第5章 第177話 憧れのレーサー
翌日の昼過ぎ。
NOXの事務所へ入った悠斗は、テーブルの前に座る蓮が、珍しく落ち着かない様子でスマートフォンを触っていることに気づいた。
画面を点けて時刻を確認し、すぐに消す。少しするとまた手に取り、ほとんど変わっていない時間を見る。向かいでは三枝ソウが、《RAVEN MOTOR FEST》の資料を鞄へまとめていた。
「蓮、さっきから時間ばっか見てない?」
「見てねえよ」
そう答えた直後にも画面が点いたので、悠斗は思わず笑った。
ソウさんも気づいていたらしく、資料から顔を上げないまま言う。
「今日会う相手が御堂一成だからだろ」
「ソウさん、それ言わなくてよくないですか」
蓮が露骨に嫌そうな顔をした。
御堂一成。
レースに詳しくない悠斗でも名前を知っている、世界的なプロレーサーだった。年間を通して各国のサーキットを転戦し、国際大会でも何度も上位争いをしている。レイヴンシティで見かけることの方が珍しく、ニュースや広告、レース映像の中にいる人物という印象の方が強い。
昨夜ソウさんから連絡を受け、NOX側のスーパーカー部門の招待候補として、その御堂本人へ今日正式に話を持っていくことになった。
蓮だけは、その名前を聞いた時から明らかに反応が違っていた。
「そんなに好きなんだ?」
「好きっていうか、ストリートレース出始めた頃からずっと見てる。オンボードも何回も見たし」
「運転の参考にもした?」
悠斗が聞くと、蓮は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、したことはある」
普段、自分の運転にはかなり自信を持っている蓮が、誰かの走りを繰り返し見ていた。それだけでも、御堂がどれだけ特別な存在なのか分かる。
悠斗は壁に掛かった大きな時計へ目を向けた。
「時間ならそこにあるけど」
「スマホの方が見やすいんだよ」
「もう六回くらい見てる」
「数えんなよ」
ソウさんがとうとう笑い、鞄を持って立ち上がった。
「行くぞ。世界中飛び回ってる奴に時間取ってもらったんだから、遅刻だけはすんな」
蓮は返事より先に立ち上がった。
◇
レーシングチームのガレージへ向かう車は、蓮が運転した。
助手席にはソウさん。悠斗は後部座席に座っている。
普段なら、前に遅い車がいればすぐ空いている車線を探し、信号が変われば気持ちよく加速する。それが今日は妙におとなしかった。速度は一定で、車間もいつもより広い。
「今日、運転めっちゃ丁寧じゃない?」
「普通だよ」
「いや、普通じゃねえな」
助手席のソウさんまで加わる。
「事故ったら遅れるじゃないですか」
「珍しく正論だな」
「俺、普段から正論しか言ってないですけど」
緊張していても、その返しだけはいつもの蓮だった。
中央地区を抜けたところで、悠斗は気になっていたことを尋ねた。
「でも、世界で走ってるプロまで呼ぶんですね」
「呼べるなら、その価値はある」
ソウさんは窓の外を見ながら答える。
「SHIFTは元々レースが強い。向こうの招待枠に速い奴が入るのは分かってるし、NOX側だけ適当に三人埋めるわけにもいかねえ」
「やっぱり対抗する意味もあるんだ」
「ある。ただ、それだけなら御堂まで狙わない」
世界的なプロが一人参加すれば、レースそのものの価値が上がる。一般客への集客力もあるし、一般枠で出場するレーサーにとっても、普段なら画面越しにしか見ない選手と同じ予選を走れる機会になる。
「イベント全体にも大きいってことですね」
「そういうことだ。それにNOXの招待枠だ。面子もある」
蓮が少し笑う。
「そこはちゃんと言うんすね」
「隠してどうする」
御堂へは、通常の招待選手とは別に出演と出場に対するギャラも用意する。ただし共有のイベント会計ではなく、NOX側が負担するという。
「NOXが呼びたい相手だから、SHIFTに出させる金じゃない」
そこまで聞けば、悠斗にも筋が通っていると分かった。
「御堂さんって今シーズン中ですよね?」
「ああ。次の海外戦まで少し間があって、今だけこっちに戻ってる。今日会えるのもその期間だからだ」
「じゃあ、本人が出たいって言っても決まりじゃない?」
「当然。チーム、スポンサー、日程、全部通らないと無理だ」
世界を転戦するプロなら、それが普通なのだろう。
蓮も理解しているらしく、前を見たまま小さく息を吐いた。
「会えるだけでも十分すげえけどな」
◇
御堂が所属するレーシングチームのガレージは、カイの勤める整備会社とはまるで雰囲気が違っていた。
修理待ちの一般車は一台もなく、置かれているのは競技車両や走行用の車ばかり。壁際にはタイヤが種類ごとに整然と積まれ、工具も決められた位置へ収められている。奥ではメカニックたちが車両を囲み、モニターに表示された走行データを確認していた。
悠斗がその光景を見回している横で、蓮が足を止める。
