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『引きこもり高校生、犯罪都市でギャングを始める ~友達ゼロだった俺の成り上がり~  作者: 阿鼻恭介
第5章

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第5章 第176話 フルカス

 翌日。


 レイヴンシティ郊外のサーキットには、朝から途切れることなくエンジン音が響いていた。


 メインストレートを駆け抜ける甲高い排気音が観客席へ反響し、コーナーではタイヤが短く鳴く。パドックではボンネットを開けた車の周囲に工具や予備部品が並び、インパクトレンチの乾いた作動音や、スタッフ同士の声が絶えず飛び交っている。


 風に混じるのは、オイルと熱を持ったゴムの匂い。


 街中とはまるで違う空気だった。


 今日は《RAVEN MOTOR FEST》のために用意された特別な走行日ではない。


 SHIFTが毎月主催している、恒例のサーキット走行会だ。


 ストリートレーサーや車好き、ショップ関係者、それにSHIFTの構成員たちが自分の車を持ち込み、それぞれ割り当てられた走行枠でコースを走る。


 正式な競技ではないため順位も賞金もないが、本気でタイムを削りに来る者は少なくない。


 単純に走ることを楽しむ者もいれば、自分で触った車の調子を見る者、ショップが仕上げた車を持ち込む者までいて、毎月ちょっとした車の祭りのようになっていた。


 今回、悠斗たち五人も揃って顔を出している。


 ただし、目的はそれぞれ違った。


 悠斗は、《RAVEN MOTOR FEST》でNOX側から招待するレーサー候補を見るため。


 蓮も候補を確認するが、自分自身も黒いレイザーで走行会へ参加する。


 アキラは、普段から付き合いのあるショップ関係者や車関係の知り合いへの顔見せ。


 ナナは、すでに一般枠へ応募しているレーサーたちやショップ関係者へイベントを宣伝するためだ。


 そしてシオンだけは、特に仕事ではない。


「俺は見に来ただけ」


 到着して間もなく、本人はいつもの調子でそう言った。


 ヘルメットを抱えていた蓮が振り返り、少し呆れたように眉を上げる。


「一番気楽じゃん」


「今日は仕事じゃない」


「俺だって半分遊びみたいなもんだけど」


「じゃあいいじゃん」


「そういう問題?」


 シオンはそれ以上答えず、近くに停まっていた一台のカスタムカーへ興味を移した。


 黒い車体のリア周りをじっと眺め始めたところを見る限り、本当にただ見学を楽しむつもりらしい。


 五人はそのまま、それぞれの目的に合わせてパドックへ散っていった。


 悠斗は三枝ソウと合流し、今日確認したいドライバーの走行時間を聞く。


 アキラは早速、顔見知りらしいショップスタッフに声を掛けられ、そのまま笑いながら立ち話を始めていた。


 ナナもスマートフォンでイベントページを開きながら、すでに一般枠へ応募しているレーサーたちや、展示参加を迷っているショップ関係者へ声を掛けている。


 その少し離れたところで、蓮は黒いレイザーのドアを閉めた。


 右前ドアには、大きなNOXのロゴ。


 エンジン、ブレーキ、足回りにはすでに手が入っている。


 街中を走る車として考えれば、十分すぎるほど速い。


 それでも、今日のパドックを見渡せば、その先があることも嫌でも分かった。


 大きく張り出したワイドフェンダーの奥に収まる太いタイヤ。


 車体後方へ立つ大型ウイング。


 空気を取り込む形へ変更されたバンパー。


 ボンネットには熱を逃がすためのダクトが切られ、窓越しに見える車内からは余計な内装がほとんど消えている。


 見た目だけを派手にした車ではない。


 走るために必要なところへ、金も手間も惜しまず注ぎ込んだ車だった。


「あれ、すごいな」


 悠斗が少し離れた一台を指した。


 派手な色ではない。それでも低く構えた車体と大きなリアウイングだけで、明らかに普通のカスタムカーとは違って見える。


 蓮もそちらへ目を向けると、少し楽しそうに口元を上げた。


「ああ。前の走行会でも速かったやつ」


「フルカス?」


「ほぼ全部入ってるはず」


「蓮のより?」


「金掛かってんのは間違いなく向こう」


 悔しそうな様子はない。


 むしろ、面白い相手を見つけた時の顔だった。


 そこへ、走行表を確認していたソウさんが戻ってくる。


「蓮、次の枠だろ」


「はい」


「今日は壊すなよ」


「ソウさんまでそれ言うんすか?」


「お前だから言ってる」


「信用ないなあ」


 蓮は苦笑しながらヘルメットを被った。


「じゃ、行ってくる」


 悠斗もつい同じことを言う。


「壊すなよ」


「だから壊さねえって」


 そう返しながら黒いレイザーへ乗り込む蓮の表情は、完全に走る側のものへ変わっていた。


     ◇


 数台の車がピットロードから順番にコースへ送り出されていく。


 黒いレイザーも、その列に加わった。


 最初の数周はタイヤを温めるために速度を抑えている。


