第6章 第200話 会社を売りますか
翌日の午後、悠斗は白いヴェローチェを中央地区から少し外れた雑居ビルの前へ停めた。助手席では玲奈がスマートフォンで時刻を確認している。
「五分前」
「ちょうどいい?」
「遅れるよりはね」
玲奈はそう言いながらシートベルトを外した。今日会うのは、RAVEN MOTOR FESTで実際の会場運営を担当していたイベント会社の社長だった。
昨日までに玲奈とナナが調べたのは、あくまで外から見える情報だ。売上、借入、取引先、社員の評判、大きな顧客が一社抜けたこと。それでも、会社の中で何が起きていたのか、社長本人が今後どうしたいと思っているのかまでは分からない。
「玲奈」
「何?」
「今日は会社を買う話をしに行くわけじゃないんだよね?」
「最初からそのつもりで行ったら駄目。まず聞くのは、向こうが会社をどうしたいか。続けたいのか、誰かに譲ってもいいのか、それとも畳みたいのか」
「分かった」
「それに、向こうの話だけで決めないでね」
悠斗が「信用するなってこと?」と聞くと、玲奈は首を横に振った。
「そうじゃなくて、片方の話だけで会社の状態全部は分からないってこと」
悠斗は小さく頷いた。玲奈がファイルを抱えて車を降り、悠斗もその後を追った。
イベント会社はビルの三階に入っていた。エレベーターを降りると、ガラス扉の向こうに小さな受付と事務所が見える。RAVEN MOTOR FESTで顔を合わせた社員も何人かいて、悠斗に気づいた男性社員が少し驚いたように顔を上げた。
「神谷さん?」
「お疲れさまです」
「お疲れさまです。今日は……」
「社長さんと約束してます」
「ああ、聞いてます。少々お待ちください」
社員はすぐに奥へ向かい、しばらくして戻ってきた。そのまま二人が案内されたのは、事務所の一番奥にある小さな応接室だった。
四人掛けのテーブルに、壁際の棚。過去に担当したらしいイベントのパンフレットや写真が並び、その中にはRAVEN MOTOR FESTのものも加わっている。
悠斗がそのパンフレットへ目を向けていると、扉が開いた。
「お待たせしました」
入ってきたのは、フェス当日にも何度か顔を合わせた社長――峰岸だった。
「今日はありがとうございます」
悠斗が立ち上がると、峰岸は「いえ」と返しながら向かいの席へ腰を下ろした。
「ただ、連絡をいただいた時は少し驚きました。フェスが終わって、精算も終わって、それから会社の今後について話を聞きたいと言われたので」
口調は穏やかだったが、警戒しているのは悠斗にも分かった。玲奈も席へ着く。
「そうだと思います」
「正直、何の話なのか気になってました」
少し間が空いた。玲奈は持ってきたファイルをすぐには開かず、峰岸の顔を見た。
「単刀直入に聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「今後、この会社をどうされるつもりですか?」
峰岸の表情がわずかに止まった。すぐには答えず、テーブルの上で指を組む。
「……そこまで調べてるんですね」
「ある程度は」
「経営が厳しいことも?」
「はい」
玲奈は濁さなかった。峰岸は小さく息を吐き、それまでより少しだけ疲れた表情を見せる。
「まあ、隠しても仕方ないですね。楽ではないです」
悠斗は口を挟まず、その先を待った。
「以前、大きな取引先が一社あったんです。年間を通して何本も仕事を任せてもらっていたところで」
「その契約が終わった?」
玲奈が尋ねると、峰岸は頷いた。
「ええ。向こうがイベントを自社で回す方針に変えた。それで契約がなくなりました。ただ、それだけが原因ではないです。固定費も軽くなかった。営業も足りなかった。大口の仕事に頼りすぎていたのに、それが抜けた後の準備ができてなかった」
「借入が増えたのは、その頃からですか?」
「そうです。一個悪かったというより、いくつか重なりました」
