第5章 第184話 レイヴン・モーターフェス
日曜日の朝。
悠斗は白いヴェローチェを走らせ、助手席に蓮を乗せてサーキットへ向かっていた。
普段ならまだ交通量の少ない時間だが、今日は明らかに同じ場所を目指している車が増えている。
前を走る低いスポーツカー。
そのさらに前には、大きなステッカーを貼ったカスタムカー。
バックミラーを見れば、後ろにも何台か同じ方向へ向かう車が続いていた。
「もう結構来てるな」
蓮が窓の外を見ながら言う。
「まだ開場前なのにね」
「駐車場入るだけでも時間かかるだろうし、早めに来るだろ」
「確かに」
信号を越えた先には、昨日までなかった臨時の案内板が立っていた。
《RAVEN MOTOR FEST》
一般来場者用の駐車場へ向かう矢印とは別に、スタッフ、関係者、参加者用の案内が表示されている。
悠斗はそちらへヴェローチェを進めた。
「そっちだっけ?」
「昨日使った搬入口」
「ああ、そっか」
「レイザーももう中にあるしね」
「昨日から置いてんのに、俺より先に会場いるのちょっと腹立つな」
「何に張り合ってるの?」
「別に」
昨日、展示車やレース車両を搬入したのと同じ入口へ向かうと、ゲート前にはすでに警備員が立っていた。
悠斗が窓を下ろし、自分と蓮のスタッフパスを見せる。
警備員が確認してからバーを上げた。
「おはようございます」
「おはようございます」
軽く頭を下げ、悠斗は会場内へ入った。
その瞬間、昨日とはまるで違う空気が車内まで入り込んでくる。
ピットではメカニックたちが工具箱を開き、タイヤや車両の状態を確認している。
フードエリアでは店員たちが仕込みを始め、展示区画ではショップのスタッフがデモカーのボディを磨いていた。
大型モニターにはイベントロゴが映り、スピーカーからは音響確認の声が流れている。
『マイクチェック。ワン、ツー――』
「昨日と全然違うな」
蓮がフロントガラス越しに会場を見回す。
「まだ客入ってないのにね」
「もう始まってる感じする」
悠斗は関係者用の駐車場所へヴェローチェを停めた。
二人は車を降り、そのままレイザーのピットへ向かった。
◇
「もうカイ来てる」
「絶対俺らより早いと思ってた」
黒いレイザーの周囲では、カイたちが朝の確認を進めていた。
レイザーは前日のうちに搬入も確認も終えている。
タイヤ、工具、ジャッキ、交換部品、整備用品、ドライバー装備。
必要な物もすべてピットへ揃えられていた。
「おはよ」
蓮が声を掛ける。
「おはよう。来たな」
カイはしゃがんだままホイール周りを確認している。
「水曜に調整したところは?」
「昨日もう一回見た。問題ない」
「今日は?」
「暖機して、空気圧と油脂類。あと一晩置いて漏れとか異常が出てないか見る。それで終わり」
「セットは?」
「触らない。昨日仕上げてる」
「了解」
カイが車体の下へ視線を落とし、続いてタイヤを確認する。
蓮は少し待ったあと、レイザーを見ながら口を開いた。
「……もうエンジンかけていい?」
カイが顔を上げた。
「昨日からそれしか言ってないな」
「今日は本番だぞ」
「だから余計に俺が先」
「はいはい」
「その返事が一番信用できない」
悠斗が笑う。
「朝から全然落ち着いてないじゃん」
「うるさい」
◇
時間が進むにつれ、それぞれも持ち場へ散っていった。
ナナとトウマは入口付近で案内表示やチケット関係の確認。
実際の入場チェックは、NOXとSHIFTから出した担当者と警備スタッフが行う。
アキラは東雲エマと一緒に出展企業やショップを回り、シオンは朝倉迅と警備側へ。
蓮はレース準備。
悠斗は一か所へ固定されず、各担当から上がってくる話を繋ぐ役だった。
開場が近づいた頃。
予想していたことが、予想通りに起きた。
