑いに包まれた。
隣の男性客がスマートフォンの画面を相手に見せた。
「そういや、北部の倉庫の話、見た?」
「何それ」
「夜中にトラックが何台も出入りしてて、警備員も増えたんだって」
「普通に荷物運んでるだけじゃねえの?」
「いや、ネットじゃ怪しい荷物だって騒いでる奴がいてさ」
「お前、そういう話好きだよな」
「俺が言ってるんじゃねえって!」
二人は笑いながら、画面をスクロールしていた。
「そういや、今日の中央地区の銃乱射もひどかったらしいな」
「ああ、四人死んだってやつ?」
「そうそう。犯人、まだ捕まってないんだと」
「物騒だな。俺の知り合い、あの近くで働いてるぞ」
「大丈夫なのか?」
「知らねえ。あとで連絡してみるわ」
男性はそう言ってスマートフォンを伏せ、グラスの水を飲んだ。
「お待たせしました。ステーキのお客様」
店員が運んできた皿に、シオンが静かに手を上げた。
鉄板の上では厚切りの肉が音を立て、香ばしい匂いが広がっている。シオンはわずかに表情を緩め、さっそくナイフとフォークを手に取った。
「おい、俺たちの料理まだ来てねえぞ」
蓮が言うと、シオンは手を止めた。
「……待つの?」
「いや、食っていいけどよ」
「じゃあ、食う」
シオンは肉を切り分け、口へ運んだ。しばらく黙って噛みしめた後、満足そうに頷く。
「美味い」
「よかったね、シオン」
ナナが笑った。
続いてほかの料理も運ばれ、六人はそれぞれ食事を始めた。
隣のテーブルでは、また仕事の話が始まっていた。
「そういや、うちの会社、来週から新人が入るんだよ」
「へえ。最近、人足りないって言ってたもんな」
「そうなんだよ。で、そいつが元レーサーらしいって噂になっててさ」
「レーサー? 何でまた?」
「知らねえよ。誰かがそんなこと言い出したらしいんだけど、本人に聞いた奴の話じゃ、レースなんか出たことないんだと」
「なんだよ、それ。ただの噂じゃねえか」
「だろ? 本人が来る前から変な噂だけ広まってんだよ」
二人は笑い合い、片方が店員を呼んで会計を頼んだ。
悠斗たちのテーブルでも、蓮がパスタを巻きながらアキラと車の話を続けている。玲奈はナナとデザートを分けるか相談し、シオンは黙々とステーキを食べていた。
悠斗はハンバーガーを頬張りながら、そんな仲間たちを眺めた。
数時間前まで、これから始める事業について真剣に話し合っていた。明日には峯岸との交渉が待っている。それでも、こうして一緒に食事をしている間は、いつもと変わらなかった。
悠斗は、そのことが嬉しかった。
*
翌日の午前、悠斗の運転する白いヴェローチェが港湾地区へ向かっていた。
助手席では玲奈が資料を確認している。
「緊張してる?」
「……少しね。峯岸さん、会社を手放すかどうか考えておくって言ってたから」
「そうね。まずは峯岸さんの考えを聞きましょう。そのうえで、私たちの条件を提示するわ」
悠斗は頷いた。
昨日、五人で話し合い、買収を進める方針を決めた。ただし、条件が合わなければ無理に引き継ぐつもりはない。何より、峯岸自身が会社を譲ることに納得していなければ、話は進まなかった。
事務所に到着すると、峯岸が二人を迎えてくれた。応接室へ案内され、三人が席に着く。
「昨日のお話ですが……あれから、ずっと考えていました」
峯岸は机の上で手を組んだ。
「ですが、正直に申し上げると、まだ答えを出せずにいます」
悠斗は黙って続きを待った。
「会社を手放すしかないのかもしれません。でも、自分で立ち上げて、ここまで続けてきた会社ですから……」
峯岸は少し困ったように笑った。
「三か月後にはミュージックフェスもあります。あの仕事が成功すれば、かなりの利益が残るはずなんです。できれば、それをきっかけに立て直したいと思っています」
しかし、イベントを成功させるには、その前に会社を存続させなければならない。
今月15日には、すでに延期してもらっている負債の返済期限が来る。さらに、ミュージックフェスを開催するには、先にまとまった準備資金が必要だった。
「峯岸さん。僕たちも五人で話し合って、会社を引き継ぎたいという結論になりました」
悠斗が伝えると、峯岸は顔を上げた。
「ありがとうございます。ただ、私自身がまだ……」
峯岸はそこで言葉を切り、机の上で組んだ手に目を落とした。