「……あれ」
視線の先には、濃いグレーのスーパーカーが停められていた。
「御堂さんの?」
「そう」
「分かるの?」
「分かるに決まってるだろ。前とホイール変わってるし、フロントも少し違う」
本当に詳しい。
本人に会うことには緊張しているのに、車を見た瞬間だけ声が生き生きしている。
「世界戦の車とは別なんだよな?」
「別。こっちは本人の車。でもサーキットで何回も走らせてる」
蓮がさらに何か説明しようとしたところで、ガレージの奥から一人の男が歩いてきた。
「イベント主催のNOXの方ですよね?」
チームロゴの入ったシャツに黒いパンツ。世界的なスターという言葉から想像していたより、ずっと落ち着いた雰囲気だった。
「御堂一成です」
悠斗は差し出された手を握り返した。
「神谷悠斗です。今日は時間を取っていただいてありがとうございます」
「三枝です」
最後に蓮。
「久我蓮です。よろしくお願いします」
驚くほど綺麗な敬語だった。
悠斗は思わず横を見たが、今は黙っておくことにした。
◇
ガレージ脇の打ち合わせスペースへ移ると、悠斗から《RAVEN MOTOR FEST》の概要を説明した。
レースだけではなく、カスタムカーやショップのデモカー展示、飲食出店まで含めた車の祭典であること。その中心企画として、カスタムカーとスーパーカーの二部門で競技を行うこと。そしてNOX側の招待枠として、御堂にスーパーカー部門へ出場してほしいことを伝える。
御堂は最後まで話を遮らずに聞き終えると、まず開催場所を確認した。
「常設サーキットですよね?」
「はい。昨日SHIFTが走行会をやっていたところです」
「ああ、やっぱりあそこなんですね」
「昨日、来てたんですか?」
「スポンサー関係の打ち合わせでサーキットに用事があって。その後、知り合いが走ってたので最後だけ見てました」
昨日あの場所に御堂がいたとは、悠斗も知らなかった。
競技面についてはソウさんが引き継ぐ。
予選は十五台で三十分。最速ラップを記録とし、上位十台が決勝へ進む。招待選手も例外ではなく、タイムが足りなければ予選落ち。決勝は二時間耐久で、ドライバー交代はなし。給油と修理はピットで行う。
「招待でも決勝保証はないんですね」
「ないです」
御堂は少し笑った。
「それはいいですね。名前だけで決勝に入れてもらっても面白くないので」
隣で蓮が小さく頷いている。
「車は持ち込みで?」
「規定内なら自由です」
御堂はガラス越しにガレージの奥を見る。
「あれで出られるなら、あれがいいですね」
「……あれで走るんですか?」
蓮が思わず身を乗り出した。
「知ってる?」
「もちろんです。排気も前と変わってますよね? あと、前に走ってた時より車高も少し――」
「蓮」
ソウさんに名前を呼ばれ、蓮が止まる。
御堂は一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。
「詳しいね」
「……すみません」
「いや、嬉しいよ」
さっきまで妙に丁寧だった蓮が、車の話になった途端、一気に喋り始めた。その変化があまりにも分かりやすく、悠斗は笑いを堪えるのに苦労した。
御堂はガレージの車へ視線を向けながら続ける。
「世界戦で乗ってる競技車両とは別だけど、こっちは自分でかなり走り込んでるので。二時間なら、慣れてない車を用意されるより安心できます」
もっとも、世界を転戦するプロが個人所有の高額車両を持ち込む以上、話はそれだけでは済まない。
「車両損傷時の扱いと、主催側の保険範囲は確認したいです。スポンサーのロゴ関係もあるので、その辺りもチームから確認が入ると思います」
「資料は用意します。運営会社と確認して、チーム側へまとめて送ります」
ソウさんが答える。
「それと、出るなら自分のメカニックを一人連れていきたいです。普段この車を見てもらってる人なので」
「問題ありません。関係者登録すれば、パドックもピットも入れます」
その話を聞きながら、悠斗は昨日のカイを思い出していた。
蓮にはカイ。
御堂には、長く自分の車を見ている専属メカニック。
ただの思いつきから始まったイベントが、少しずつ本格的なモータースポーツイベントへ近づいている。
◇
最後に悠斗が、NOX側からギャラを用意することを伝えた。
御堂はすぐには返事をしなかった。
「ありがとうございます。ただ、俺一人では決められないです。チーム、スポンサー、日程、それから車をイベントで使う条件も確認しないと」
「もちろんです」
「次の海外戦との間隔もあるので、そこも見ます。でも――」
御堂は手元のイベント資料へ目を落とし、少しだけ表情を緩めた。
「個人的には出たいですよ」
蓮が思わず顔を上げる。
「本当ですか?」
「面白そうですから。プロだけで固めたレースじゃなくて、ストリートの人や一般応募の人も同じ予選を走るんでしょう? しかも招待でも落ちる可能性がある」
