第5章 第186話 二時間の決勝
カスタムカー部門の予選が終わると、決勝へ進む十台のピットではすぐに次の準備が始まった。
レイザーの周囲でもカイたちが車体を確認し、ブレーキや油脂類に異常がないかを確かめている。その横では予選で使ったタイヤが外され、決勝用の新品へ交換されていた。
これはレイザーだけではない。決勝へ進んだ十台は、すべて新品のタイヤで二時間のレースへ臨む。通常通り走れば最後まで持つため、トラブルでも起きない限り途中で交換する必要はなかった。
四本の交換が終わると、今度は給油が始まった。
「決勝は満タンスタートで行く」
カイの言葉に、蓮が頷く。
「分かった」
「予選より重くなるから、最初は同じ感覚で入るなよ。少し挙動変わるぞ」
「了解」
そのやり取りを横で聞いていた悠斗が首を傾げた。
「予選って、満タンじゃなかったの?」
「違う。レイザーは半分くらい」
「半分?」
「三十分だからな。普通はそのくらいで十分だし、余計に積めばその分だけ重くなる。御堂さんたちみたいなプロなら、使う量をもっと細かく見て、さらに少なくすることもある」
「そこまで変えるんだ」
「タイム削るなら、そういうところも使うってこと」
カイは再びレイザーへ目を向けた。
「決勝は満タンでも最後までは持たない。途中で一回給油が必要になるけど、その時にどれだけ入れるかは残り時間見て決める」
「満タンには戻さない?」
「必要なければな。最後まで届く分に、少し余裕持たせるくらいでいい」
蓮もその意味は分かっているようで、小さく頷いた。
大型モニターには決勝グリッドが表示されている。
一番手は神崎トオル《ヴェクサーR》。二番手に高城ユウジ《ブレイズGT》、三番手に風間リク《セルディア2000RS》、四番手に榊原ユウ《グリフォンRS》。そして五番手が蓮の《レイザー》だ。
「前四台抜けば一位だな」
蓮が画面を見ながら言う。
「二時間あるのに、始まる前からそういうこと言うな」
「冗談だよ」
「お前の場合、半分くらい本気なのが怖いんだよ」
◇
決勝開始が近づくと、十台の車が予選順位順にグリッドへ並べられていった。
黒いレイザーも五番手へ入る。右前ドアに入った白いNOXロゴが、ピット側からでもはっきり見えた。
三十分のタイムアタックだった予選とは空気が違う。今度は十台が同時に走り出し、そのまま二時間にわたって順位を争う。
「蓮、聞こえる?」
『聞こえてる』
カイが無線を確認した。
「最初から無理するなよ。二時間だからな」
『分かってる』
「一周目で勝つレースじゃない」
『分かってるって』
「接触すんなよ」
『親かよ』
悠斗が笑った。
「カイ、めちゃくちゃ心配してるじゃん」
カイは送信ボタンを押したまま答えた。
「そりゃそうだろ。レイザー壊されたら泣くぞ」
『俺が壊れる方は?』
「それも困る」
『順番おかしいだろ』
悠斗が吹き出した。
「ちゃんと聞こえてるじゃん」
「聞こえるように言ってるからな」
『余計ムカつくわ』
「元気そうで安心した」
『もう切れ』
そんなやり取りをしている間にも、グリッドからスタッフが次々と離れていく。
競技管制側では、三枝ソウを含むレースオフィシャルたちが各モニターと無線を確認していた。接触や危険運転、ピットレーンでの違反が起きれば、複数のオフィシャルが状況を確認して判断する。
十台分のエンジン音が重なり、観客席のざわめきも次第に大きくなる。
蓮がステアリングを握り直した。
やがてスタートシグナルが変わる。
十台が一斉に飛び出した。
◇
先頭のヴェクサーRが好スタートを切り、高城のブレイズGTも二番手を守った。
三番手のセルディア2000RSは一度高城の横へ出ようとしたが、一コーナーへ向けて前方が一気に狭くなると、リクは無理に並び切ろうとはしなかった。
その後ろには榊原。さらに蓮が続く。
『無理すんな』
「分かってる」
前方に三台が集まっているのを見て、蓮は一度アクセルを戻した。
その瞬間、後ろから一ノ瀬ハルトの《アステラX》が外側へ出てくる。
「来た」
引けば、その分だけ後ろから狙われる。それでも蓮は前の隙間へ無理に突っ込まず、ハルトと並びかけた状態で一コーナーへ入った。
互いに必要な幅を残したまま抜け、立ち上がりではレイザーがわずかに前へ出る。