 それでも周回を重ねるにつれて蓮のペースは少しずつ上がり、三周目に入る頃には、悠斗の目にも明らかに走りが変わったのが分かった。


 コーナーへ入る直前まで速度を残し、そこで一気にブレーキを踏む。


 車体が前へ沈み込み、そのまま滑らかに向きを変える。


 出口が見えたところでアクセルを踏み込み、黒い車体が一気に前へ伸びる。


 悠斗には細かな技術までは分からない。


 それでも、同じ走行枠にいる車と比べれば、蓮が速いことくらいは分かった。


「やっぱり蓮、速いですね」


 フェンス越しにコースを見ながら悠斗が言うと、隣のソウさんは腕を組んだまま短く答えた。


「腕はな」


 その言い方が妙に引っ掛かり、悠斗は横を見る。


「……その言い方、何かあるんですか?」


「車見てろ」


 意味を聞き返すより早く、答えはコース上で起きた。


 レイザーの後方から、一台のカスタムカーが急速に距離を詰めてくる。


 先ほど悠斗が気にしていたフルカスタム車だった。


 蓮もミラーで気づいたらしい。


 次のコーナーへの進入が、わずかに鋭くなる。


 一つ目のコーナーでは大きな差はつかない。


 続く低速コーナーでは、むしろレイザーが少しだけ距離を稼いだようにも見えた。


「蓮の方が速い?」


「進入はな」


 ソウさんがそう答えた直後、二台がコーナーを抜けた。


 そこで違いが出た。


 フルカスタム車が立ち上がりから一気に伸びる。


 レイザーも当然アクセルを踏み切っている。それでも、コーナーで保っていた距離がじわじわと広がっていった。


 長いストレートへ入る頃には、その差は悠斗にもはっきり分かった。


「……車で負けてる?」


「そういうこと」


 ソウさんはコースを見たまま答える。


「エンジンだけいじって終わりじゃねえからな。駆動、ミッション、タイヤ、重量、空力、セッティング。全部合わせて一台だ」


 一つだけなら、小さな違いかもしれない。


 けれど、それがいくつも積み重なれば、同じコースを走った時には大きな差になる。


 数周後。


 黒いレイザーがピットロードへ戻ってきた。


 車を止めた蓮は、ヘルメットを外すと汗ばんだ髪を乱暴にかき上げた。


 いつもならすぐ何か言いそうなものなのに、しばらく黙ったまま自分のレイザーを横から眺めている。


 少し離れた場所では、先ほどのフルカスタム車もピットへ戻っていた。


 蓮はその車を一度見て、それから自分のレイザーへ視線を戻した。


「……無理だな」


 悔しそうというより、何かを認めたような声だった。


「何が?」


 悠斗が聞く。


「このままじゃ、フルカス相手に太刀打ちできねえ」


「結構いじってるのに?」


「エンジンもブレーキも足も入ってる。でも、そこだけじゃ足りない」


 蓮はさっき自分を離した車へ視線を向けたまま続ける。


「駆動もミッションもタイヤも、軽量化もセッティングも向こうは詰めてる。コーナーで多少詰めても、立ち上がりとストレートで持ってかれる」


 一度息を吐き、自分の車へ目を落とす。


「しかも本番は二時間だろ。ここからもっと詰めるなら、冷却もやっとかないと途中でタレる」


 ソウさんが小さく頷いた。


「今のレイザーも十分速い。ただ、本気のフルカス勢とやるなら、まだ完成じゃない」


 その言葉を聞いた瞬間、蓮の表情が変わった。


 負けたことを悔しがるより、どうすれば追いつけるのかを考え始めた顔だった。


「じゃあ、やります」


「何を?」


「フルカス」


 悠斗が目を瞬く。


「全部?」


「残ってるところ全部」


「決めるの早いな」


「今足りねえって分かったんだから、今決めるだろ」


 そこへ、ショップ関係者への挨拶を一段落させたらしいアキラが戻ってきた。


 少し離れたところから最後のやり取りを聞いていたのか、レイザーを眺めながら蓮へ声を掛ける。


「何、フルカスするの?」


「する」


「外装も?」


「やる」


「そこ、あんまり速さに関係ないじゃん」


 アキラの言葉に、蓮は当然のような顔でレイザーを指した。


「カスタムカー部門に出るんだぞ。中身だけ全部やって、見た目が今のままとかつまんねえだろ」


 アキラはレイザーの後ろへ回り、リア周りを眺める。


 大型ウイングでも想像しているのか、少し首を傾けた。


「まあ、ウイングとかエアロは速さにも関係あるけど。蓮の場合、それだけじゃないだろ」


「当然」


「色は?」


「変えない」


 返事は迷いがなかった。


 蓮は右前ドアの大きなNOXロゴへ目を向ける。


「黒のまま。NOXも残す」


「そのまま派手にする?」


「そう。並んだ時に、一発で俺の車って分かるくらい」


「結局目立ちたいんだ」


「当たり前だろ」


 迷いなく返す蓮に、アキラは呆れたように笑った。


     ◇


 昼休憩に入ると、さっきまで響いていたエンジン音が途切れ、パドックの空気が少しだけ穏やかになった。


 昼食を取る者もいれば、ボンネットを開けて午前中の走行を確認している者もいる。タイヤを外して状態を見ているショップスタッフの横では、走り終えたドライバーたちがペットボトルを片手に話し込んでいた。


