第5章 第191話 二時間の先頭争い
スタートシグナルが消えた瞬間、十台のスーパーカーが一斉に前へ飛び出した。
最前列から出た御堂一成の《アルシオン・セレス》とエリック・クロフォードの《ラグナード・ヴェノム》は、ほとんど並んだままホームストレートを加速していく。二列目からは柊サラの《フェルゼン911R》と鷹宮セイヤの《ヴェルティアX12》が続き、その後ろにも残る六台が大きく離れずについていた。
「クロフォードさん、出た!」
悠斗が声を上げる。
発進そのものでは大きな差はつかなかった。だが第一コーナーが近づいても、クロフォードは御堂の横から離れない。
先に御堂がブレーキへ入った。
それでもヴェノムは、まだ前へ進む。
「え、まだ踏んでる!」
蓮が身を乗り出した。
ほんの一瞬遅れてクロフォードも強くブレーキへ入る。御堂より深い位置まで速度を残したヴェノムは、そこから一気に減速しながら第一コーナーへ入り、その進入で半台ほど前へ出た。
御堂も食らいついたが、出口ではクロフォードが先に車を前へ向け、そのまま加速していく。
「抜いた!」
悠斗が叫んだのとほとんど同時だった。
「よしっ!」
「前出た!」
クロフォード陣営のピットからも、一斉に歓声が上がった。
メカニックの一人が拳を握り、別のスタッフは前へ身を乗り出してコースを見ている。世界で走るクロフォードのチームとはいえ、スタート直後の第一コーナーで御堂から先頭を奪った瞬間まで冷静でいられるわけではなかった。
『エリック、トップだ』
「見れば分かるよ」
クロフォードの返事は軽い。
だが声には、わずかに楽しそうな響きが混じっていた。
一位、エリック・クロフォード。二位、御堂一成。その後ろではサラが三位、鷹宮が四位を守り、十台が最初の区間へ入っていく。
観客席からも大きな歓声が上がっていた。
その頃、セレスの車内では、御堂が前へ出たヴェノムを一瞬だけ見ていた。
「……やるな」
それだけ呟くと、すぐに視線を前へ戻した。
◇
「いきなり御堂さん抜いた……」
悠斗がまだ驚いたように言う横で、カイもコースから目を離していなかった。
「ブレーキ、かなり奥だったな」
「クロフォードさんだからできるの?」
「腕がなきゃ無理だろ。あそこまで速度残して、ちゃんと止めて曲げてんだから」
数周を重ねると、クロフォードのヴェノムが決勝序盤ではかなり高いペースで走っていることが悠斗にも分かってきた。もちろん、一周だけの最速を狙った予選タイムほどではない。それでも二時間を走る決勝の中では、ほかの車よりわずかに速い。
最初の数周こそ御堂のセレスもすぐ後ろについていたが、十分、十五分と経つにつれて二台の間隔は少しずつ広がり始めた。
『エリック、後ろ少し離れた』
「うん。このまま行く」
『飛ばしすぎるなよ』
「分かってるって」
返事こそいつもの軽さだったが、ヴェノムの走りに乱れはない。
クロフォードは一周ごとに、ほんのわずかずつ御堂との差を広げていく。
「さっきより離れてない?」
「離れてるな」
蓮も気づいていた。
「御堂さんのペースが落ちた感じはしねぇんだけどな」
カイが首を傾げる。
「じゃあクロフォードさんの方が速い?」
「今の決勝ペースで見れば、そう見える」
一方、セレス側の無線は静かだった。
『一成、前は少しずつ離れてる』
「分かってる」
『今は追う?』
「いや。このままでいい」
御堂は余計なことを言わない。
ペースを乱すこともなく、一定のリズムでクロフォードを追い続ける。
「御堂さん、焦らないね」
「俺なら焦る」
蓮が即答した。
「第一コーナーでいきなり抜かれたら?」
「絶対焦る」
「神崎さんに追われただけでも焦ってたもんね」
「それもう言うなって」
蓮が嫌そうな顔をしたので、悠斗は笑った。
◇
その後ろでは、サラと鷹宮の三位争いが続いていた。