峰岸は苦笑したが、その言い方には言い訳より自覚があった。
「RAVEN MOTOR FESTで少し息はつけました。でも、一回大きい仕事が成功したからって、会社の状態そのものが変わるわけじゃない」
その言葉は、以前玲奈が言っていたこととほとんど同じだった。
「じゃあ、今は会社を畳むことも考えてるんですか?」
悠斗が聞くと、峰岸は一度だけ応接室の外へ視線を向けた。壁の向こうでは社員たちが働いている。
「考えてます。今すぐどうこうという状態ではないです。でも、このまま借金だけ増やして続けるのも違う」
「社員の人たちには?」
「一部には話しています」
「全員にはまだ?」
「まだです。不安にさせたくないというのもあります」
峰岸は少し迷うように視線を落とした。悠斗はそんな様子を見ながら、自分がもしここで働いていたら、と考えた。
「でも、何も知らないまま急に会社がなくなる方が、社員の人は困らないですか?」
峰岸が顔を上げる。悠斗は経営の知識で言ったわけではない。ただ、自分ならそう感じると思っただけだった。
「……その通りですね。分かってはいるんです」
短い沈黙が落ちる。その空気が少し落ち着いたところで、玲奈が初めてファイルを開いた。
「もし会社を畳まずに済む方法があるなら、続けたいですか?」
「……どういう意味です?」
「峰岸さん自身が経営を続けたいのか、それとも会社と社員が残るなら、自分が経営から外れても構わないのか。その違いを聞きたいです」
峰岸はすぐには答えなかった。悠斗も急かさず待つ。
やがて峰岸はゆっくり背もたれから体を起こし、玲奈から悠斗へ視線を移した。
「それを聞くということは、会社を引き継ぐことも考えているんですか?」
「可能性としては」
悠斗が答えると、峰岸の表情に驚きと警戒が混じった。
「本気で?」
「まだ決めてません」
玲奈がすぐに補足する。
「今日の話を聞いて、それからです」
「なるほど……」
峰岸はしばらく黙っていたが、やがて悠斗を見た。
「一つ聞いていいですか?」
「はい」
「何で、この会社なんです?」
もっともな質問だった。悠斗はすぐに答えず、あの日のフェス会場を思い出した。
「フェスをやって、面白かったからです」
「面白かった?」
「はい。レースだけじゃなくて、飲食店とか展示とか、整備ブースとか、いろんな人が一緒に何かやってるのが」
普段なら別々の場所にいる人間が、あの日だけは同じ会場に集まっていた。観客も、選手も、出店者も、その裏で走り回っていた運営スタッフもいる。
「僕たちだけじゃ、あれ全部は回せなかったです。社員の人たちが裏でずっと動いてたのも見てました。だから、ちゃんとイベントを回せる会社なら残したいと思った」
「儲かるから、ではなく?」
「儲からないなら買えないです」
悠斗がはっきり答えると、峰岸は一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく笑った。
「そこは現実的なんですね」
「玲奈にずっと言われてるので」
「当然でしょ」
横から玲奈が返し、少しだけ空気が軽くなった。
峰岸はしばらく考えたあと、表情を戻した。
「正直に言います。私自身が、このまま経営を続けることには限界を感じてます。でも会社をなくしたいわけじゃない。社員が仕事を続けられるなら、その方がいい」
悠斗と玲奈は言葉を挟まず、その続きを待った。
「もし本当に引き継ぐ人がいるなら、話は聞きたいです。ただ、誰にでも渡すつもりはありません」
峰岸の声が少しだけ強くなる。
「社員を全部切って、会社名や取引先だけ持っていくような相手なら断ります」
玲奈はすぐに具体的な雇用条件へ進まず、峰岸の言葉を一度受け止めてから口を開いた。
「社員を残すことは、それだけ重要なんですね」
「はい。今ここで働いてる人間に、経営が下手だった私の責任まで背負わせたくない」
「分かりました」
今日はそれ以上聞かなかった。何人残すのか、給与や役職をどうするのかは、実際に譲渡の話を詰める段階で確認すればいい。
