第1章 第19話 自分だけの足
自分の車が欲しい。
そう思うようになったのは、レイヴンシティへ来て一か月ほど経った頃だった。
タクシー会社の車は当然、勤務中しか使えない。裏仕事では相手側が用意した車に乗ることが多く、蓮と出かける時には彼の青いクーペへ乗せてもらっている。
移動するだけなら、それでも困らない。
けれど、誰かの都合に合わせず好きな時に街を走りたいと思う場面が、少しずつ増えていた。
運転の練習をしたい時。
カイの工場へ行きたい時。
東部まで足を伸ばしてみたい時。
夜、ただ街を走ってみたい時。
レイヴンシティは広い。中央地区の高層ビル群から東部の乾いた土地まで、車があれば行動できる範囲は一気に広がる。
それに、タクシーの給料と裏仕事で得た報酬も、最近は少しずつ貯まっていた。
最初に受けた二千ドルの仕事。
その後の数百ドル単位の送迎や運搬。
八百ドルの回収仕事。
アキラやシオンと関わった仕事。
全部を使ったわけではない。
安宿暮らしを続け、無駄な買い物もほとんどしていない。そのおかげで、生活費を残したままでも、安い中古車なら現実的に狙える程度の余裕ができていた。
「というわけで、車を買おうと思ってます」
昼休み。
カイの働く整備工場でそう告げると、車の下へ潜っていたカイが作業用ボードに寝転んだまま滑り出してきた。
「予算」
挨拶より先にそれだった。
「一応、五千ドルくらいまでなら」
「全部使う気?」
「……車って、それくらいしない?」
「しないとは言ってねえよ」
カイは立ち上がり、油の付いた手袋を外した。
工場内ではエア工具の乾いた音が断続的に響き、奥では別の整備士が開いたボンネットの中へ顔を突っ込んでいる。半分ほど開いたシャッターから午後の光が差し込み、床に落ちた車体の影を長く伸ばしていた。
「車買ったら終わりじゃねえぞ。登録、保険、税金。古い中古なら最初の整備代も見とけ」
「そんなに残しておいた方がいい?」
「残せ。特にお前は初心者なんだから、買った直後に全部金なくなるのが一番ダメ」
「じゃあ、車本体は三千五百くらい?」
「その辺が無難」
「何買えます?」
「走る箱」
「もう少し夢のある言い方してください」
「三千五百で夢見んな」
カイはそう言いながらも、少しだけ笑っている。
「まあ、俺ならその予算なら地味なセダン見るけどな」
「地味なの嫌なんですか?」
「俺は嫌」
「おすすめしてるのに?」
「整備しやすいのと、俺が乗りたいかは別」
その言い方に、悠斗は少し安心した。
カイは何でも正解を知っているわけではない。
車に詳しいだけで、好みは好みとしてちゃんとある。
「初めての車なんだから、壊れにくくて部品があって、ぶつけても寝込まない程度の値段でいいんだよ」
「やっぱりぶつける前提なんだ……」
「初心者だからな」
その時、工場の外から聞き覚えのあるエンジン音が近づいてきた。
青いクーペが敷地へ滑り込んでくる。
「噂をすれば」
「何の噂ですか?」
「金かかる奴」
運転席から蓮が降りてきた。
「おー。悠斗いるじゃん」
「今日は何?」
「オイル交換」
蓮が答えるより早く、カイが冷たい声を出す。
「交換時期とっくに過ぎてるから説教込み」
「八百キロくらいだろ?」
「八百キロを誤差扱いするな」
「まだ壊れてない」
「壊れてから持ってくんな」
悠斗は二人のやり取りを眺めながら、以前の駐車場で初めて二人が元からの知り合いだと知った時のことを思い出した。
カイと蓮。
一人は整備士。
一人は運転好きの犯罪仲間。
自分がこの街へ来る前から、二人には二人の関係がある。
「で、何の話してたの?」
蓮が尋ねる。
「悠斗が車買う」
「マジ?」
反応が一気に変わった。
「何買う?」
「まだ決めてない」
「クーペにしようぜ」
「却下」
カイが即答した。
「なんでお前が決めるんだよ」
「初心者に速い車勧める奴がいるからだよ」
「速くても踏まなきゃいいだろ」
「お前がそれ言う?」
「俺は踏む」
「説得力ゼロ」
悠斗は二人を交互に見る。
「……二人とも、来てくれません?」
「どこに?」
「中古車屋」
口にしてから、少しだけ緊張した。
自分の買い物に付き合わせるのは悪い。
以前なら、そう考えて最初から一人で行っていたかもしれない。
カイは一秒も迷わなかった。
「今日、仕事終わった後ならいいぞ」
蓮も続く。
「俺も行く」
「どっか行くって言ってなかった?」
「車選ぶ方が面白い」
悠斗の口元が自然に緩んだ。
「じゃあ、お願いします」
◇
三時間後。
三人が向かったのは、南部地区の大通り沿いにある中古車販売店だった。
広い敷地には二十台以上の車が斜めに並び、フロントガラスには価格と走行距離を書いた札が貼られている。
派手な赤いクーペ。
角張った大型SUV。
荷台に細かい傷が残るピックアップ。
年式の古いセダン。
見ているだけなら楽しい。
「これ」
入って三十秒で蓮が赤いクーペを指差した。
「予算見ろ」
カイが価格札を軽く叩く。
一万二千ドル。
「ローン」
「十七歳に借金勧めんな」
「でも格好いいぞ」
「格好よさで修理代払えねえだろ」
悠斗は二人の後ろを歩きながら、少し離れた列へ目を向けた。
そこに一台、地味な銀色の四ドアセダンがあった。
年式は古い。
塗装も完璧ではなく、後部バンパーには細い擦り傷が残っている。