フェルゼン911Rの後ろにはヴェルティアX12がつき、サラがコーナー出口でわずかに膨らめば鷹宮が距離を詰める。すぐに横へ並べるほどではないものの、少しでもサラが崩せば仕掛けられる位置を保ったまま走っていた。
『サラ、後ろずっと鷹宮だ』
「知ってるって。さっきからずっといる」
『結構詰めてきてるぞ』
「結構速いじゃん、鷹宮」
口調は楽しそうだった。
それでもサラの走りは変わらない。
『無理して合わせるなよ』
「分かってる。こっちはこのまま行く」
性格だけなら蓮に近いくらい賑やかだが、ハンドルを握っている時の走りは安定していた。
「サラ、楽しそうだな」
蓮が笑う。
「蓮と似てるね」
「どこがだよ」
「結構全部」
「絶対違う」
そう言いながらも、蓮はどこか嬉しそうだった。
三十分を過ぎる頃には、後方を走る一台が先頭集団に追いつかれ始めた。周回遅れとなった車はルール通りラインを譲り、クロフォードと御堂を順番に前へ通す。その少しあとにサラも同じ車へ追いつき、空いた側からスムーズに抜いていった。
ところが鷹宮が同じ場所へ差しかかった時には、周回遅れの車がラインを戻そうとしたタイミングとコーナーへの進入が重なった。
「うわ」
鷹宮が思わず声を漏らす。
無理に横へ入らず、一度アクセルを戻した。接触するような危険な状況ではなかったが、高速域で一度速度を緩めたぶん、サラとの距離は目に見えて広がった。
『セイヤ、焦るな。まだ長い』
「分かってる」
返事はした。
だが、その直後からヴェルティアX12の走りが少し変わった。
それまでよりブレーキングを奥まで使い、立ち上がりでも早めにアクセルを入れていく。
「鷹宮さん、ペース上げた?」
「上げたな」
カイが答える。
あるコーナーでは進入を攻めすぎて出口が外へ膨らみ、別の場所では立ち上がりでリアが一瞬だけ流れた。
「くそっ」
鷹宮が小さく漏らす。
『セイヤ、無理しすぎるな』
「分かってるって」
言葉とは裏腹に、走りはまだ攻めたままだった。
それでも鷹宮は速い。
一つのコーナーで小さく失っても、別の場所でそれ以上を取り返している。開いたサラとの差は、一周ごとに縮まっていった。
「ミスしてるのに追いついてる」
悠斗が驚く。
「今はサラさんより少し速いんだろうな」
カイが答える。
「ただ、あの走りをずっと続けるのはキツいぞ」
対するサラは、後ろが近づいてきても大きくペースを変えない。
『サラ、また後ろ来てる』
「ほんとしつこいなあ」
『ペース上げるか?』
「いらない。まだこれでいい」
言い方は軽い。
それでも走りは崩れない。
四十分を迎える頃には、鷹宮は再びサラへ仕掛けられそうなところまで戻っていた。
だが、その直後。
ヴェルティアX12がコーナーへの進入で少し奥へ行きすぎ、出口で大きく外へ膨らんだ。
「ちっ……!」
『だから言っただろ。落ち着け』
「今のは分かってる!」
すぐに立て直したため、大きなロスではない。
それでも、せっかく縮めたサラとの差が少しだけ戻った。
速い。
だが、攻めれば小さなミスも出る。
サラほど安定しているわけではない。
そこに二人の違いが出始めていた。
◇
四十分を過ぎる頃には、クロフォードと御堂の間にも、スタート直後とは比べものにならないほどの差ができていた。
一周ごとなら、ほんのわずかな違いだった。
だが、その小さな差を積み重ねれば、無視できないものになる。
「ずっとちょっとずつ離してる」
悠斗が言う。
「クロフォードさん、前半から結構飛ばしてんな」
蓮も少し気になってきたようだった。
五十分を過ぎても、その流れは変わらなかった。
そして一時間が近づいた頃。
先頭のヴェノムが最終コーナーを抜けたあと、突然通常のラインから外れた。
「あれ?」
悠斗が真っ先に気づく。
ヴェノムは速度を落とし、そのままピットロードへ入ってきた。
「え、もう?」
ナナが驚く。
「早くない?」
蓮もピットロードへ顔を向けた。
「故障?」
