第6章 第199話 最初の一棟
調査を始めてから一週間。
前日の夜、悠斗たちは玲奈がまとめた収支とナナが集めた周辺情報をもう一度確認し、最初の候補となった六室のアパートについて話し合った。
大きな利益は出ない。
空室も二部屋ある。
それでも現在入居している四部屋からは毎月家賃が入り、募集条件と一部屋の内装を見直せば改善できる余地もある。
全員の意見は同じだった。
一棟だけで上納を賄うものではない。
けれど、これからシノギを作っていくうえで最初の土台として持つなら悪くない。
その結論を持って、翌朝。
悠斗は白いヴェローチェを南部寄りの住宅街へ停めた。
エンジンを切ると、車内を満たしていた低い振動が消え、代わりに遠くを走る車の音や、近くの家から聞こえる生活音が耳へ入ってくる。
フロントガラスの向こうには、二階建てのアパートがあった。
六部屋。
その横に六台分の駐車場。
四部屋にはすでに入居者がいて、二部屋が空いている。
外壁は少し色褪せ、外階段の手すりにも年季が見える。それでも荒れているわけではなく、建物の周囲も最低限きちんと手入れされていた。
悠斗は運転席に座ったまま、しばらく建物を眺めた。
昨日までは、玲奈の資料に載っている数字の集まりだった。
今日、最後の確認で問題がなければ、それが自分の最初のシノギの一部になる。
そう考えると、ただの古いアパートには見えなかった。
助手席側の窓を軽く叩く音がした。
振り向くと、ファイルを抱えた玲奈が立っている。
悠斗がロックを外すと、玲奈は助手席へ乗り込んだ。
「何してるの?」
「見てた」
「何を?」
「アパート」
玲奈はフロントガラスの向こうへ視線を向ける。
「それは見れば分かるけど」
「今日、本当に買うかもしれないんだなって思って」
そこで意味が伝わったらしい。
玲奈は少しだけ笑った。
「今さら実感湧いてきた?」
「うん。昨日みんなで決めた時は、まだ資料見てただけだったから」
昨夜も蓮は最後まで「車屋の方が絶対面白い」と言っていたが、購入そのものには反対しなかった。
ナナもアキラも、安定した収入の土台として持つことに賛成。
シオンも、「赤字じゃないならいいと思う」と短く答えていた。
玲奈は膝の上にファイルを置く。
「確認できるところは昨日までに確認したよ。家賃、入居状況、管理費、修繕履歴、周辺相場。今日もう一回建物を見て、契約内容にも変なところがなければ、私は進めていいと思ってる」
「絶対大丈夫ってわけじゃないんだ」
「そんな物件ないよ」
即答だった。
「買った翌日に給湯器が壊れるかもしれないし、半年後に二部屋退去するかもしれない。全部先に分かるなら、誰も不動産で失敗しないでしょ」
「まあ、そうだよね」
「だから、何か起きても困らないように買ったあともお金を残すの」
悠斗は小さく頷き、玲奈と一緒に車を降りた。
不動産業者と合流し、最後の確認が始まった。
共用廊下。
階段。
駐車場。
ゴミ置き場。
そして現在空いている二部屋。
一部屋目は最近まで人が住んでいたため、多少の使用感はあるものの、大きな修繕は必要なさそうだった。
二部屋目は少し違った。
長く空いていたせいか、壁紙にはところどころ汚れが残り、床にも細かな傷がある。水回りが壊れているわけではないが、このまま募集しても最初の印象は良くない。
玲奈は部屋の中央に立ち、ゆっくり室内を見回した。
「こっちは直した方がいいね」
悠斗も壁へ目を向ける。
「全部?」
「全部張り替える必要まではないと思う。でも目立つところは直した方がいい。それと募集家賃も下げる」
不動産業者が手元の資料を見る。
「現在の募集額から、ですか?」
「はい。入居中の四部屋と周辺相場を比べても、この二部屋だけ高く設定する理由がないので」
悠斗はナナから聞いた話を思い出した。
周辺の評判は悪くない。
駅から少し距離はあるが、車を持つ住人も多い。
駐車場が付いていることも、この地域では弱みではなく強みになる。
「家賃下げたら、入る可能性は上がる?」
悠斗が聞くと、玲奈は少し考えてから答えた。
「上がるとは思う。でも、それで絶対埋まるとは言わない」
「そこは言い切らないんだ」
「言い切ったら嘘になるから」
玲奈らしい返事だった。
窓から駐車場を見る。
現在使われているのは四台分。
二部屋が埋まれば、駐車場もすべて使われる可能性がある。
ただ、それも保証された話ではない。
