第1章 第20話 初めて自分で走る夜
翌日の夕方、タクシー会社の勤務を終えた悠斗は、バスを乗り継いで昨日の中古車販売店まで来ていた。
敷地の端に停められた銀色のセダンは、昨日見た時と何も変わっていないはずなのに、自分の名義になったというだけでまるで別物に見える。
洗車された車体には西日の橙色が映り込み、後部バンパーに残る細い擦り傷まで妙に愛着が湧いた。
「こちらがキーになります。登録と保険の手続きも完了しています」
「ありがとうございます」
販売員からキーを受け取る。
手のひらに収まる、小さな鍵。
タクシー会社から勤務前に渡されるものでも、裏仕事のために誰かから預かるものでもない。
自分の車の鍵だ。
悠斗は運転席に座り、ドアを閉めた。
外の音が少し遠くなる。
昨日も試乗で座った席なのに、今日は落ち着かない。シートの位置を合わせ、ミラーを確認し、シートベルトを締める。
「……よし」
エンジンをかけると、小さな振動がシート越しに伝わってきた。
派手な音ではない。
蓮の青いクーペのような鋭さもない。
それでも、悠斗は思わず口元を緩めた。
販売店の出口で左右を確認する。
後ろから一台の車が通り過ぎた。
焦らず待つ。
道が空いてから、ゆっくりアクセルを踏み込んだ。
銀色のセダンが、初めて悠斗の意思だけでレイヴンシティの道路へ出た。
◇
最初に向かったのは、約束していたカイの整備工場だった。
夕方の工場はまだ営業中で、二台の車がリフトに上げられている。奥ではエア工具の乾いた音が響き、シャッターの脇では仕事を終えたばかりらしい客とカイが話していた。
悠斗が敷地へ入ると、カイがすぐに気づく。
「お。来たな」
誘導された場所へセダンを停める。
エンジンを切って降りると、カイは車体を一周してからボンネットを開けた。
「販売店の整備、ちゃんとしてるな」
タイヤとエンジンルームを手早く確認し、昨日指摘していた右前も見ていく。
「右前も直ってる。今のところ問題なさそう」
「よかった」
「最低限、自分でもオイルとタイヤと警告灯くらいは見られるようになっとけ。変な音したら無理に乗らずに持ってこい」
「修理まで覚えなくていい?」
「最初からそこまでやろうとすんな。俺の仕事なくなるだろ」
いかにもカイらしい返事だった。
カイはボンネットを閉めると、悠斗の顔を見た。
「で、今日はこのあと?」
「少し走ってみようかなって」
「日付変わるまで走り回るなよ」
「そこまではしない」
「買った初日の奴は信用ならん」
悠斗が苦笑したところで、スマートフォンが震えた。
画面には《蓮》の名前。
『納車された?』
『今カイのところ』
返すと、十秒もしないうちに返信が来た。
『行く』
「蓮、来るって」
「呼んでないだろ?」
「うん」
「暇人だな」
そう言いながら、カイは少し笑っていた。
◇
二十分ほどして、青いクーペが工場へ入ってきた。
蓮は車を降りるなり、悠斗のセダンへ真っ直ぐ向かう。
「おお。本当に悠斗の車になってる」
「昨日も見ただろ」
「人の所有物になったら別物」
「それはちょっと分かる」
蓮は助手席のドアを開け、中を覗き込んだ。
「で、今から走る?」
「そのつもり」
「じゃあ東行こうぜ」
カイがすぐに眉を寄せる。
「お前が煽るなよ」
「練習だって」
「蓮の『練習』は信用ならん」
「悠斗の車なんだから、悠斗が決めるだろ」
二人から見られ、悠斗は少し考えた。
一人で走ってみたい気持ちはある。
けれど、まだ買ったばかりの車で、夜の東部まで行くのは少し不安でもあった。
以前なら、そこで何も言わずに一人で帰っていたかもしれない。
頼むのが申し訳ない。
迷惑かもしれない。
そんなことばかり考えていた。
今は、少しだけ違う。
「蓮」
「ん?」
「……少し付き合ってくれる?」
蓮が一瞬だけ目を丸くする。
「いいけど」
「まだ一人で遠くまで走るの、ちょっと不安だから」
言ってから、少しだけ恥ずかしくなった。
蓮はからかうかと思ったが、意外にも普通に頷いただけだった。
「じゃあ助手席な」
カイが横から口を挟む。
「お前、ちゃんと助手席に座ってろよ。途中で運転代われとか言うな」
「言わねえよ」
「あと煽るな」
「分かってる」
「本当に?」
「今日のお前、保護者みたいだな」
「誰のせいだ」
悠斗は二人のやり取りを聞きながら、小さく笑った。
◇
中央地区から東へ向かうにつれ、景色が少しずつ変わっていった。
背の高い建物が減り、道路脇の店舗もまばらになる。低く傾いた夕日は乾いた土地を赤く染め、遠くには山の輪郭が霞んで見えた。
反対車線を大型トラックが風圧を残して通り過ぎる。
「そこ、ちょっと左寄ってる」
助手席の蓮が言う。
「これくらい?」
「もう少し右。そう」
悠斗はミラーを確認しながら位置を直す。
以前、蓮に借り物の古いセダンで練習を見てもらった時よりは、車幅を意識できるようになっていた。
