第5章 第185話 最速の一周
黒いレイザーがホームストレートへ入った瞬間、エンジン音が一段高くなった。
蓮の最初のアタックが始まる。
水曜日の練習走行で何度も通ったコースだ。
それでも今日は違う。
観客席には人が入り、大型モニターには各車の順位が映し出されている。
ピットにはスタッフやメカニック。
コース上には、同じようにタイムを狙う十四台。
蓮は一コーナーへ向けてブレーキを踏み込んだ。
レイザーのフロントが素直に向きを変える。
「……いい」
短く呟く。
水曜日にカイへ頼んだ微調整は、狙った通りだった。
特に高速コーナー。
以前よりわずかに前が入りやすくなり、蓮の感覚に近い。
ただ、最初の一周から限界まで攻めることはしなかった。
まだコース上の流れも完全には読めていない。
最終コーナーを立ち上がり、レイザーが計測ラインを通過する。
『タイム出た』
無線からカイの声が入る。
「何位?」
『今のところ四位』
「今のところ?」
『まだ全員揃ってない』
「だよな」
◇
ピット側の大型モニターでは、順位が数十秒ごとに入れ替わっていた。
一台がタイムを出す。
別の一台が上回る。
さらに別の名前が、その間へ割り込んでくる。
「落ち着かないね」
悠斗が画面を見ながら言う。
「予選なんてこんなもんだ」
三枝ソウが腕を組んだまま答えた。
「最初の一周で全部決まる方が珍しい」
十五台すべてに一度はタイムが入ると、神崎がトップ。
その後ろにリク、榊原、蓮、高城と続いていた。
「練習の時と結構近いね」
「まだ最初だ」
カイがモニターから目を離さない。
「全員ここから上げてくる」
その言葉通りだった。
数分後。
「……高城さん?」
悠斗が思わず画面へ近づく。
《ブレイズGT》の高城ユウジ。
一般応募から選ばれたドライバーが、大きく自己ベストを更新した。
二位。
リクも榊原も蓮もまとめて上回る。
「一般枠で二位……」
「応募から選んでるんだ」
三枝ソウが言う。
「速いやつが残ってるに決まってるだろ」
会場側からも一段大きな歓声が上がった。
大型モニターの上位は、
一位 神崎トオル。
二位 高城ユウジ。
三位 風間リク。
四位 榊原ユウ。
五位 久我蓮。
へ変わっていた。
◇
蓮は一度ペースを落としていた。
前方に二台。
どちらもアタックを終えた直後らしく、こちらとは速度が違う。
『蓮、まだ行くな』
「見えてる」
蓮は少し間隔を空ける。
一台。
二台。
前との距離が十分に開いた。
「次行く」
『了解』
最終コーナーを抜け、再びアタックへ入る。
序盤は悪くない。
一コーナー。
連続する中速区間。
高速コーナー。
レイザーは水曜日よりも蓮の動きに素直についてくる。
だが、その先。
前方を走る一台が、コーナー出口で突然姿勢を崩した。
「うわ」
車体が横を向く。
完全なスピン。
壁には当たらず、すぐに向きを戻そうとしている。
どちらへ動くか読み切れない以上、無理に脇を抜ける方が危ない。
蓮はすぐにアクセルを戻し、大きくラインを外した。
「マジかよ……」
『しゃあない。一回捨てろ』
「分かってる」
前の車はすぐに向きを戻し、そのまま走行を再開した。
コースを塞いでいた時間は短い。
大きな事故にはならなかった。
ただ、蓮の一周だけは完全に潰れた。
◇
残り時間が二十分を切る頃には、上位勢も本格的にタイムを削り始めていた。
神崎は依然としてトップ。
高城が二位。
リクが三位。
榊原が四位。
蓮は五位と六位の間を行き来している。
ハルトも速い。
牧野も少しずつ詰めてくる。
「五位でも全然安心できないね」
悠斗が呟く。
「七位くらいまでかなり近い」
三枝ソウがモニターを見る。
「一周まとまれば、簡単に入れ替わる」
蓮は再びアタックへ。
今度は前も空いている。
序盤から速い。
途中計測でも自己ベストを上回るペース。
「いいんじゃない?」
悠斗が画面を見る。
だが終盤。
ブレーキングを少しだけ欲張った。
レイザーがわずかに外へ膨らむ。
「……っ」
大きなミスではない。
それでも立ち上がりで一瞬だけ加速が鈍った。
そのまま計測ラインを通過。
『更新』
「順位は?」
『五位』
蓮が少し黙る。
「……五位か」
『一か所欲張っただろ』
「分かってる」
『なら次直せ』
「簡単に言うな」
『簡単じゃないから言ってる』
◇
残り十分。
上位だけでなく、決勝進出ラインも激しく動き始めた。
十位。
十一位。
その差はほとんどない。
一台がタイムを更新して十位へ上がれば、それまで十位だった車が十一位へ落ちる。
さらに別の車が割って入る。
「下もすごいね」
悠斗が言う。
「十位と十一位じゃ全然違うからな」
三枝ソウが答える。
「決勝に残れるか、ここで終わるかだ」
モニターの下側では、黒田ショウ、結城レナ、瀬戸タクヤたちが何度も順位を入れ替えている。