五位を守った。
「危な……」
悠斗が息を吐く。
「でも、ちゃんと引いたな」
カイがモニターを見たまま答えた。
「前だったらもっと行ってた?」
「行ってただろうな」
「本人には言わない方がいいね」
「絶対うるさいからな」
◇
数周すると、神崎、高城、リク、榊原、蓮という順で隊列が落ち着いた。
リクは高城のすぐ後ろまで来ていたが、序盤から何度も仕掛けるようなことはしなかった。高城も予選二位だけあって速く、二時間の決勝が始まったばかりの段階で無理に勝負する必要もない。
さらに前では、同じSHIFT側の神崎が首位を維持している。
一方、悠斗は大型モニターに表示されるラップタイムを何となく追っていて、別のことに気づいた。
「あれ?」
「どうした?」
「榊原さん、予選の時よりタイム遅くない?」
カイもモニターへ視線を向けた。
「ああ。グリフォンRS、燃料タンクでかいからな」
「タンク?」
「他の車より容量あるんだよ。決勝は満タンで出てるから、今はその分重い」
「じゃあ、それでタイム落ちてる?」
「たぶんな。燃料減ってくれば軽くなるから、後半は今より速くなると思うぞ」
悠斗は改めてグリフォンRSを見る。
予選ではもっと鋭かった車が、今はコーナーの切り返しや立ち上がりでわずかに重たそうに見えた。
前を走る高城との差は縮まらない。
それどころか、後ろの蓮が少しずつ近づいてきている。
◇
二十分を過ぎる頃には、レイザーがグリフォンRSのすぐ後ろへ入っていた。
『前、榊原さん』
「見えてる」
『焦るなよ』
「分かってるって」
蓮はすぐには仕掛けず、数周かけて距離を測った。
榊原も後ろにレイザーがいることには気づいているはずだった。しかし、無理にペースを上げて引き離そうとはしない。
ホームストレートへ入ったところで、レイザーがグリフォンRSの後ろから横へ出た。
榊原も外側から残る。
二台は並んだまま一コーナーへ入り、互いに一台分の幅を残しながら出口へ向かった。立ち上がりではレイザーがわずかに前へ出て、次のコーナーまでには蓮が完全に前へ入る。
『四位』
「よし」
蓮が短く答える。
それでも榊原は、すぐに抜き返そうとはしなかった。今の重い状態で蓮へ無理についていくより、自分のペースを崩さないことを選んだように見える。
「追ってこないね」
悠斗が言った。
「まだ二十分ちょっとだからな。今のグリフォンで無理するところじゃないんだろ」
予選四位だった榊原は五位へ落ちた。
それでも走り自体が崩れているわけではなかった。
◇
三十分を過ぎても、二位の高城は粘っていた。
リクは何周もその後ろを走り続けていたが、無理に車をねじ込むことはしない。高城も簡単には隙を作らなかった。
ようやく動いたのは、長い直線へ入った時だった。
セルディア2000RSがブレイズGTの後ろから横へ出る。
高城も外側から残った。
二台は並んだまま一コーナーへ入る。
リクは相手を外へ押し出さず、高城も内側へ寄せすぎない。互いに走る場所を残したままコーナーを抜け、立ち上がりでセルディア2000RSが半台分ほど前へ出た。
次のコーナーまでには、リクが完全に二位へ上がる。
「ようやく抜いた」
悠斗が言う。
「急ぐ必要なかったしな」
カイが返した。
高城も抜かれたからといって大きく崩れたわけではない。そのまま三位を維持し、リクの後ろについていく。
さらにその後ろには、すでに蓮が迫り始めていた。
◇
ブレイズGTはコーナーからの立ち上がりが速かった。
レイザーがブレーキングで距離を詰めても、出口から加速に入ればまた少し離される。
蓮は何度か横へ出る場所を探した。しかし、高城も後ろのレイザーを意識していて、簡単には隙を見せない。
何周か追い続けたところで、カイが無線を入れた。
「蓮、ちょっと追いすぎ」
『……分かってる』
「まだ三十分ちょいだぞ」
『ちょっと熱くなった』
「二時間ある。今抜かなきゃ終わりじゃない」
『了解。少し離す』
レイザーが高城との距離を少し開けた。
抜けそうだからと追い続けるのではなく、一度自分のペースへ戻していく。
通信を切ったカイが小さく笑った。
「やっと二時間のレースしてるな」
「本人が聞いたら怒りそう」
「今は聞こえてないからいい」