悠斗が思わず言う。
◇
『エリック、予定通りだ。ここで入る』
「了解」
『タイヤは?』
クロフォードは短く答えた。
「問題ない。燃料だけでいい」
『了解、燃料だけ』
ヴェノムが所定の位置へ止まる。
スタッフがすぐに車へ寄った。
だが、ボンネットは開けない。タイヤにも手をつけない。
給油だけが始まる。
「……給油?」
蓮が呟いた。
「故障じゃないんだ」
悠斗も意外そうに作業を見る。
カイはしばらく黙っていた。
給油以外に何も始まらない。
そのまま数秒ほど見たあと、カイがふと眉を寄せた。
「……ああ、そういうことか」
「何?」
「最初から燃料少なめで出てたんじゃねぇか?」
「え?」
カイはスタート直後の第一コーナーを思い返すようにコースを見る。
「他より軽くして前半で稼いでたんだよ。だから早く給油に入る」
悠斗も、あの第一コーナーを思い出した。
御堂がブレーキへ入ったあとも、クロフォードだけはさらに奥まで速度を残していた。
「じゃあ、あのブレーキ遅かったのも?」
「軽かった分は効いてたかもしれねぇ。ただ、それだけであそこまで突っ込めるわけじゃない。腕もあってだろ」
蓮も納得したように頷く。
「だから前半ずっと差作ってたのか」
「たぶんな。ここで止まる時間まで考えて、その前にできるだけ稼いでたんじゃねぇか?」
「すご……」
第一コーナー。
前半の速さ。
そして一時間を待たずに入ったピット。
それまで別々に見えていたものが、一つにつながった。
◇
給油を終えたヴェノムがピットを離れる。
前半に作った余裕は大きく削られていた。
ヴェノムが制限速度を守りながらピットロードを出口へ向かう。その頃、御堂のセレスはまだ最終区間を走っている。
「御堂さん、もうあそこまで来てる!」
悠斗がコースの奥を指さした。
「でも、まだ最終コーナー手前だ」
蓮もすぐに見つける。
ヴェノムがピット出口を通過する。
制限区間を抜けた瞬間、クロフォードは一気に加速した。
その直後、セレスが最終コーナーへ入る。
「クロフォードさん、先に出た!」
少し遅れて御堂もホームストレートへ姿を現した。
一位、エリック・クロフォード。
二位、御堂一成。
順位は変わらない。
ただ、前半の大きな余裕はもうなかった。
『エリック、後ろ来てる』
「見えてる」
クロフォードの声から、スタート直後までの軽さが少し消えた。
その後ろ。
『一成、前見えた』
「ああ」
『今の方がペースいい。焦らなくていい』
「分かってる」
御堂も、それ以上は何も言わなかった。
数周が経つ。
クロフォードも高いペースを維持している。
それでも今は、御堂の方が少しずつ速い。
ヴェノムの後ろに、セレスが近づいていった。
◇
やがて御堂は、クロフォードのすぐ後ろまで追いついた。
『エリック、後ろ来た』
「知ってる」
『無理するなよ』
「それも知ってる」
それでもクロフォードは簡単に道を譲らない。
コーナーへ入る前には早めに内側を意識し、御堂へ簡単に入り込める場所を与えなかった。
「クロフォードさん、完全に守ってるね」
悠斗が言う。
カイは二台の動きをしばらく見ていた。
「御堂さんが給油入るまで前にいられれば、その間にまた差作れるからな。そこまで押さえたいんじゃねぇか?」
「それが狙い?」
「たぶんな」
前半で時間を稼ぎ、早く給油する。
そのあとも御堂を後ろへ置いたまま走り、御堂がピットへ入ったところでもう一度逃げる。
もしそこまで成功すれば、後半にもう一度真正面から戦う必要はなくなる。
◇
だが、御堂はピットまで後ろに留まらなかった。
『一成、まだ行かなくてもいい』
「分かってる」
御堂はすぐには仕掛けない。
何周かクロフォードの後ろにつき、ラインと動きを見続ける。
そして最終コーナー。
ヴェノムの立ち上がりに、ほんのわずかな隙ができた。
「……ここだ」
セレスが背後へぴたりとつく。
「行く!」
