第5章 第183話 本番前日
第5章 第183話 本番前日
水曜日の練習走行会が終わる頃には、サーキットを照らしていた日差しもかなり傾いていた。
スーパーカー部門の十五台が順番にピットへ戻り、計測機器を確認していたスタッフたちも撤収の準備を始めている。
カスタムカー部門のレイザーは、カイが最後の点検へ入っていた。
「ブレーキ問題なし。タイヤも思ったより綺麗だな」
右前輪の前にしゃがんでいたカイが立ち上がる。
蓮もその横へ寄った。
「走ってて気になったのは?」
「高速コーナーで、もう少しだけ前が入りやすい方が俺は好きかも」
「そこなら足回りで調整できる」
「じゃあ頼む」
「ただ、触りすぎないぞ。今日かなり走ったんだから、その感覚は残した方がいい」
「分かってる」
レイザーはすでにフルカスタムを終えており、性能面はほぼ限界まで仕上がっている。
ここから行うのは、蓮の好みと今日の走行で見えた部分に合わせた細かなセットアップだけだった。
「これで本番まで?」
「調整して、もう一回点検。それで終わり」
「じゃあ今日乗って帰っていい?」
「駄目」
「まだ水曜だぞ?」
「関係ない」
「日曜までまだあるじゃん」
「だからこそ余計なことすんな」
即答され、蓮が不満そうな顔をする。
横で聞いていた悠斗は思わず笑った。
カスタム費用も、カイの会社から受けたスポンサー分を差し引いた残額はすでに支払いを済ませている。
あとは調整と最終点検を終え、本番を迎えるだけだった。
◇
木曜日と金曜日も、フェスの準備は続いた。
もちろん、NOXの全員がイベントだけに掛かりきりになっているわけではない。
拠点では普段の仕事も動き、構成員たちは取引や車両整備、情報収集と、それぞれの役目へ向かっている。
その合間を縫って、担当者たちはイベントの準備を進めていた。
ナナとトウマは公式サイトやチケット、当日の案内を確認。
東雲エマとアキラは協賛企業や出展ショップへの対応。
三枝ソウと蓮は、水曜日に試した計測やピット運用を基に競技側の細部を詰めていく。
朝倉迅とシオンは警備会社との最終調整に入っていた。
玲奈はイベント専用口座を確認しながら、協賛金や出展料、支出、当日の精算方法を整理している。
イベント会計を任された当初、玲奈はまだ会社勤めを続けていた。
仕事を終えてから数字を確認し、休日にもイベント関係の作業を進めていたが、もともと忙しかった仕事との両立には少しずつ無理が出始めた。
以前から退職自体は考えていたこともあり、それを機に会社を辞めたらしい。
今はすぐに次の仕事を探さず、失業保険を受けながら少し休むつもりだという。
「せっかく会社辞めたのに、結局ずっと数字見てるんだけど」
拠点のテーブルでノートパソコンを開いた玲奈がぼやく。
「休めてないじゃん」
「イベント終わったら休む」
「本当に?」
「たぶん」
「それ絶対休まないやつじゃない?」
ナナが笑う。
「休むって言ってるでしょ」
「じゃあイベント終わった翌日は?」
玲奈の指が止まった。
「……寝る」
「予定それだけ?」
「最高でしょ」
「それはちょっと分かる」
悠斗が笑うと、玲奈も小さく笑って再び画面へ目を戻した。
彼女が管理しているのは、あくまで今回のイベント会計だけだ。
それでも、規模が大きくなれば動く数字も自然と増えていく。
◇
悠斗のところへ回ってくるのは、一つの担当だけでは決められない話だった。
金曜日の午後にも、エマから連絡が入る。
『悠斗、明日の搬入なんだけど、一社だけ一時間遅らせたいって』
「エマさん側は大丈夫ですか?」
『展示側は問題ない。ただ、その時間まで搬入口を開けるなら警備も残さないと』
「分かりました。朝倉さんとSHIFT側に確認します」
悠斗自身が警備配置を決めるわけでも、出展者との話を勝手に変えるわけでもない。
必要な担当同士を繋ぎ、全員が問題ない形へ合わせる。
朝倉迅とSHIFT側へ確認した結果、搬入口だけ一時間延長し、その時間まで必要な警備を残すことで話はまとまった。
その日の夕方、悠斗にはもう一つ決めておきたいことがあった。
開会式と閉会式、それに全レース終了後の表彰式だ。
共同イベントなのだから、挨拶をするならNOXの玲司とSHIFTのリクが一番自然だろう。
