第5章 第188話 残り五分
神崎の《ヴェクサーR》が予定外のピットへ入ったことで、先頭は風間リクの《セルディア2000RS》へと変わった。
そのすぐ後ろには、ここまで一度も給油へ入っていない榊原ユウの《グリフォンRS》が張りついている。
残り時間は十五分を切ったばかりだった。
「そのまま首位争いになったね」
悠斗は大型モニターから目を離さない。
少し前まで二位を争っていた二台が、神崎のトラブルによってそのまま一位と二位へ繰り上がっただけだ。
それでも、順位表示の最上段に二人の名前が並ぶと、さっきまでとは空気が違って見えた。
「ああ。しかも今は榊原の方が少し速い」
カイがラップタイムを確認する。
グリフォンRSは、スタートから一度も止まっていない。
最初に積んだ燃料を使い続け、序盤より明らかに軽くなっている。
一方のセルディア2000RSは、少し前に給油を済ませたばかりだ。残り時間を走り切るための燃料を積み直している。
その違いは、わずかだがラップタイムにも出ていた。
だからといって、簡単に抜けるわけではない。
長い直線へ入ると、グリフォンRSがセルディア2000RSの真後ろについた。
距離が縮まる。
榊原が車体を外へ振った。
だが、横へ出るより先にリクがイン側へ寄る。
「行く?」
悠斗が身を乗り出す。
グリフォンRSのフロントがセルディア2000RSの横まで伸びた。
二台が並びかけたままブレーキングへ入る。
イン側を取っていたリクが先にコーナーへ入った。
榊原も外から残るが、無理には寄せない。
出口。
セルディア2000RSが半台分前へ出る。
「また守った」
「まだリクだな」
榊原はすぐにセルディア2000RSの後ろへ戻った。
抜けない。
だが、離れもしない。
二台はそのまま、ほとんど一つの塊のように次の区間へ消えていった。
◇
首位争いが続く一方で、SHIFTのピットではヴェクサーRの右前タイヤ交換が終わろうとしていた。
新しいタイヤが取り付けられ、車体が下ろされる。
スタッフが離れると同時に、神崎が発進した。
「神崎さん戻る」
悠斗は大型モニターの端へ視線を移す。
ヴェクサーRがピットロードを抜け、コースへ復帰した。
その間に、リクと榊原だけでなく蓮の《レイザー》にも前へ出られている。
順位表示が更新された。
一位、リク。
二位、榊原。
三位、蓮。
四位、神崎。
「蓮、三位だ」
「ああ。でもまだ安心できないな」
カイが見ていたのは、順位表示ではなく復帰したヴェクサーRだった。
神崎と蓮の間にはまだ距離がある。
右前だけが新品になったヴェクサーRは、最初の数コーナーではわずかに慎重だった。
左右でタイヤの状態が違う。
神崎もそれを確かめるように、無理には攻めていない。
それでも、一周を終える頃にはペースが戻り始めた。
「やっぱり神崎さん、速いね」
「車も速いけど、あの状態でちゃんとまとめてる神崎も上手い」
蓮も後ろの存在には気づいているらしい。
ミラーを見る回数が増えた。
カイが無線をつなぐ。
「蓮、後ろ神崎」
『見えてる』
「まだ距離ある。焦るなよ」
『分かってる』
返事は短い。
だがレイザーの走りには、まだ焦りは見えなかった。
大型モニターには首位争いのセルディア2000RSとグリフォンRS。
別の画面には三位のレイザーと、それを追うヴェクサーR。
残り時間は十四分を切っていた。
◇
そこから数周。
リクと榊原の距離は、ほとんど変わらなかった。
榊原が直線で近づく。
リクが先に守る位置を取る。
榊原が無理だと判断して後ろへ戻る。
そんな攻防が何度か続く。
ただ、同じことを繰り返しているように見えて、二人とも少しずつ仕掛け方を変えていた。
榊原が次に狙ったのは、コーナーの立ち上がりだった。
少しだけ前との間隔を空けて進入し、出口で早くアクセルを開ける。
グリフォンRSが一気にセルディア2000RSへ迫った。
その勢いのまま横へ出る。
「今度はかなり出た!」
グリフォンRSのフロントが、セルディア2000RSの運転席付近まで伸びる。
二台はそのまま次のコーナーへ向かった。
インはリク。
アウトは榊原。
榊原が少し遅めにブレーキへ入る。
グリフォンRSが一瞬だけ前へ出た。
「あっ、榊原さん――」
だが、リクはそこで無理に競らなかった。
わずかに速度を落とし、イン側を小さく回る。
榊原が外側を大きく回って立ち上がった瞬間、セルディア2000RSが内側から加速した。
「戻した!」
次の切り返しへ入る前に、リクが再び前へ出る。
さっきとは違う。
一度は榊原に前へ出させながら、その次で取り返した。
「今のすごいね」
「ああ。あそこで無理に張り合わなかったのが上手い」
榊原もすぐには引き離されない。
再びセルディア2000RSの背後へついた。
残り時間は十二分台へ入っていた。
◇
三位争いの方も、少しずつ距離が詰まっていた。
最初は別々のカメラに映っていたレイザーとヴェクサーRが、今では同じ画面に入るところまで来ている。
「神崎さん、かなり近い」
カイが無線を開く。
「蓮、あと少しで後ろつかれるぞ」
『分かってるって』
「自分のペース崩すなよ」
『それも分かってる』
少し苛立った声が返ってきたが、レイザーの動きは落ち着いていた。
蓮は後ろの動きへ合わせて細かくラインを変えるような走りはしていない。
