第5章 第194話 あと少し
表彰式が終わってから、ほんの数分。
スタッフが表彰台や授与用の台を片づける間に、閉会式の準備もほとんど整っていた。
ステージ前には、表彰式を見ていた観客たちがそのまま集まっている。そのすぐ横には、決勝を走り切ったマシンが最終順位のまま並び、閉会式を待つ観客たちが時折そちらへスマートフォンを向けていた。
悠斗はステージ袖でナナと並びながら、最後の進行を確認していた。
「最初が風間さんで、そのあと玲司さんだよね」
「うん」
ナナが進行表へ目を落とす。
「玲司さんの挨拶が終わったら閉会だね」
「やっとここまで来た……」
悠斗が小さく息を吐くと、ナナも苦笑した。
「長かったね」
「うん。でも、あと少し」
朝からずっと気を張り続けてきた。
レースの進行、展示、出店、警備、表彰。途中で細かな問題は何度も起きたが、どうにかここまで来た。
あとは閉会式を終えればいい。
悠斗は本気でそう思っていた。
やがてスタッフから合図が出る。
司会がマイクを取った。
『それでは、ただいまよりRAVEN MOTOR FEST、閉会式を始めます!』
ステージ前から拍手が起こる。
『まずは、SHIFT代表の風間リクさんから、一言いただきます!』
「俺から?」
分かっていたはずなのに、リクは少しだけ面倒そうな顔をした。
それでもステージ中央へ出ると、司会からマイクを受け取る。
再び拍手が広がった。
リクは客席をざっと見渡した。
「えー……今日は来てくれてありがと」
妙にかしこまることもなく、いつも通りの口調だった。
「俺も走る側だったから、運営の細かいところまでは全部見れてないけど、普通に楽しかった」
客席のあちこちから笑いが起きる。
「レースも最後までちゃんと走れたし、展示も出店も結構人入ってたみたいだし。まあ、よかったんじゃないかな」
リクは一度、ステージ横に並ぶ車へ目を向けた。
「参加した奴らもお疲れ。見に来てくれた人もありがと。店出してくれたところとか、協賛してくれたところとか、スタッフとか警備とか、その辺も全部ありがと」
少しだけ考えたあと、リクは玲司の方を見る。
「俺からはこんなもんかな。それじゃ、あとは玲司に任せる」
そう言ってマイクを司会へ返し、そのままステージ脇へ下がった。
司会が再び中央へ出る。
『ありがとうございました! それでは続いて、NOX代表の九条玲司さんからご挨拶をいただきます!』
観客から拍手が起こる。
その中を玲司がステージ中央へ歩いていき、司会からマイクを受け取った。
さっきまで少しざわついていた観客席が自然と静かになる。
玲司は正面を向いた。
「今日ここまで残ってくれた奴ら、ありがとう」
低く、よく通る声が会場へ響く。
「まず、今日このイベントに来てくれた客。レースに出たドライバー。展示や出店に参加してくれた店と会社。協賛に入ってくれた連中。運営会社、警備、スタッフ。全員に礼を言う」
必要以上に飾らない。
けれど、一部だけを持ち上げることもない。
「今回のRAVEN MOTOR FESTは、NOXとSHIFTで一緒に作ったイベントだ」
玲司はSHIFT側の関係者へ視線を向けた。
「企画から運営まで、両方で話し合って決めた。レースのルールも、展示も、警備も、客の入れ方もそうだ。どっちか片方だけじゃ、今日みたいな形にはなってねぇ」
SHIFT側からも拍手が起こった。
悠斗は袖からそれを聞きながら、少しだけ肩の力を抜く。
最初は、ここまで大きなイベントになるとは思っていなかった。
ただレースをやるだけだったはずが、展示が増え、出店が増え、協賛が増え、気づけばサーキット全体を使う規模になっていた。
玲司が一度言葉を切る。
「それと、神谷悠斗。ステージへ上がれ」
「……え?」
突然名前を呼ばれ、悠斗は顔を上げた。
隣のナナも玲司を見る。
「悠斗、呼ばれてるよ」
「うん。でも、なんで?」
「知らない」
ナナも本当に分かっていない顔をしていた。
何をさせられるのか分からないまま、悠斗はステージ袖から表へ出る。
その瞬間、それまで玲司へ向いていた観客の視線が一斉に自分へ集まった。
胸の奥が急に騒がしくなる。
表彰式のときは袖から見ているだけだった。けれど、自分が見られる側に立つとまるで違う。
目の前を埋める人、人、人。そのさらに奥にも観客が続いている。
何で呼ばれたのか分からない。
このあと何を言われるのかも分からない。
ただ大勢の視線だけが自分へ向いている。
喉が乾き、歩幅までぎこちなくなりそうだった。
それでも止まるわけにはいかない。
悠斗は緊張で身体が強張るのを感じながら、どうにか玲司の横まで歩いていった。
玲司は悠斗が隣に立ったのを確認すると、改めて観客へ向き直る。
「今回、NOXとSHIFTの間に入って、イベント全体をまとめてたのはこいつだ」
客席の視線が改めて悠斗へ集中する。
「全部を一人でやったわけじゃねぇ。そんなことできるわけもないし、やらせてもない」
玲司は淡々と続ける。
「人に任せるところは任せた。問題が出たら拾った。NOXだけじゃなくSHIFTとも話した。店とも会社とも話した。必要ならその場で判断した」
悠斗は隣で黙って聞いていた。
まさか閉会式で、自分の仕事について話されるとは思っていなかった。
「それで今日、ここまで持ってきた」
観客の中から拍手が起こる。
悠斗はどう反応していいのか分からず、軽く頭を下げた。
袖へ視線を向けると、ナナたちもこちらを見ている。何のために悠斗が呼ばれたのかは、誰にも分かっていないようだった。