十五台すべてに、それぞれの予選があった。
残り十分を少し切ったところで、レイザーがピットへ戻ってくる。
カイたちがすぐに車の周囲へ集まった。
「タイヤは?」
「まだいける」
「空気圧見る」
大きな整備はしない。
セットも触らない。
レイザーはすでに仕上がっている。
今必要なのは、最後の数分を走るための確認だけだった。
蓮はシートに座ったまま、ヘルメットの顎元の隙間へ差し込まれたストローから水を飲む。
「速く走ろうとしすぎ」
カイが言った。
「予選なんだから速く走るだろ」
「そういう意味じゃねえよ」
「分かってる」
「水曜の方が力抜けてた」
蓮が一瞬黙った。
「……分かってる」
「ならその感じで行け」
「言うの簡単だな」
「さっきお前も同じこと言ってただろ」
「言ったっけ?」
「言った」
カイが笑う。
「あと一回、ちゃんとまとめろ」
「了解」
◇
残り五分。
レイザーは再びコースへ出た。
蓮は急がない。
前との距離を見る。
さらにその前も確認する。
十分に空いている。
「ここだな」
最終コーナーへ入る。
立ち上がり。
計測ラインを通過。
この予選で最も重要な一周が始まった。
一コーナー。
強くブレーキを踏み、必要なところだけ速度を落とす。
向きを変える。
アクセル。
次のコーナー。
レイザーのフロントは狙った通りに入る。
水曜日に感じた僅かな違和感はもうない。
高速区間。
蓮は余計な修正を入れない。
縁石を必要な分だけ使い、車を暴れさせない。
中盤。
自己ベストより速い。
無線は静かだった。
カイも何も言わない。
ここで声を掛ける必要はない。
最後のブレーキング。
今度は欲張らない。
必要なだけ減速。
向きを変え、最終コーナーへ。
レイザーが出口へ向く。
蓮がアクセルを踏み込んだ。
ホームストレート。
計測ライン。
『更新!』
カイの声が飛ぶ。
「順位!」
『四位!』
「よし!」
蓮が叫んだ。
大型モニターでも順位が更新される。
一位、神崎トオル。
二位、高城ユウジ。
三位、風間リク。
四位、久我蓮。
五位、榊原ユウ。
「四位!」
悠斗も思わず笑う。
「やったじゃん」
三枝ソウは画面を見たままだ。
「まだ終わってない」
その言葉通りだった。
残り時間はまだある。
コース上では、榊原の《グリフォンRS》も最後のアタックへ入っていた。
◇
残り一分を切る。
グリフォンRSが最終コーナーを立ち上がり、ホームストレートへ入ってくる。
「榊原さん、今の周?」
「そう」
三枝ソウが答える。
計測ラインを通過。
モニターが更新された。
「……あ」
悠斗が声を漏らす。
榊原。
四位。
蓮。
五位。
『抜かれた』
カイが無線を入れる。
「見えてる」
『まだ五位だ。決勝には十分残ってる』
「分かってる」
蓮の声には少し悔しさが混じっていた。
時計が、
《0:00》
へ変わる。
「終わった?」
悠斗が聞く。
「まだ」
三枝ソウがコースを見る。
「時間内に計測周回へ入った車が二台いる」
時計はゼロ。
それでも予選は終わっていない。
一台目がゴール。
順位は変わらない。
最後の一台が最終コーナーへ入る。
ホームストレート。
計測ラインを通過。
数秒後。
大型モニターの表示が確定した。
◇
一位 神崎トオル《ヴェクサーR》。
二位 高城ユウジ《ブレイズGT》。
三位 風間リク《セルディア2000RS》。
四位 榊原ユウ《グリフォンRS》。
五位 久我蓮。
六位 一ノ瀬ハルト《アステラX》。
七位 牧野ユウマ《オルビスGT》。
八位から十位には一般参加組が入り、ここまでの十台が決勝進出。
十一位以下の五台は予選敗退となった。
レイザーがピットへ戻ってくる。
蓮がヘルメットを外して車を降りた。
「おめでとう」
悠斗が言う。
「五位だけどな」
「決勝行けるじゃん」
「行くだけじゃ意味ないだろ」
そこへカイが口を挟む。
「でも帰りは歩かなくていいぞ」
「まだそれ言う?」
「大事だろ」
「全然大事じゃねえ」
蓮が呆れたように言いながらも、その口元は少し笑っていた。
◇
予選が終わっても、ピットが静かになることはなかった。
決勝へ進む十台の周囲では、すぐにメカニックたちが動き始めている。
タイヤ。
ブレーキ。
油脂類。
燃料。
二時間を走り切るための確認。
必要な車両には、決勝へ向けた給油も行われていく。
大型モニターの表示が切り替わった。
《CUSTOM CAR CLASS FINAL》
蓮がレイザーを見る。
「次は二時間か」
カイが隣で答える。
「今度は一周だけ速くても意味ないぞ」
「分かってる」
三十分で決まったのは、決勝へ進む十台だけだった。
本当の勝負は、ここから始まる。
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