表彰式も二人に役割を分けてもらえば収まりがいい。
そう考えた悠斗は、まずカナメへ確認することにした。
「カナメさん、少しいいですか?」
「どうした」
「日曜の開会式と閉会式なんですけど、玲司さんとリクさんに挨拶をお願いしようと思ってます」
カナメが顔を上げた。
「二人で?」
「はい。NOXとSHIFTの共同イベントなので、その方が自然かなって」
「そうだな」
カナメは少し考える。
「表彰は?」
「全部のレースが終わってからまとめてやります。カスタムカー部門は玲司さん、スーパーカー部門はリクさんにお願いしようかと」
「リクがカスタムカーに出るからか」
「はい」
「分かった。それでいい」
「玲司さんには俺から話した方がいいですか?」
「全体調整してるのはお前だろ」
「……そうですね」
「お前から話せ」
「分かりました」
カナメの確認を取った悠斗は、そのまま玲司のところへ向かった。
「玲司さん、少しいいですか?」
「どうした」
「日曜の開会式と閉会式なんですけど、リクさんと一緒に挨拶をお願いしたいです。カナメさんには確認してもらってます」
「俺とリクか」
「はい。共同イベントですし、二人が一番自然だと思って」
「長く話すつもりはないぞ」
「短い方がいいと思います」
玲司が頷いた。
「分かった」
「ありがとうございます。あと、全部のレースが終わった後の表彰式もお願いします」
「それも俺たちか?」
「はい。カスタムカー部門は玲司さん、スーパーカー部門はリクさんにお願いしたいです」
「リクがカスタムカーに出るからか」
「はい」
「分かった」
NOX側の了承を取ったあと、悠斗はSHIFT側にも同じ進行で問題ないかサラへ確認を入れた。
そちらも問題ないと返事をもらい、最後にリク本人へ電話を掛ける。
『もしもし?』
「リクさん、今大丈夫ですか?」
『大丈夫。どうした?』
「日曜の開会式と閉会式なんですけど、玲司さんと一緒に挨拶をお願いしたいです」
『俺も両方喋るの?』
「共同主催なんで」
『玲司だけでよくない?』
「SHIFTのボスが何も言わない方がおかしいですよ」
『それ言われると断れないな』
「あと、全レース終了後の表彰式もお願いします。カスタムカー部門は玲司さん、リクさんにはスーパーカー部門をお願いしたいです」
『結構働かせるね』
「主催者なんで」
『正論で返すのやめない?』
電話の向こうでリクが笑う。
『まあいいよ。全部やる』
「ありがとうございます」
『俺が表彰台に乗ったら玲司から渡されるんだよな?』
「そうなりますね」
『じゃあ優勝して玲司に渡させるか』
「決勝まで行ってから言ってください」
『悠斗、最近そういう返しするようになったよな』
「誰のせいですか」
『知らないなあ』
通話が切れ、悠斗は小さく笑った。
以前なら電話一本掛けるだけでも緊張していた。
今は必要な相手へ順番に確認を取り、二つのギャングを跨いだイベントの話を進めている。
本人が気づかないところで、できることは確実に増えていた。
◇
土曜日。
本番前日。
午前中からサーキットへ入った悠斗は、メインゲートを見上げて足を止めた。
《RAVEN MOTOR FEST》
《NOX × SHIFT》
巨大な看板には、ナナが作ったカラスとチェッカーフラッグを組み合わせた黒と赤のロゴが大きく入っている。
水曜日に走った時とは、同じ場所とは思えなかった。
「……すご」
「いいでしょ?」
隣でナナが得意げに笑う。
「めちゃくちゃ目立つ」
「イベントの顔なんだから、それくらいじゃないと」
後ろからアキラの灰色のスポーツセダンが入ってくる。助手席には蓮。
レイザーはカイの会社で調整と最終点検を終え、午後の搬入を待っていた。
少し遅れて、シオンの黒いレンジャーも駐車場へ入った。
◇
会場内では朝から何台ものトラックが行き交っていた。
展示車を積んだ積載車。テントや什器を運ぶ業者。フードトラック。
スポンサー企業や運営会社のスタッフも慌ただしく動いている。
一般入口とギャング専用入口には仮設ゲートが設置され、観客エリアとピットを分ける柵も並べられていく。
朝倉迅はシオンと警備会社の責任者を連れ、実際の導線を歩いていた。