 ナナもようやく宣伝を一段落させ、五人のところへ戻ってくる。


「結構、一般枠に応募してる人多かったよ」


 スマートフォンをポケットへしまいながら、ナナが言う。


「今日来てる人だけでも何人か応募済みだったし、知り合いにも声掛けてるって人いた。ショップの人にも一通り話してきたよ」


「こっちも何軒か挨拶してきた」


 アキラも続ける。


「イベント自体はもう知ってる店が多かったけど、直接話した方が反応はいいな。展示とか協賛に興味ありそうなところもあった」


「結構広がってるんだな」


 悠斗が言うと、ナナは少し嬉しそうに頷いた。


「思ってたより早いかも」


 一通り報告が終わったところで、話題は自然とレイザーへ戻った。


「で、フルカスするんでしょ?」


 ナナが車を見る。


「する」


「結構かかるよね?」


「かかる」


 蓮はそこだけは否定しなかった。


 アキラも黒いレイザーを眺めながら、腕を組む。


「残ってるところ全部やって、外装までならそれなりだろうな」


 蓮はしばらく黙った。


 さっきまでフルカスタムの話をしていた時とは違い、少しだけ慎重な顔になる。


「……そろそろ、銀行の金使ってよくない?」


 その一言で、五人の間にあった軽い空気がほんの少しだけ変わった。


 銀行強盗で手に入れた金。


 五人で得た、大きな金だった。


 同時に、五人全員が死にかけた仕事でもある。


 そして、あの日から今日まで、その金には一度も手をつけていない。


 誰かが何かを買ったこともなければ、使い道について真剣に話したことすらなかった。ただ、そのまま残していた。


 悠斗の頭にも、あの日の記憶が蘇る。


 鳴り続ける銃声。


 身体を襲った痛み。


 意識が遠のいていく感覚。


 そして、目を覚ました病院の白い天井。


 大金を手に入れたはずなのに、あの日のことを思い出すと、どうしても素直に喜ぶ気にはなれなかった。


「蓮の車に使うってこと?」


 ナナが先に確認する。


 蓮はすぐに首を振った。


「俺だけにって意味じゃない。これから五人の共通資金として使っていこうってこと。車でも装備でも、必要な時に必要なやつが使えばいいだろ」


 アキラはその言葉を聞きながら少し考え、確認するように聞く。


「全員に同じ額ずつ分けるんじゃなくて?」


「必要なもん違うだろ」


「それはそうだな」


 それまで静かに聞いていたシオンも、小さく頷いた。


「置いてるだけよりいい」


 今日一日ほとんど見学していただけのシオンも、この話だけは少し真面目な顔をしていた。


 ナナはすぐには答えず、ペットボトルの蓋を指先で弄りながら考える。


「じゃあ、誰が何にいくら使ったかは残そう。後から分からなくなるの嫌だし」


「それは必要だな」


 悠斗も同意した。


「五人で取った金だから」


 蓮も素直に頷く。


「それでいい」


 悠斗はもう一度、自分の中に残っている抵抗を確かめた。


 怖かった記憶が消えたわけではない。


 あの時、ほんの少し何かが違えば、五人のうち誰かが死んでいたかもしれない。


 その記憶が強すぎたからこそ、誰もあの金に触ろうとしなかったのだと思う。


 けれど、使わずに残しておくこと自体に意味があるわけでもない。


 五人とも生き残った。