「会社を譲った後のことが、どうしても考えられないんです。社員たちには、これからも仕事を続けてほしい。でも、私自身はどうなるのか。会社を離れて、別の仕事を探すことになるのか……」
峯岸は小さく息を吐いた。
「こんな状況になってしまった以上、贅沢は言えないんでしょうけど」
「……峯岸さんは、これからもイベントの仕事を続けたいんですよね?」
悠斗が尋ねると、峯岸は迷わず頷いた。
「はい。それはもちろんです。できることなら、今の社員たちと一緒に続けていきたいです」
悠斗は玲奈と顔を見合わせた。玲奈も小さく頷き、用意していた資料を峯岸の前へ差し出した。
「実は、私たちも同じことを考えていました。これからの経営体制について、一つ提案があります」
「……提案、ですか?」
「はい。会社の株式は神谷が取得し、私が代表取締役に就任します。そして、峯岸さんには取締役社長として、今後も会社に残っていただきたいと考えています」
「……私が、社長として?」
峯岸が驚いたように顔を上げた。
「はい。営業やイベント運営、社員の皆さんの管理については、これまでどおり峯岸さんにお願いしたいんです」
悠斗も頷いた。
「僕たちはイベント運営の経験がありません。だから、会社を引き継いだ後も、峯岸さんと一緒に仕事をしたいと思っています」
峯岸はしばらく二人を見つめていた。
「私は……会社を譲ったら、ここを辞めなければならないと思っていました」
「そういうつもりはありません」
玲奈は穏やかに答えた。
「もちろん、経営体制は変わります。でも、峯岸さんが築いてきた取引先との関係や、現場での経験は、この会社に必要なものだと思っています」
「……それなら、少し考え方が変わりますね」
峯岸の表情が、わずかに和らいだ。
玲奈は続けて、買収後の役割分担を説明した。
通常の営業や現場の判断は、引き続き峯岸に任せる。一方、大きな支出や重要な契約については玲奈と相談し、採算の合わない仕事の受け方も見直していく。
説明を聞き終えた峯岸は、しばらく資料を眺めていた。
「……正直、経営については反省していることも多いんです」
ぽつりと漏らした言葉に、悠斗が顔を上げる。
「取引先から頼まれると、なかなか断れなくて。社員の仕事を確保しなければと思っていたんですが、採算の合わない案件まで引き受けてしまいました」
峯岸は苦笑した。
「結局、会社にお金が残らなくなってしまった。現場の仕事だけでは、会社を守れないんですね」
「だからこそ、そこは私が支えたいと思っています」
玲奈が答えた。
「ただし、峯岸さんにも経営状況を共有していただきます。今までと同じ判断を続けるわけにはいきませんから」
「……はい。それは、ぜひお願いしたいです」
峯岸はもう一度、社員たちのいる事務所の奥へ目を向けた。
「社長として残れるなら、あの社員たちとこれからも仕事ができるんですね」
「はい。そのつもりです」
悠斗が答えると、峯岸はゆっくりと頷いた。
*
「では、資金についても説明しますね」
玲奈は別の資料を開いた。
「まず、今月15日の返済です。これ以上、支払いを延ばしていただくことはできないんですよね」
「はい。先方には何度もお願いしています。今度こそ支払わなければなりません」
峯岸の表情が再び曇った。
「そこは、私たちが会社に資金を貸し付けることで対応したいと考えています」
「……本当ですか?」
「はい。ただし、会社への貸付金として扱います。株式の譲渡代金とは別です」
玲奈は、峯岸個人へ支払う株式の譲渡対価についても説明した。会社の資産や負債を踏まえて評価し、少額に抑える方向で協議する。その分、会社を維持するための資金を優先する方針だった。
「私個人への支払いは、できるだけ少なくて構いません」
峯岸はそう答えた。
「それより、社員の給与や今後の仕事に必要なお金を残していただきたいです」
「私たちも同じ考えです」
玲奈は続けて、月末の入金予定を示した。
「RAVEN MOTOR FESTの運営報酬は、開催から一か月後の今月末に入る予定です。ただ、15日の返済には間に合いません」
「そうなんです。月末には入金があるのに、その前の支払いをどうしても用意できなくて……」
峯岸は悔しそうに唇を結んだ。
「ですから、まずは私たちが不足分を支えます。月末に報酬が入ったら、会社の支出を確認したうえで、貸付金の一部を返済していただく予定です」
「全額ではなく、一部ですか?」