「ここ、もう少し広げよう。人が止まったら詰まる」
「いけると思う」
シオンが周囲を確認する。
「ギャング入口からここまで?」
「歩いて三分くらい」
「三分は長いな」
朝倉は途中の通路を指した。
「ここにも一組置こう。揉めてから呼んで三分待つのは遅い」
「分かった」
悠斗がその様子を見ていると、別方向からナナの声が飛んできた。
「悠斗!」
「何?」
「展示車の積載、一般入口に来てる!」
近くにいたアキラが顔をしかめた。
「もう迷子出たの?」
「今日一台目」
「一台目って言うな。増えるだろ」
アキラが車へ向かう。
「悠斗、来い」
「なんで?」
「無線係」
「また?」
「運転しながら触るよりいいだろ」
「そこはちゃんとしてるんだ」
「当たり前だろ」
◇
一般入口へ行くと、本当に大型積載車が停まっていた。
「展示搬入口ってここじゃないんですか?」
運転手が窓を開ける。
アキラが送付済みの案内を確認した。
「これ、最初に送った配置図ですね」
「あー……保存してたの、そのまま見てました」
「最新版も届いてます?」
「来てます」
「今の搬入口は反対側なんで、俺が先導します」
「すみません、お願いします」
十分ほどで積載車を正しい搬入口まで連れていく。
「明日はこういうのは少なそうだね」
助手席で悠斗が言う。
「積載は今日で終わるからな。その代わり客が間違えそう」
「入口?」
「一般とギャング用。所属入りのチケット持って一般に並ぶやつ、絶対いるだろ」
「……いそう」
「逆もな」
「ナナたち大変そう」
「他人事みたいに言ってるけど、お前も呼ばれるぞ」
「聞きたくなかった」
◇
午後にはカイの会社も搬入へやって来た。
デモカーと整備機材が運び込まれ、その中には本来カイが会社の代表としてレースへ出す予定だったカスタムカーもある。
少し遅れて、レイザーを載せた積載車も到着した。
「エンジンかけていい?」
「駄目」
「座るだけ」
「それは好きにしろ」
本当に運転席へ収まった蓮を見て、アキラが呆れる。
「子供かよ」
「お前だって新しい車買った時ずっと見てただろ」
レイザーはその後、出場受付へ回された。
申請車両との一致。
ニトロの有無。
安全面の確認。
計測機器の作動。
確認を終えると、指定されたピットへ収められた。
他の参加車両も同じように次々と搬入される。
タイヤ、工具、ジャッキ、交換部品、整備用品、ヘルメット。
メカニックたちは、翌朝すぐ準備に入れるよう必要な物をピットへ揃えていった。
夕方までには、カスタムカー十五台、スーパーカー十五台の受付と確認もすべて終了した。
日曜の朝に、改めてレース車両を運び込む必要はない。
◇
日が傾く頃には、会場はほぼ完成していた。
フードエリアにはテントと車両が並び、ショップや企業の展示区画にはデモカーが収まっている。
大型モニター、スポンサー看板、ピットウォーク用の柵。
一般入口とギャング専用入口にも案内が付き、至るところに黒と赤のイベントロゴが見えた。
五人はメインストレート脇で足を止める。
「明日、ここ何千人も来るんだよね」
「チケットの売れ方なら来るだろ」
アキラが答える。
「俺は客より予選」
蓮が呟くと、シオンが短く返した。
「落ちるなよ」
「お前まで言う?」
四人が笑う。
悠斗も笑いながら、完成した会場を見渡した。
最初は貸し会議室に集まり、何をするのか話し合っていただけだった。
イベントの名前すらなかった。
今はレーサー、整備士、企業、ショップ、飲食店、運営会社、警備会社まで、多くの人がこの場所に関わっている。
ピットには、明日走る三十台が静かに並んでいた。
そして明日になれば、ここへ数千人がやって来る。
自分一人では絶対に作れない景色だった。
「悠斗、帰るぞ」
蓮が駐車場へ向かいながら呼ぶ。
悠斗は最後に一度だけ振り返った。
夕暮れのサーキットに、黒と赤の巨大な看板が浮かんでいる。
《RAVEN MOTOR FEST》
《NOX × SHIFT》
明日は、いよいよ本番だ。
「悠斗、置いてくぞ」
「俺の車なんだけど」
そう返しながら、悠斗は仲間たちのもとへ歩いていった。
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