神崎が近づいてきても、自分のブレーキングと自分のラインを守っている。
「蓮、大丈夫かな」
「今のところはな」
神崎の方が速い。
それでも、追いつくことと抜くことは違う。
悠斗は先頭の二台を思い出した。
リクと榊原も、何周もほとんど同じ距離で走っている。
速いだけでは前には出られない。
残り時間は十一分を切った。
◇
残り十分。
大型モニターが再び首位争いを大きく映した。
グリフォンRSはセルディア2000RSの真後ろについたまま長い直線へ入る。
今度はすぐに横へ出ない。
直線の終わりまでリクの後ろで引っ張り、ブレーキングポイントが近づいたところで一気に外へ振った。
「また来た」
悠斗が呟く。
二台が並ぶ。
セルディア2000RSがイン。
グリフォンRSがアウト。
榊原は今度も簡単には引かなかった。
そのまま二台がコーナーへ入る。
だが、出口へ向かう途中でグリフォンRSのリアがわずかに流れた。
「うわっ」
悠斗が息を呑む。
大きなスピンではない。
榊原もすぐに修正した。
しかし、それだけで十分だった。
セルディア2000RSとの間に、それまでなかった数台分の差が開く。
「タイヤ?」
「かもな」
カイも断定はしなかった。
二時間近く使い続けているタイヤ。
しかも、ここ数周はリクへ何度も仕掛けている。
ほんのわずかな滑りだったが、ここへ来て初めてグリフォンRSに小さな乱れが出た。
それでも次の区間へ入る頃には、榊原は再び差を縮め始めていた。
「まだ来るんだ……」
「終わってないからな」
残り九分。
◇
その頃には、ヴェクサーRもついにレイザーの背後まで迫っていた。
「来た」
悠斗が言うより早く、蓮から無線が入る。
『つかれた』
「見えてる」
『速ぇんだけど』
「そりゃ元々トップ走ってた車だからな」
『なんでそんな冷静なんだよ』
「走ってるの俺じゃないし」
『くそっ』
悠斗が思わず笑う。
口では文句を言っているが、レイザーの走りは乱れていない。
長い直線。
ヴェクサーRがスリップから外へ出た。
蓮は大きく動かず、自分のラインを維持する。
神崎は横へ並びかけたものの、コーナーまでに完全には前へ出られない。
そのまま一度後ろへ戻った。
「蓮、全部塞ぐ感じじゃないね」
「蓮はああいう守り方じゃない」
カイが答える。
無理に相手へ合わせず、自分のペースを崩さない。
ヴェクサーRの方が速いことは変わらない。
それでも、神崎が一度で抜けるほど大きな隙はなかった。
◇
残り八分。
先頭の二台は、再びほとんど差のない状態へ戻っていた。
三位と四位も同じだった。
大型モニターは二つの争いを交互に映している。
「前も後ろもすごいことになってるね」
「ああ」
その直後。
榊原がまたセルディア2000RSの横へ出た。
さっきリアを滑らせたことなどなかったように、今度はかなり早い段階から並びにいく。
二台が長い直線の途中でほぼ横並びになる。
「今度こそ抜く?」
リクも引かない。
榊原も下がらない。
ブレーキングポイントが近づく。
最後までわずかに前にいたのはセルディア2000RSだった。
リクがインへ入る。
榊原はアウトから残る。
コーナー出口。
今度はグリフォンRSのフロントが一瞬だけ前へ出た。
「あっ!」
だが、その次の切り返し。
リクが内側へ入る。
セルディア2000RSが加速し、再び前へ戻った。
「また取り返した!」
「簡単には渡さないな」
グリフォンRSは再び後ろへつく。
順位は変わらない。
◇
残り七分。
今度は神崎が本格的に仕掛けた。
長い直線でヴェクサーRがレイザーのスリップから外へ出る。
『来た!』
蓮の声が飛ぶ。
「落ち着け!」
カイが返す。
イン側はレイザー。
アウト側にヴェクサーR。
二台が並んだままコーナーへ入った。
神崎が遅めのブレーキングで前へ出ようとする。
だが、蓮も引かなかった。
イン側のラインを守り、そのまま旋回する。
出口。
レイザーがわずかに前。
『っしゃ!』
「まだ終わってないぞ」
『分かってるよ!』
ヴェクサーRはすぐ後ろにいる。
悠斗も一瞬だけ安堵したが、次の直線へ入ると神崎がまた距離を詰め始めた。
「本当に終わらないね」
「残り時間なくなるまで終わらないだろ」
カイの言葉に、悠斗は再び残り時間を見た。
◇
残り六分。
リクと榊原。
蓮と神崎。
どちらの争いも、まだ決定的な差を作れないまま続いていた。
榊原が仕掛ければリクが守る。
神崎が距離を詰めれば、蓮が自分のラインで前を残す。
誰も大きなミスをしない。
時間だけが減っていく。
残り五分三十秒。
グリフォンRSが再びセルディア2000RSの背後へ入り、直線へ出た瞬間に横へ振った。
二台のフロントが並ぶ。
「来た!」
悠斗が声を上げる。
その少し後ろでは、ヴェクサーRもレイザーへ迫っていた。
残り五分十二秒。
神崎が外へ出る。
こちらも二台が並びかける。
「蓮も!」
大型モニターが、二つの争いを交互に映し出す。
首位を争うセルディア2000RSとグリフォンRS。
三位を争うレイザーとヴェクサーR。
残り時間の表示が五分を切った。
悠斗は大型モニターを見つめたまま、無意識に拳を握っていた。
あと五分。
首位も。
三位も。
まだ、何も決まっていなかった。
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