それでも蓮ほど自然ではない。
「やっぱり自分の車だと違うな」
「何が?」
「同じ車にずっと乗れるから。ハンドルの重さとか、ブレーキの感じを覚えられる」
「それはでかい」
蓮が頷く。
「仕事ごとに車変わると、最初の数分で癖見ないといけないからな」
「蓮はすぐ分かる?」
「前よりは。でも初めて乗る車は普通に怖いぞ」
悠斗は少し意外に思った。
蓮はどんな車でも迷わず飛ばすように見える。
「怖いのに、あんな運転するの?」
「怖いから確認するんだよ。タイヤの食い方とか、ブレーキの効きとか、曲がった時の戻りとか」
悠斗は少しだけ考える。
「……それ、ジンさんも似たようなこと言ってた」
「一緒にすんな。俺の方が若い」
「そこ?」
蓮が笑う。
道路が空いてきたところで、悠斗は少しだけ速度を上げた。
「アクセル急に入れんな」
「今、そんなに?」
「ちょっとだけ。踏むっていうより、足乗せる感じ」
言われた通りに調整する。
車が前へ出る感覚が少し滑らかになった。
「今の方がいい」
たったそれだけの言葉なのに、少し嬉しい。
昨日車を買ったからといって、運転が上手くなったわけではない。
それでも、一つずつ分かることが増えている。
急に上手くなるより、その方がずっと信じられた。
◇
日が沈んだ頃、東部の小さな町へ入った。
ガソリンスタンドに寄り、初めて自分の金で自分の車へ給油する。
数字が回り、給油口へ燃料が入っていく。
それだけの光景なのに、妙に満足感があった。
併設された売店で飲み物を買って駐車場へ戻った時、少し離れた大通りを低いエンジン音を響かせながら何台もの車が通過していった。
赤。
白。
黒。
車高の低いスポーツカーが次々と夜の道路へ消えていく。
蓮がそちらを見る。
「あれ、たぶん今日走る奴らだな」
「レース?」
「多分」
胸が少しだけ高鳴った。
悠斗はすでに違法レースを見たことがある。
助手席から、速い車が競い合う光景も見た。
警察が現れ、一斉に逃げる緊張も知った。
けれど、自分で走ったことはない。
「見に行く?」
蓮に聞かれ、悠斗は遠ざかっていくテールランプを目で追った。
行きたい。
かなり。
だが、もし会場まで行けば、きっと走りたくなる。
「……見たいけど、今日はやめとく」
「珍しい」
「見たら走りたくなりそうだから」
蓮は数秒だけ悠斗を見たあと、笑った。
「それなら正解」
「行けって言うと思った」
「俺は走りたいけどな」
「やっぱり」
その時、悠斗のスマートフォンが震えた。
送り主は、一ノ瀬ハルトだった。
『悠斗、さっき東のスタンドにいたろ?』
悠斗は思わず周囲を見回した。
「見られてた?」
「何?」
「ハルトさんから」
画面を蓮に見せる。
続けて、もう一件。
『銀のセダン、買った?』
「……さっき通った車の中にいたのかな」
「たぶんな。あいつこの辺走ってるし」
これなら納得できる。
『今日買いました』
少し間を置いて返信が来た。
『いいじゃん。ちゃんと練習しろよ。次、初心者でも走れる時あるから、空いてたら来い。今度は見学じゃなくて自分の車で』
悠斗は画面を見つめた。
心臓が少し速くなる。
レースへ参加する。
以前なら、誘われたことだけで怖くなっていたかもしれない。
今も怖くないわけではない。
自分より上手い人間ばかりの中へ入る。
警察が来る可能性もある。
事故だって起こる。
それでも、その不安と同じくらい走ってみたいと思った。
「何て?」
蓮が覗き込む。
「次、初心者でも走れる時に来いって」
「行くだろ?」
悠斗はすぐには答えなかった。
駐車場に停めた銀色のセダンへ目を向ける。
速い車ではない。
レース向けでもない。
運転している自分だって、まだ初心者だ。
だからこそ、この車でどこまでできるのか試してみたい。
悠斗はスマートフォンへ指を置いた。
『行きたいです。日が決まったら教えてください』
送信する。
今度は迷わなかった。
すぐにハルトから、
『了解。まず事故んなよ』
と返ってくる。
「カイと同じこと言われた」
「みんなお前の運転心配してるんだな」
「蓮に言われたくない」
「俺は事故っても上手く事故る」
「それは上手くないだろ」
笑いながら運転席へ戻る。
帰り道は、来た時より少しだけハンドルが手に馴染んでいた。
違法レースへの参加が決まったわけではない。
まだ日程すら決まっていない。
それでも、次に走る時は誰かの助手席ではない。
自分の車を、自分の手で走らせる。
そう思うだけで、レイヴンシティの夜が少し違って見えた。
お読みいただきありがとうございます。
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そして本日はここまで明日も5話投稿します。
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