御堂は少し楽しそうに笑った。
「こういうレース、嫌いじゃないです」
正式な参加決定ではない。
それでも本人が乗り気なのは十分伝わった。
話を終えて立ち上がったところで、御堂が蓮へ声を掛ける。
「久我君も出るの?」
「はい。俺はカスタムカー部門です」
「昨日走ってたよね。黒いレイザー。右前ドアに大きくNOX入ってた」
蓮の目が見開かれた。
「見てたんですか?」
「目立ってたからね。それに結構攻めてた」
蓮の顔が一瞬だけ明るくなる。
しかし昨日は、その後フルカスタム車に立ち上がりで離されている。そこまで見られていたのではと思ったのか、少しだけ複雑な表情になった。
御堂はそんな蓮を見て、軽く笑った。
「ブレーキングは悪くなかったよ。まだ車は仕上げるんでしょ?」
「これからフルカスします」
「じゃあ、もっと面白くなりそうだね」
褒めすぎるでもなく、ただ見たままを言うような口調だった。
それでも蓮には十分だったらしい。
「……ありがとうございます」
「本番、見るの楽しみにしてる」
今日一番、蓮の返事が素直だった。
◇
帰ろうとしたところで、蓮が一度だけ足を止めた。
御堂を見る。
スマートフォンを見る。
また御堂を見る。
そのまま何も言わず歩き出そうとしたので、悠斗は察した。
「写真、お願いしなくていいの?」
「お前、今それ言う?」
小声で睨まれたが、御堂には聞こえていた。
「写真?」
「いや、こいつが勝手に――」
「いいよ。一枚くらい」
断る理由がなくなった。
結局、悠斗が蓮のスマートフォンを預かり、御堂と並んだ二人へ向ける。
「撮るよ」
「変なタイミングで撮んなよ」
「しないって」
御堂まで笑っている中、シャッター音が鳴った。
撮った写真を確認した蓮は、何でもないことのようにスマートフォンをポケットへしまったが、口元までは隠せていなかった。
◇
帰りも蓮が運転した。
信号待ちで車が止まった瞬間、蓮がスマートフォンへ手を伸ばしたので、後部座席の悠斗がすぐに声を掛ける。
「写真見るなら、ちゃんと停まってる時だけにしなよ」
「見てねえよ」
「今開こうとしたじゃん」
「時間だよ」
助手席のソウさんが吹き出す。
「今日はよく時間見るな」
「二人ともマジでうるさいっすよ」
蓮はスマートフォンを置き、信号が変わると車を発進させた。
しばらくして、悠斗が前席の間から声を掛ける。
「でも、本当に来てくれたらすごいな」
「まだ決まってねえよ。次の海外戦もあるし、スポンサーもチームもある」
蓮はそう言いながらも、少しだけ笑っていた。
「……でも、あの車で走るんだよな」
「やっぱりそこ?」
「そこも大事だろ」
その返事に、悠斗も笑った。
世界中のサーキットを転戦しているレーサーと、自分たちがこの街で作っているイベントが繋がろうとしている。
少し前までなら、考えもしなかったことだった。
◇
その日の夕方。
NOXが御堂一成へ正式に招待を出したことは、共同主催者であるSHIFTにも共有された。
サラは最初こそ軽く聞いていたが、名前を知った瞬間に顔を上げる。
「……御堂一成?」
「まだ確定じゃないけど、本人は前向きらしい」
「本人の車?」
「持ち込む予定。専属メカニックも一人連れてくるって」
サラは数秒黙ったあと、面白そうに口元を上げた。
「本気じゃん、NOX」
世界的なプロレーサーを招待する。
それも名前だけを借りるのではなく、自分の車とメカニックを連れて二時間耐久へ出てもらう。
車を看板にしているSHIFTとして、何も思わないはずがなかった。
「じゃあ、こっちも一人プロ候補出そうかな」
近くにいたSHIFTの構成員が眉を上げる。
「対抗するの?」
「それもあるけど、せっかくならレース自体もっと面白くしたいじゃん」
サラはスマートフォンの連絡先を開いた。
「それに、車のイベントでNOXだけ世界で走ってるプロ呼んで、SHIFTが何もしないのも違うでしょ」
「リクさんには?」
「今から話す」
サラが画面をスクロールしていく。
やがて、一つの名前の上で指が止まった。
その人物もまた、レイヴンシティだけで速さを競っているようなレーサーではない。世界各地のサーキットを転戦し、御堂とも何度も同じ国際大会で顔を合わせているプロだった。
サラ自身が以前、リクと海外のモーターイベントへ行った際に知り合っている。
「御堂呼ぶなら、この人くらいじゃないと面白くないよね」
すぐ本人へ電話することはせず、一度画面を戻す。
次に選んだのは、風間リク。
世界的なプロへ正式に声を掛ける以上、出演料も含めてサラ一人で決める話ではない。
まずはSHIFTのボスへ通す。
呼び出し音を聞きながら、サラは楽しそうに笑った。
「だったら、こっちも本気出そっか」
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