玲司は拍手が収まるのを待ってから、悠斗へ一度だけ視線を向ける。
「今回、こいつに全体の調整を任せたのは、ただ人手が足りなかったからじゃねぇ」
悠斗が玲司を見る。
「NOXとSHIFTの間に入って、人を動かして、問題が出たら拾って、その場で判断する。最後まで投げずに、ここまで回した」
玲司は会場全体へ目を向けた。
「それを見て、もう十分だと判断した」
悠斗は眉を寄せる。
何を判断したのか。
そこまで聞いても、まだ分からない。
玲司は一度、リクへ視線を向けた。
リクは何も言わず、小さく頷いた。
そして。
「今日付で、神谷悠斗をNOXの幹部に上げる」
「……え?」
悠斗の口から声が漏れた。
一瞬、誰のことを言っているのか分からなかった。けれど、玲司が口にした名前は間違いなく自分のものだった。
意味を理解した瞬間、心臓が大きく跳ねる。
「は!?」
真っ先に声を上げたのは蓮だった。
「マジで!?」
アキラも思わず声を張り、ナナは驚いたまま悠斗と玲司を交互に見る。
「え、聞いてないんだけど!」
その隣では、普段あまり表情を崩さないシオンまで目を見開いていた。
悠斗も反射的に玲司を見る。
「僕も聞いてないです」
会場にもざわめきが広がっていった。
一般客だけではない。
協賛企業の関係者たちが隣同士で顔を見合わせ、他ギャングの人間たちはステージ上の悠斗を見ながら何かを話している。SHIFT側にも驚いた表情が広がっていた。
今は、昇格を告げられた本人が玲司の隣に立っている。
誰が新しい幹部なのか、会場のどこから見ても分かる。
悠斗だけが、まだ完全には状況を飲み込めていなかった。
玲司が横から悠斗を見る。
「驚いたか?」
「先に言ってくださいよ……」
「言ったら面白くねぇだろ」
悠斗は思わず玲司を見る。
「そういう理由ですか?」
「半分な」
もう半分が何なのか聞く前に、玲司がマイクを差し出した。
「最後はお前が話せ」
「僕がですか?」
「お前がまとめたイベントだろ」
「いや、僕だけじゃ――」
「分かってる。だからそれも含めて言え」
玲司はそれだけ言うと、一歩下がった。
悠斗はマイクを受け取る。
ただでさえ大勢の前へ出ただけで緊張していた。
そこへ突然の幹部昇格まで重なった。
何を言えばいいのか、頭の中がまとまらない。
マイクを握る手にも自然と力が入る。
目の前には、さっきよりさらに多くの視線が自分へ向けられているように感じた。
「……えっと」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
客席のどこかから小さな笑いが起こる。
悠斗は一度息を吸った。
「今、初めて聞いたので……正直、まだ全然実感ないです」
今度は少し柔らかな笑いが広がる。
「幹部って言われても、何をするのかもまだ聞いてないし、分からないことばっかりだと思います」
自分でも、情けない挨拶だとは思う。
それでも急に格好いいことを言えるほど、悠斗は人前に慣れていない。
「でも、任せてもらったなら、その分の仕事はちゃんとやります」
そこだけは、迷わず言えた。
悠斗は一度、NOXの仲間たちへ目を向ける。
その向こうにはSHIFTのメンバーもいる。
「あと、今日のイベントも、僕一人で作ったわけじゃありません」
少しずつ、言葉が出てくる。
「NOXとSHIFTのみんながいて、レースに出てくれた人がいて、出店してくれた店や会社がいて、協賛してくれた人がいて、運営や警備の人がいて、それで今日できました」
悠斗はマイクを握り直した。
「来てくれた皆さんも、本当にありがとうございました」
観客から拍手が返ってくる。
その音を聞き、張りつめていた身体からほんの少しだけ力が抜けた。
「こういうイベントをやるのは初めてで、途中で何回も大丈夫かなって思ったんですけど……最後までちゃんと終われそうでよかったです」
そこまで言ってから、悠斗は気づいた。
まだ自分が締めていない。
「……いや、まだ終わってないですけど」
会場からはっきりと笑いが起こった。
悠斗自身も、ようやく少しだけ笑うことができた。
緊張がなくなったわけではない。
心臓はまだ速いし、マイクを持つ手にも力が入っている。
それでも、最初にステージへ出たときよりは客席を見る余裕ができていた。
悠斗はもう一度、会場を見渡す。
ステージ横には順位順に並んだマシン。
その向こうには展示ブースや出店のテント。
そして、それらを囲む大勢の観客。
この景色を作ったのは、自分一人ではない。
けれど、その中に自分も確かにいた。
悠斗はマイクを持ち直す。
「それでは――」
一瞬だけ間を置いた。
「これで、RAVEN MOTOR FESTを終了します」
深く頭を下げる。
次の瞬間、会場いっぱいに拍手が広がった。
歓声も混じる。
蓮が大きく手を叩き、ナナも笑っている。アキラやシオンの姿も見える。SHIFT側からも拍手が送られていた。
悠斗はゆっくりと顔を上げた。
さっきまで自分が進行を確認していたステージ。
その同じ場所で、今度は自分の言葉でイベントを締めた。
まだ、幹部になったという実感はない。
何が変わるのか。
これから何を求められるのか。
そもそも、幹部が何をするのかさえ詳しく聞いていない。
ただ一つだけは、はっきりしていた。
今日という日は、RAVEN MOTOR FESTが終わった日であると同時に。
神谷悠斗が、NOXの幹部になった日でもあった。
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