峰岸は今度は悠斗へ視線を向けた。
「もう一つだけ」
「はい」
「フェスの最後に、NOXの幹部になったと聞きました」
悠斗は一瞬だけ止まり、それから頷いた。
「はい」
「失礼を承知で聞きます。会社をギャングの仕事に使うつもりですか?」
真っ直ぐな質問だった。玲奈は何も言わない。これは悠斗自身が答えることだと分かっているらしい。
悠斗は少し考えてから口を開いた。
「僕のシノギにはします。ただ、会社の社員にNOXの仕事をやらせたり、犯罪に参加させるつもりはありません」
「シノギにはするけど、社員には犯罪をさせない?」
「はい」
「会社の利益は?」
峰岸の問いに、悠斗は誤魔化さなかった。
「僕の収入にはなります。そこからNOXへの上納に回ることもあります。でも、会社の仕事は会社の仕事としてやってもらいます。社員の人にはイベントの仕事をしてもらう。それ以外をやらせるつもりはないです」
峰岸はしばらく悠斗を見ていた。完全に安心した顔ではない。それでも、嘘で取り繕ってはいないことは伝わったようだった。
「それは約束できますか?」
「できます」
悠斗が迷わず答えると、峰岸は小さく頷いた。
「……分かりました」
少なくとも、この場で話を打ち切るつもりはないらしい。
玲奈はそこでファイルを閉じた。
「今日はここまでにしましょう」
峰岸が少し驚いたように顔を上げる。
「もういいんですか?」
「今日は峰岸さんが会社をどうしたいのか確認するのが目的だったので。もし次に話すなら、借入の条件、社員の雇用、設備や車両、取引先との契約、それと峰岸さんがどの時点まで会社に残るのか。その辺りを整理したいです」
「次はかなり現実的な話になりそうですね」
「会社を引き継ぐ話なので」
峰岸は苦笑したあと、明日もう一度時間を取ることを了承した。
悠斗も立ち上がり、最後に峰岸と握手を交わす。最初に会った時より、その手からは少しだけ力が抜けていた。
事務所を出て、二人はエレベーターへ乗った。扉が閉まったところで、悠斗はようやく大きく息を吐く。
「思ったより緊張した」
玲奈が横を見る。
「何で?」
「分からないこと多いから」
「強盗より?」
「強盗の方がやること分かってる」
「それを普通みたいに言わないで」
悠斗は少し笑った。エレベーターがゆっくり一階へ向かって下がっていく。
「どう思った?」
悠斗が尋ねると、玲奈は少し考えてから答えた。
「峰岸さんが会社を残したいと思ってるのは本当だと思う。社員のことを大事にしてるのも」
「じゃあ買ってもいい?」
「まだ早い」
即答され、悠斗は思わず苦笑する。
「借入の条件も全部見てない。取引先が買収後も残るかも分からないし、車両や機材にどれだけお金がかかるかも確認したい。それに、会社が悪くなった原因は一つじゃないんだから、社長が代われば全部解決すると思わない方がいい」
「分かった」
「それと、もし譲ってもらうことになったら、峰岸さんには少額でも譲渡対価は出した方がいいと思う」
「会社に借金あるのに?」
「借金があるから会社の価値が全部ゼロになるわけじゃないでしょ。取引先を作った。社員を育てた。会社をここまで残した。それも価値だから」
悠斗は少し考え、それから頷いた。
「分かった」
そのタイミングでエレベーターが一階へ着き、扉が開いた。
まだ会社を買ったわけではない。条件も決まっていない。それでも昨日までとは違う。
峰岸自身が、会社を誰かへ引き継ぐ可能性を初めて認めた。
最初の一棟を手に入れた翌日。
悠斗の二つ目のシノギ候補は、ようやく本当の交渉へ進み始めていた。
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そして本日はここまで明日も5話投稿します。
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