蓮が声を上げた。
ホームストレートへ入った瞬間、御堂が横へ出る。
クロフォードもすぐに反応した。
「来たか」
二台が並んだままブレーキングへ入る。
クロフォードが外。
御堂が内。
御堂がわずかに先に車を前へ向けた。
「抜いた!」
悠斗が叫ぶ。
一位、御堂一成。
二位、エリック・クロフォード。
『エリック、まだ終わってない』
「分かってるよ」
クロフォードもすぐにセレスの後ろへついた。
◇
今度は御堂が前だった。
数周を使い、少しずつクロフォードとの間に余裕を作っていく。
『一成、予定の時間近い』
「あと何周?」
『今のペースなら、もう少し引っ張れる』
「分かった」
レースはすでに一時間半を過ぎていた。
そして数周後。
セレスが最終コーナーを抜け、そのままピットロードへ向かう。
「御堂さん入った!」
給油が始まった。
その間にクロフォードがホームストレートを通過し、再び先頭へ戻る。
『エリック、トップ戻った』
「今度こそ逃げたいね」
クロフォードが短く笑う。
だが本来なら、御堂を抜かせないままこのピットまで持ってきたかったはずだ。
そうできていれば、もっと大きな差を作れた。
御堂に一度前へ出られ、さらに数周逃げられたことで、その計算は崩れている。
◇
御堂の給油が終わり、セレスがピットロードを出口へ向かう。
「クロフォードさん、あそこ!」
悠斗がコースの先を指さした。
先頭のヴェノムは、ちょうど第二コーナーへ差しかかろうとしている。
「二つ先か」
蓮もその位置を確認する。
セレスがピット出口を抜けた頃には、クロフォードはすでに第二コーナーへ入っていた。
『一成、前は第二コーナー』
「見えてる」
『まだ時間ある。焦るな』
「ああ」
セレスが加速しながら本コースへ戻っていく。
◇
数周後。
クロフォードが周回遅れの車へ追いついた。
相手もラインを譲ろうとしたが、その動きがちょうどコーナーへの進入と重なる。
ヴェノムは早い段階で相手の動きを読み、少しだけラインを変えた。
無理には入らない。
必要なところだけ、一瞬アクセルを戻す。
そのまま車体を乱さず抜き、前が開いた瞬間にはもう加速へ移っていた。
「……今の、ほとんど失ってなくない?」
悠斗が驚く。
「少ないな」
カイも素直に認めた。
「鷹宮さんの時、もっとスピードが落ちたよね」
「状況が完全に同じじゃないから、そのまま比べるのは違うけどな」
カイはそう前置きしてから続ける。
「でもクロフォードは相手の動き読むのが早い。戻した時間も短いし、抜いたあとの加速もすぐだ。上手いよ」
前半の鷹宮も、安全を優先してアクセルを戻した判断自体は正しかった。
ただ、その時は一度速度を落としたぶん、元のペースへ戻るまでに少し時間がかかっている。
クロフォードは違った。
失う速度そのものを最低限に抑えている。
『エリック、今ので少し詰められた』
「分かってる」
クロフォードの返事は短い。
一方、その後ろでは御堂も距離が縮まったことに気づいていた。
『一成、少し近づいた』
「ああ」
それだけ答え、御堂はまたヴェノムを追う。
「あ、やっぱり近づいてる」
蓮がコースの先を見る。
ピットを出た時には第二コーナーまで先行していたヴェノムが、前よりはっきり近くなっている。
クロフォードはミスをしていない。
周回遅れの処理も上手かった。
それでも、そのわずかなロスすら御堂は逃さない。
二台の距離が、少しずつ小さくなっていく。
クロフォードが望んでいたのは、もう一度御堂と真正面から争うことではなかった。
もっと大きな差を残し、そのまま逃げ切ることだったはずだ。
だが、そうはならなかった。
先頭はまだクロフォード。
その後ろから、御堂が確実に近づいてくる。
二度目の勝負は、もうすぐそこまで迫っていた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