『悠斗、一般入口来て!』
無線からナナの声が飛ぶ。
「今度は何?」
『ギャング用チケット持ってる人が一般の列にいる!』
「やっぱりいたんだ……」
悠斗は入口へ向かった。
すでに一般入場の待機列はかなり伸びている。
その途中に、数人の男たちが固まっていた。
「チケット見せてもらっていいですか?」
「これ」
確認すると、所属ギャング名入りだった。
「これ、ギャング専用入口のチケットです」
「あっち?」
「はい。反対側です」
「でもこっちの方が分かりやすかったぞ」
横にいたナナが看板を見る。
「……あれだけ大きく書いてるのに?」
「見てなかった」
「見てください!」
男たちは笑いながら別の入口へ向かっていった。
その直後、別の無線が入る。
『ギャング入口に一般客来てる』
悠斗が無線を取る。
「そっちは入口担当で処理できる?」
『できる。一般側に回す』
「お願いします」
通話を切ると、ナナが額を押さえた。
「なんで逆まで来るの?」
少しして理由も入ってくる。
『こっちの列が短かったからだって』
「もう!」
数分後には、入口付近へ追加の案内板が置かれることになった。
「昨日アキラが言ってた通りだね」
「人は看板を読まないってことが分かった」
ナナが真顔で答える。
「勉強になったな」
「嬉しくない勉強なんだけど」
その時、また無線が鳴った。
『悠斗、展示側から確認――』
「今入口。アキラに回せる?」
『分かった』
自分が全部処理する必要はない。
誰に振れば一番早いか。
今の悠斗は、そう考える方が先になっていた。
◇
開場すると、会場の景色は一気に変わった。
人、人、人。
展示車の前で足を止める客。
スマートフォンで写真を撮る若者。
フードエリアへ向かう家族連れ。
ピットウォークの時間を確認する者。
メインストレート側の観客席にも、次々と人が入っていく。
ギャング専用入口からも、所属ごとにまとまって客が入ってきた。
「お、悠斗」
聞き覚えのある声に振り返る。
EMBERの数人を連れた黒瀬ジンが立っていた。
「ジンさん」
「ちゃんとイベントになってんじゃん」
「ちゃんとって何ですか」
「もっと身内だけで騒いでる感じになるかと思ってた」
「普通に大きいイベントですよ」
「見れば分かる」
ジンは笑いながら周囲を見回す。
「蓮は?」
「もうピットです」
「予選落ちしたら笑っていい?」
「本人に言ってください」
「じゃあ後で言うわ」
「言うんだ……」
ジンは楽しそうに仲間たちと観客席側へ向かっていった。
その背中を見送りながら、悠斗は会場全体へ目を向ける。
数千人が集まり始めている。
少し前まで、自分はこういう場所を画面越しに見る側だった。
配信を開いて。
知らない誰かが楽しそうに騒いでいるのを眺めて。
そこへ混ざるなんて、考えたこともなかった。
今は違う。
自分たちが作った場所に、人が集まっている。
その事実が、少しだけ不思議だった。
◇
やがて、開会式の時間が近づいた。
メインストレート脇に設けられた簡易ステージの周辺へ、人が集まっていく。
大型モニターにもステージの映像が映し出された。
悠斗は少し離れた場所から進行を確認していた。
最初にステージへ上がったのは玲司だった。
マイクを受け取る。
「今日は来てくれてありがとう」
いつも通り短い。
それでも、会場は自然と静かになった。
「このイベントはNOXとSHIFTだけで作ったものじゃない。出場するレーサー、整備士、スポンサー、ショップ、飲食店、運営、警備。それと今日ここへ来てくれた全員がいて初めて成立してる」
玲司は一度だけ観客席を見渡した。
「事故と揉め事だけは起こすな。あとは好きに楽しんでくれ」
短い拍手が、すぐに大きく広がった。