 なら、その先のために使ってもいい。


「俺も賛成」


 悠斗が言った。


「使おう」


 蓮の表情が少しだけ明るくなる。


「じゃあ最初、レイザーでいい?」


「いいんじゃない?」


 ナナが笑う。


「その代わり、次に私が何か欲しくなっても文句なしね」


「必要ならな」


「今、条件付けた」


「必要じゃないもん買うのは違うだろ」


 アキラが吹き出す。


「珍しくまともなこと言ってる」


「お前ら俺を何だと思ってんだよ」


 少し重くなりかけていた空気が、そこでようやく元へ戻った。


     ◇


 午後。


 走行が再開すると、悠斗とソウさんは再びコース脇へ向かった。


 蓮も自分の走行の合間を使って招待候補の走りを見る。SHIFT側ではサラも同じように候補を確認していた。


 候補は今日初めて探しているわけではない。


 これまでの実績や普段の走りを含め、すでに何人かまで絞り込んである。


 今日の走行会は、その最後の確認に近かった。


 カスタムカー部門のNOX側。


 一人目は蓮。


 二人目は、車に詳しく走りも安定しているNOX構成員。


 そして最後の一人。


 コースを走っていた一台の車が最終コーナーを抜け、ストレートへ立ち上がってくる。


 一ノ瀬ハルトだった。


 速さは十分にある。


 それだけではない。


 後ろから速い車が来れば無理に塞がず、自分が抜く時も相手の進路を潰さない。タイムを詰めながらも、同じコースを他人も走っていることを忘れていない。


「ハルトでいいと思います」


 蓮が言うと、ソウさんも迷わず頷いた。


「俺もそう思う。今日見ても問題ない」


 悠斗にも異論はなかった。


「じゃあ、この三人に声を掛けるんですね」


「ああ。本人が受ければな」


 ソウさんは候補リストへ印をつける。


 SHIFT側も、サラが自分たちの候補をある程度固めているようだった。


「そっちは?」


 蓮が聞く。


「まだ内緒」


 サラは即答した。


「なんでだよ」


「正式に決まったら教える」


「共同主催だろ」


「だから最終的には教えるって」


「絶対楽しんでるだろ」


「ちょっとね」


 悪びれずに笑うサラを見て、蓮がため息をつく。


 午後の走行が終わる頃には、招待枠の話もかなり形になっていた。


 ただ、すべてが決まったわけではない。


 特にスーパーカー部門には、まだ何人か検討したい名前が残っている。


 帰り際、候補表を見ていたソウさんが、あるところで手を止めた。


「……ここ、一人ちょっと考えるか」


 その言葉に蓮が反応し、横から候補表を覗こうとする。


「誰です?」


「まだいい」


「なんでですか」


「決めてからだ」


 ソウさんはそう言って候補表を閉じた。


 蓮は少し納得していない顔をしていたが、それ以上は聞かなかった。


 悠斗も、その時は特に気に留めなかった。


     ◇


 走行会が終わった夕方。


 悠斗たち五人は、そのままカイが勤める整備会社へ向かった。


 工場内ではまだ何台かの車が作業中で、開いたシャッターの奥からオイルと金属の匂いが流れてくる。リフトに上げられた車の下では整備士が作業を続け、別の作業スペースでは外した部品が整然と並べられていた。