価格は三千二百ドル。
「これとか?」
悠斗が言うと、蓮が露骨に嫌そうな顔をした。
「地味」
「そこがいいんだけど」
「悠斗って車選びまで悠斗だな」
「どういう意味?」
「目立たない」
「褒めてないよね?」
カイは反対に、車の周囲を一周し始めた。
タイヤを覗き、下回りへ目を向け、ボンネットを開ける。
「エンジンかけていいですか?」
販売員へ確認し、キーを受け取った。
始動すると、少し古さを感じる音はするものの回転は安定している。
カイが耳を澄ました。
「……悪くない」
「本当?」
「少なくとも一目見て帰れって言う車じゃない」
「基準低くない?」
「三千ドル台の中古に何期待してんだ」
蓮も運転席へ座り、ステアリングを左右へ小さく動かす。
「これ、思ったより素直だな」
悠斗が見る。
「分かる?」
「ハンドル切った時の戻り方が変じゃない。足も柔らかそうだし、挙動分かりやすいんじゃね」
「珍しくまともなこと言った」
カイが横から口を挟む。
「珍しくは余計」
「普段が普段だからな」
蓮は無視してペダルを踏み直した。
「速くはなさそうだけど、悠斗が練習するならこういう方がいいかもな」
「さっきクーペって言ってたのに」
「あれは見た目の話」
「意見変わるの早いな」
「乗る本人が地味なの好きなら仕方ない」
「まだ地味言う?」
悠斗は銀色のセダンを眺めた。
配信で見ていたギャングたちは、派手なスポーツカーや高級車に乗っていた。
憧れはある。
自分もいつか乗ってみたい。
けれど今の自分には、この少し地味な車の方が似合っている気がした。
「試乗していいですか?」
◇
販売店の周囲を一周するだけの短い試乗だった。
悠斗が運転席。
助手席にカイ。
後部座席には蓮。
「出る時右」
「分かってる」
「ミラー」
「見た」
「後ろ」
「来てない」
「じゃあ行け」
「教官みたい」
「まだ信用ねえから」
ゆっくり道路へ出る。
タクシーとは違う。
勤務中ではない。
客もいない。
自分が買うかもしれない車を、自分のためだけに運転している。
ハンドルは少し重く、アクセルを踏んでも蓮の青いクーペのような鋭い反応はない。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
「もうちょい踏んでも大丈夫」
後ろから蓮が言う。
「試乗車で無茶したくない」
「誰が無茶しろって言った」
「蓮だから」
「信用ねえなあ」
交差点を曲がり、少し荒れた舗装へ入る。
車体が小さく揺れる。
蓮が後部座席で窓の外を見ながら呟いた。
「このくらいの速度なら変な振られ方しないな。初心者には扱いやすそう」
「それならよかった」
「ただ逃げ足は――」
カイが横目で見る。
「何から逃げるんだよ」
「高速で遅いって意味」
「言い方が悪い」
悠斗は何も言わず、前だけを見る。
余計なことを口にしなかった自分を、少しだけ褒めたくなった。
カイは足元から聞こえる音へ意識を向けていた。
「右前、少し音するな」
「まずい?」
「たぶんスタビリンク。安い」
「それ交換したら?」
「俺がやれば部品代だけでいい」
「ありがとう」
「まだ買ってねえぞ」
販売店へ戻る。
エンジンを止めたあと、悠斗はしばらくハンドルから手を離さなかった。
「気に入った?」
蓮が聞く。
「……うん」
「地味なのに?」
「もうそれいいだろ」
悠斗は笑った。
◇
交渉の結果、右前の部品交換を販売店側で行う条件で、価格は三千ドルになった。
登録手続きと保険の加入も済ませる。
残りの金は、しばらく生活費と修理代として手を付けないことにした。
すべてが終わった頃には、空がすっかり夕方の色へ変わっていた。
店の照明が点き始め、並んだ車のボディに白い光が反射している。
「本当に買ったな」
蓮が銀色のセダンを眺める。
「買った」
「もっといいのあったのに」
「予算倍以上のやつ?」
「ローンという文明が――」
「やめろ」
カイが遮った。
「まずこれで運転覚えろ。変な改造もすんな」
「誰がするんですか」
悠斗が返すと、蓮が口を挟む。
「車高だけ落とそうぜ」
「お前は黙れ」
「まだ何もしてないだろ」
「未来の故障を止めてる」
悠斗は二人のやり取りを聞きながら、少し笑った。
「納車は整備終わってから?」
「明日の夕方だって」
「じゃあ持ってきたら一回うちで見る」
「いいの?」
「その代わり飯一回」
「安い」
「じゃあ三回」
「増やさないで」
蓮が横から割り込む。
「俺も選んだから飯」
「蓮は予算外のクーペ勧めただけだろ」
「後半ちゃんと見ただろ」
「最後だけ」
「じゃあ半人前で半飯」
「半飯って何?」
三人で駐車場を出る。
悠斗は一度だけ振り返った。
銀色のセダンは、店の端に静かに停まっている。
速くない。
高級でもない。
目立ちもしない。
それでも、あれは初めて自分で選び、自分の金で買った車だ。
明日からは、行きたい場所へ自分で行ける。
「悠斗」
少し先からカイが呼んだ。
「置いてくぞ」
「あ、今行く」
悠斗は二人の方へ走った。
今夜はまだ、蓮の青いクーペで帰る。
けれど明日からは違う。
レイヴンシティへ来て一か月。
この街で初めて、自分だけの足ができる。
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