「はい。社員の給与や運転資金、それに三か月後のミュージックフェスの準備費用は確保しなければなりません。返済額は、その時の資金状況を見て判断します」
峯岸は深く頷いた。
悠斗も資料へ目を落とした。
月末にはNOXへの上納金が控えている。会社に貸したお金の一部が戻ってくれば、その準備にも充てられる。
だが、上納のために会社の資金を無理に引き出し、経営を悪化させては本末転倒だった。
「僕たちも、毎月まとまった収入が必要なんです」
悠斗は峯岸を見た。
「だから、会社を残すだけじゃなくて、ちゃんと利益を出せるようにしたいと思っています」
「……分かりました」
峯岸は真剣な表情で頷いた。
「私も、また同じことを繰り返したくありません」
その後、三人は従業員の待遇や取引先への説明、今後の経営体制について話し合った。
峯岸からは、通常の仕事でどこまで自分が判断できるのかという質問が出た。玲奈は、日常的な営業や現場の判断は任せる一方、大きな投資や採算に関わる重要案件は事前に相談する方針を伝えた。
峯岸も納得し、社員への説明は自分から行いたいと申し出た。
やがて話し合いが一段落すると、峯岸は資料を揃えた。
「……三か月後のミュージックフェスも、成功させないといけませんね」
その声には、先ほどまでとは違う力があった。
「あの仕事が決まった時、社員全員で喜んだんです。久しぶりに、大きな仕事が取れたって」
峯岸は少し笑った。
「会社を手放すことばかり考えていましたが、私がここに残れるなら、まだやれることはありますね」
「はい。僕たちも期待しています」
悠斗が答えると、峯岸は改めて二人へ向き直った。
「この条件で、話を進めていただけませんか」
「はい。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
三人は、会社譲渡に向けた基本方針で一致した。
正式な株式譲渡や役員変更、金融機関との調整など、必要な手続きはまだ残っている。会社を引き継ぐための具体的な準備は、翌日から本格的に進めることになった。
*
事務所を出る前、峯岸が悠斗を呼び止めた。
「神谷さん」
「はい?」
「私、昨日までは会社をどう終わらせるべきか、そればかり考えていたんです」
峯岸は事務所の奥へ目を向けた。社員の一人が電話を終え、別の社員と次の現場について相談している。
「ですが、もう一度、先の仕事について考えられそうです」
悠斗は少し照れくさくなった。
「僕たちも分からないことばかりです。これからも、いろいろ教えてください」
「もちろんです」
二人は握手を交わした。
事務所を出ると、港湾地区の道路を大型トラックが走り抜けていった。
「ひとまず、よかったわね」
玲奈が言った。
「うん。でも、まだ正式に決まったわけじゃないんだよね」
「そうよ。まずは必要な手続きを進めないと。それから15日の返済ね」
悠斗は頷き、五人のグループへメッセージを送った。
『峯岸さんと基本的な条件で話がまとまったよ。玲奈が代表取締役で、峯岸さんには取締役社長として残ってもらう方向になった』
間もなく蓮から返信が届いた。
『おお! じゃあトラック見に行けるな!』
続いてナナからも通知が来る。
『よかった! でも蓮、まだ正式に買ったわけじゃないでしょ!』
アキラからは『一歩前進だな。お疲れ』と届き、シオンからも短く『了解』と返ってきた。
悠斗は思わず笑ってしまった。
「どうしたの?」
「蓮が、もうトラックを見に行く気になってる」
「ふふ。あの人らしいわね」
まだ会社を手に入れたわけではない。15日の返済期限は迫っているし、月末にはNOXへの上納も控えている。
会社に残すべきお金と、自分たちに必要なお金。その両方を考えながら、これから経営を立て直していかなければならなかった。
それでも、昨日まで会社を手放すことに苦しんでいた峯岸が、帰り際には少し笑っていた。
そのことが、悠斗には嬉しかった。
運転席へ乗り込むと、玲奈が助手席でスマートフォンを確認していた。
「明日は少し忙しくなりそうね」
「そうだね」
悠斗はシートベルトを締め、エンジンを掛けた。
会社を買うだけで、毎月の上納が楽になるわけではない。それでも、自分たちの新しいシノギを育てるための一歩は踏み出せた。
白いヴェローチェが、港湾地区の道路へ走り出した。
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