悠斗も笑いながらモニターを見る。
以前の蓮なら、前に車が見えている限り追い続けていたかもしれない。けれど今日は、カイに言われたとはいえ、すぐに意地を張らずに引いた。
まだレースは半分にも届いていない。
その長さを、蓮自身も少しずつ理解し始めているようだった。
◇
四十分を過ぎた頃、大型モニターの一つに後方を走っていた車が映った。
コーナー出口でリアが大きく流れ、そのまま外側へ膨らむ。
「あっ」
車はコースを外れ、砂煙を上げながらランオフへ飛び出した。
幸い壁には当たらなかった。
速度を落としながら姿勢を整え、やがてコースへ復帰する。
「戻れた……」
悠斗がほっとした直後、カイが画面を見ながら眉を寄せた。
「でも遅いな」
復帰した車は、それまでより明らかに慎重にコーナーへ入っている。
「タイヤかな?」
「コース外れて色々拾ってるだろうし、感触も変わったんじゃないか」
数周そのまま走ったものの、ペースは戻らない。
やがてその車はピット入口へ向かった。
「入った」
「予定より早いな」
停止すると、まず給油作業が始まった。
しかし、それだけでは終わらない。
スタッフが足回りを確認したあと、車体がジャッキアップされた。
「あ、タイヤも替えるんだ」
「四本行くみたいだな」
四輪すべてが順番に外され、新しいタイヤへ交換されていく。
給油だけで終える他車のピット作業とは明らかに違った。
燃料を入れる作業が終わっても、車はまだその場から動かない。スタッフが四隅で交換を続けている間にも、コース上では他の車が周回を重ねていく。
「長いね……」
悠斗が呟いた。
「四本全部だからな。給油だけとは全然違う」
「これだけ止まってたら、かなり落ちるよね」
「落ちるだろうな。普通なら新品で最後まで行けるんだから、レース中に四本替えるなんて予定には入ってない」
ようやく作業を終えた車がピットレーンへ出ていく。
しかし、その頃には何台もの車が先へ行っていた。
たった一度のコースアウト。
車そのものが走れなくなったわけでもない。それでも、予定になかった作業が一つ増えただけで、それまで積み上げていた時間が大きく失われていく。
◇
一方、上位では高城と蓮の距離が再び縮まり始めていた。
蓮が無理に追った結果ではない。
一度離れて自分のペースへ戻したあと、自然と前が近づいてきたのだ。
最終コーナー。
ブレイズGTの後輪が、立ち上がりでわずかに流れた。
高城はすぐに立て直す。
スピンするほどではない。
それでも、一瞬だけ加速が鈍った。
「来た」
悠斗が呟いた。
レイザーが一気に距離を詰め、そのままホームストレートへ入る。
高城も一コーナーへ向けて内側を守ろうとした。
だが、その時にはすでにレイザーのフロントがブレイズGTの横へ並びかけている。
ここからさらに寄せれば接触する。
高城は一台分の幅を残した。
『行ける。でも当てんなよ!』
「分かってる!」
レイザーが内側。
ブレイズGTが外側。
二台は並んだままブレーキングへ入る。蓮はわずかに奥まで粘ったが、高城の走る場所は残していた。
そのまま並んで一コーナーを抜ける。
立ち上がりではレイザーが半台分前。
高城も外側から粘ったものの、次のコーナーへ向かうまでには蓮が完全に前へ入った。
『三位!』
「よし!」
蓮の声が弾み、観客席からも大きな歓声が上がる。
『喜ぶの早い! 後ろいるぞ!』
「分かってるって!」
蓮はすぐに前へ意識を戻した。
首位には神崎。
二位にはリク。
そこへ三位に上がった蓮が続き、四位に高城。
さらにその後ろでは、五位を走る榊原へハルトが少しずつ距離を詰め始めていた。
まだ抜けるほどではない。
グリフォンRSもスタート直後と比べれば、少しずつ動きが軽くなっている。それでも榊原は無理に順位を守ろうとはせず、変わらないリズムで周回を続けていた。
まだ四十分あまり。
蓮が三位へ上がったことも、榊原が五位まで後退していることも、二時間の決勝では途中経過にすぎない。
そして先ほど悠斗が目にしたように、一つの小さな出来事だけで、それまでの順位が簡単に崩れることもある。
二時間の決勝は、まだ半分にも届いていなかった。
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