悠斗はこれまで、金になる仕事をもっと単純に考えていた。
運べば報酬が出る。
強盗なら成功すれば金が入る。
けれど不動産は違う。
買って終わりではない。
入居者がいて、壊れれば直し、空室が出れば次を探す。
何もしなくても勝手に金が増える仕事ではなかった。
建物を一通り確認したあと、二人は近くの不動産会社へ移動した。
応接スペースへ通され、契約内容の説明が始まる。
悠斗は開始して数分で、自分一人で来なくて本当によかったと思った。
既存の入居契約。
管理の引き継ぎ。
共用部の修繕履歴。
保険。
支払い条件。
聞き慣れない言葉が出るたび、自然と玲奈へ視線が向く。
玲奈は説明を聞きながら、何度もページを戻していた。
途中で一か所、手を止める。
「ここ確認したいです」
担当者が身を乗り出した。
「共用階段の補修、最後に行ったのはいつですか?」
「少々お待ちください」
別の資料が出てくる。
玲奈は日付と内容を確認し、それで終わらず、次に手を入れるとすればどの程度の費用を見ておくべきかまで質問した。
悠斗は横で聞きながら、内心で感心していた。
自分なら、「今使えるなら問題ない」で終わっていた。
玲奈は、今ではなくその先を見る。
しばらくして、すべての確認が終わった。
担当者が書類を揃え、悠斗へ向き直る。
「こちらの条件でよろしければ、進めさせていただきます」
悠斗は返事をする前に、一度だけ建物の写真へ目を落とした。
買えば、明日もある。
来月も、その次の月も続く。
入居者がいて、家賃が入り、壊れれば直す。
その場が終われば終わりの仕事ではない。
玲司から「幹部なら自分のシノギを持て」と言われた時には、まだその意味を頭でしか理解していなかった。
今になって、少しだけ実感が湧く。
自由に動ける代わりに、自分で稼ぎ、自分で責任を持つ。
悠斗は隣を見る。
玲奈は何も言わなかった。
調べるところまでは自分がやる。
最後に決めるのは悠斗。
そんな顔をしている。
「お願いします」
悠斗ははっきり答えた。
外へ出た頃には、昼を少し過ぎていた。
ヴェローチェへ戻りながら、悠斗は一度だけ後ろを振り返った。
少し離れたところに、今まで見ていたアパートがある。
「……買ったんだよね?」
玲奈が足を止めた。
「何にサインしたと思ってるの?」
「分かってるけど、なんか実感なくて」
「六部屋の大家さん、おめでとうございます」
「その言い方やめてよ」
「何で?」
「急に年齢上がった感じする」
玲奈が思わず吹き出した。
ちょうどその時、悠斗のスマートフォンが震える。
五人のグループチャットだった。
購入が終わったことだけ送る。
ほとんど間を置かず、蓮から返事が来た。
『マジで買った?』
続いてナナ。
『おめでとー』
シオン。
『よかったな』
最後にアキラ。
『家賃取り立てに行くなよ』
悠斗は画面を見ながら眉を寄せた。
「何で僕が取り立てる前提なんだろ」
玲奈は迷わなかった。
「ギャングだからじゃない?」
「そこ結びつける?」
「普通の大家よりは結びつくでしょ」
完全には否定できない。
さらに蓮から、
『空いてる一部屋、俺らの溜まり場にしようぜ』
と送られてきた。
悠斗が無言で画面を玲奈へ見せる。
「却下」
「僕まだ何も言ってないけど」
「空室埋めるって話した直後に一部屋潰してどうするの」
正論だった。
その日の夕方。
悠斗たちはNOX拠点の小会議室へ集まっていた。
蓮、アキラ、シオンは別のNOX仕事を終えてから戻ってきたところで、ナナは玲奈と一緒に先に来ていた。
机の上には、アパート購入後の簡単な収支予定が置かれている。
「これで本当に毎月家賃入ってくるんだな」
蓮が資料を眺めながら言う。
「入居者がちゃんと払えばね」
玲奈は現実的な返事をした。
購入資金。
空室一部屋の内装修繕。
当面の管理費。
急な設備故障に備えて残す資金。
それらを考えると、フェスから残した準備金は当然減る。
蓮が数字を見て眉を寄せた。
「思ったより残んねえな」
「何回その話するの?」
「建物買ったらもっと儲かる感じするじゃん」
「六部屋だよ?」
「六部屋もある」
「六部屋しかない」
真逆の言い方に、アキラが笑った。
「だから一棟で上納全部作るのは無理って最初から言われてただろ」
「分かってるけど、夢ねえなあ」
蓮がぼやく。
シオンは資料を見たまま、静かに口を開いた。