続いてリクがマイクを受け取る。
「玲司が真面目なこと全部言ったから、俺から言うことほとんどないんだけど」
会場から笑い声が上がる。
「レース見るのもいいし、展示車見るのもいいし、飯食うだけでもいい。せっかく来たんだから、好きなように楽しんでって」
リクは少し笑った。
「ただし、帰り道までレース始めるなよ」
今度はさっきより大きな笑いが起きる。
「あと、俺も走るから。その時は応援よろしく」
観客側からいくつか声が飛んだ。
玲司が横から一言。
「始めるぞ」
「はいはい」
リクが再び観客へ向き直る。
「それじゃあ――レイヴン・モーターフェス、開幕!」
一気に拍手と歓声が広がった。
その音を聞きながら、悠斗は胸の奥が少し熱くなるのを感じていた。
◇
開会式が終わると、すぐにレースが始まるわけではなかった。
観客の移動を確認しながら、運営スタッフがコース各所と無線を繋いでいく。
マーシャル配置。
計時システム。
ピット出口。
救急とレスキューの待機。
一つずつ確認が返ってくる。
その間に、カスタムカー部門の十五人もピットへ戻り、予選準備へ入っていた。
予選開始前には三枝ソウがドライバーたちを集め、最後の確認を行う。
「事前に案内している通り、予選は三十分。記録はその中で出した最速ラップです」
出場者たちが頷く。
「計測中の車両を優先。アタックしていない車両はラインを譲ってください。三十分以内に計測周回へ入っていれば、その一周は時間を過ぎても有効です。ただし、終了後に新しくアタックへ入ることはできません」
三枝ソウは周囲を見渡した。
「黄旗と赤旗の対応も事前案内通り。ニトロは禁止。危険な走行や故意の妨害は失格対象です。無理に一周取りにいって事故を起こすくらいなら、一度戻ってください」
説明が終わり、レーサーたちがそれぞれの車へ戻っていく。
レイザーの横には蓮がいた。
ヘルメットを手に持ち、普段より少しだけ静かだった。
「緊張してる?」
悠斗が聞く。
「してない」
「本当に?」
「……ちょっとな」
「やっぱり」
「何千人もいるんだぞ」
蓮は観客席の方を一度だけ見た。
緊張はしている。
けれど、その表情にはそれ以上に楽しさが出ていた。
「でも、めちゃくちゃ楽しみ」
「頑張って」
「普通だな」
「じゃあ何て言えばいいの」
「知らん」
「じゃあ頑張って」
「二回言うな」
蓮が笑いながらヘルメットを被る。
少し離れた場所では、風間リクの《セルディア2000RS》も準備に入っていた。
神崎トオルの《ヴェクサーR》。
榊原ユウの《グリフォンRS》。
一ノ瀬ハルトの《アステラX》。
招待枠も一般枠も関係ない。
ここからは十五人全員が同じ条件で予選を走る。
やがて、コースオープンを知らせる合図が出た。
一台目がピットを離れる。
続いて二台目。
十五台すべてが一斉に飛び出すわけではない。
前方の間隔を見ながら、それぞれが自分のタイミングでコースへ出ていく。
蓮はまだ動かなかった。
ステアリングを握ったまま、ピット出口の先を見ている。
数台を先に行かせる。
さらに一台。
『今?』
無線からカイの声が入る。
「まだ」
前方が少し空く。
蓮の視線が変わった。
「行く」
レイザーがゆっくりとピットを離れる。
制限速度の区間を抜け、コースへ入る。
最初の一周は、タイヤを温めながら車の感触を確かめる。
ブレーキ。
ステアリング。
水曜日に調整したフロントの入り方。
蓮は一つずつ確かめていく。
そして最終コーナーを立ち上がり、ホームストレートへ向いた瞬間。
黒いレイザーのエンジン音が、一段高くなった。
蓮の最初のアタックが始まった。
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