「毎月入るならいいんじゃないか」
「シオンまで玲奈側かよ」
「別に誰側でもない」
その一言で、小さく笑いが起きた。
悠斗も笑いながら、机の端に置かれている別の資料へ目を移した。
イベント運営会社。
「こっちは?」
悠斗が尋ねると、玲奈の表情が少し変わった。
「連絡した」
「社長に?」
「うん。会社の今後について、一度話を聞かせてもらえないかって」
蓮が顔を上げる。
「いきなり買いたいって言った?」
「言ってない」
玲奈は即答した。
「経営が厳しいらしいって聞いてるだけで、向こうが会社を手放したいかどうかまでは分からないから」
アキラが腕を組む。
「向こうの反応は?」
「最初は警戒された。でもフェスで一緒に仕事してるし、話だけならって」
「いつ?」
「明日」
さっきまで軽かった空気が少しだけ変わった。
アパートは最初から売りに出ていた。
イベント会社は違う。
相手が会社をどうしたいのかすら、まだ分かっていない。
悠斗が尋ねる。
「誰で行く?」
「悠斗と私」
玲奈は迷わず答えた。
蓮がすぐに口を挟む。
「俺らは?」
「来なくていい」
「早っ」
「最初から六人で行ったら怖いでしょ」
ナナが笑いながら続ける。
「黒い服の人何人も連れて会社の今後について話したいって来たら、話し合いじゃなく見えるよ」
蓮はアキラとシオンを一度見回した。
「……まあ、見えなくもないな」
「でしょ」
悠斗も苦笑した。
「じゃあ明日は僕と玲奈で行く」
「うん。でも、まずは向こうの話を聞くだけ」
玲奈は念を押した。
「会社を売る気がないなら、それで終わり。売る気があっても条件が合わなければやめる。最初から買うって決めて行かないでね」
「分かってる」
必要なのは、会社を買ったという実績ではない。
ちゃんと続けられるシノギを作ることだ。
悠斗もそこは理解していた。
会議が終わり、蓮とシオンが先に部屋を出た。
悠斗も玲奈と翌日の時間を確認し、席を立つ。
その横で、アキラがナナへ小さく視線を送った。
ナナもすぐに気づく。
「悠斗、先行ってて」
「ん?」
「アキラとちょっと話あるから」
「分かった」
悠斗は特に気にした様子もなく、そのまま部屋を出た。
玲奈も資料を片付けるため、一度別室へ向かう。
二人きりになったところで、アキラが声を落とした。
「この前の話、何か分かった?」
「少しだけ」
ナナはスマートフォンを取り出した。
「小さい芸能事務所があるって言ったでしょ」
「うん」
「本当に譲る相手を探してるみたい」
アキラの目が少し変わった。
「マジ?」
「まだ正式に売りに出してるわけじゃないけどね。社長が結構年齢いってて、誰かに任せたいって話はしてるみたい」
「どんな事務所?」
「そこまではまだ全部分かんない」
ナナは画面を見ながら答えた。
「有名な女性歌手が一人いるって話は聞いた。あと、モデルも何人か所属してるみたい」
「有名な歌手いるのに小さい事務所なんだ」
「その辺も何か事情あるっぽい」
アキラが眉を上げる。
「事情?」
「その歌手、前にいた事務所と揉めたことがあるみたい。今の事務所を作った理由も、それに関係してるって」
「何それ」
「だから、まだちゃんと調べてる途中」
ナナはそこでスマートフォンをしまった。
「前の事務所とも、今でもあんまり関係よくないみたいだし」
アキラはしばらく黙った。
人を集めるところから始めようとしていた。
そこへ、すでに所属者がいて、事務所として形になっている会社の話が出てきた。
もちろん、それだけで買う理由にはならない。
会社の中身も分からない。
社員がどれだけいるのかも、仕事がどれくらいあるのかも、なぜ譲りたいのかもまだ十分には知らない。
「もうちょい調べられる?」
「そのつもり」
「まだ悠斗たちには言わない方がいいよな」
ナナは頷いた。
「今言っても、『何を買うの?』って聞かれて答えられないでしょ」
「確かに」
アキラは苦笑した。
「じゃあ、もう少し分かってからにする」
「うん」
廊下から玲奈の足音が近づいてくる。
二人はそこで話を切り上げた。
今日、悠斗は最初の一棟を手に入れた。
明日は、イベント運営会社の社長と初めて向き合う。
そしてその裏では、まだ誰にも形を説明できない小さな話が、別の方向で少しずつ動き始めていた。
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