 黒いレイザーを空いているスペースへ入れると、作業着姿のカイが手を拭きながら近づいてくる。


「どうしたの、全員で」


「これ」


 蓮がレイザーを指した。


「フルカスしたい」


 カイの眉がわずかに動く。


「その言い方、一番嫌いなんだけど」


「なんで?」


「『全部やって』と同じだから」


 苦笑しながら、カイはレイザーの周囲をゆっくり歩いた。


「エンジン、ブレーキ、足はもうやってるだろ」


「それ以外」


「ほら、やっぱりほぼ全部じゃん」


 口では文句を言いながらも、カイの視線はすでに真剣だった。


 蓮が今日の走行会で感じたことを話す。


 コーナーでは何とか詰められたこと。


 立ち上がりとストレートで差を広げられたこと。


 二時間のレースを考えるなら、今の仕様のままでは足りないと感じたこと。


 それを聞きながら、カイはレイザーのボンネットを開け、車体の各部へ視線を走らせていく。


「駆動系はやる。ミッションも詰めたい。冷却も今より必要だな。排気も見直すし、軽量化と補強もやる。タイヤとホイールも変えるなら、そこに合わせてセッティングもやり直し」


 話しながら、頭の中ではすでに組み合わせを考えているらしい。


 蓮も横から次々と希望を出す。


「外装もやりたい」


「どこまで?」


「ちゃんと速くなるやつで、見た目も派手に」


「注文ざっくりしてんな」


 カイは少し笑い、それから車体を横から眺めた。


「色は?」


「黒のまま」


「右前ドアのNOXは?」


「絶対残す」


「ウイング?」


「欲しい」


「フェンダー?」


「広げたい」


「エアロ?」


「攻めたい」


「はいはい」


 呆れたように返しながらも、カイの表情は少しずつ楽しそうになっていった。


 アキラがそれを見逃さない。


「カイ、めっちゃやりたそうじゃん」


「面倒だなって思ってるだけ」


「その顔で?」


「面倒なのと面白そうなのは別だろ」


 そう言ってカイはレイザーのフロントへ回り、しばらく車体を見つめていた。


 どこか頭の中で完成形を想像しているようにも見える。


 その様子を見ていた蓮が、少しだけ表情を改めた。


「あとさ、カイ」


「ん?」


「本番も見てもらえない?」


 カイが顔を上げる。


「本番?」


「レース中。俺のメカニックで」


 蓮はレイザーへ視線を向けたまま続けた。


「ここまでカイに触ってもらうなら、本番で何かあった時もカイに見てもらいたい。給油もあるし、途中で何か壊れたり調子悪くなったりした時も、車のこと一番分かってるやつに見てもらった方がいいだろ」


 頼み方は、いつもの蓮より少しだけ真面目だった。


 カイも冗談では返さない。


 黒いレイザーを一度見て、それから蓮を見る。


「……やりたいのはやりたいけど」


 その言い方に悠斗が気づく。


「何かある?」


 カイは少し困ったように笑った。


「俺、会社の代表で一般枠に応募してるんだよ」


 その言葉を聞いて、蓮の表情が止まった。


「……ああ、そうだった」


 カイ個人が遊びで申し込んだわけではない。


 会社で仕上げたカスタムカーを《RAVEN MOTOR FEST》の一般枠へ出し、そのドライバーをカイが務める予定になっていた。


 だから、カイ一人の気分だけで「やっぱりやめる」と決められる話ではない。


「じゃあ、やっぱ無理か」


 蓮はそう言ったが、声には少し残念そうな色が混じっていた。


 カイはすぐには答えなかった。


 目の前のレイザーを見る。


 これから自分たちの手でフルカスタムする車。


 二時間耐久を走るために仕上げる車。


 自分が一番状態を把握することになる車。


 そして、それを頼んできたのは蓮だった。


「正直、俺はこっちやりたいけどな」


 小さく漏らしたその言葉に、工場の奥から別の声が重なった。


「だったら、こっちやればいいだろ」


 全員が振り返る。


 作業スペースの奥から、会社の社長がこちらへ歩いてきていた。


 話が聞こえていたのか、特に驚いた様子もなくレイザーの前まで来る。


「社長」


「さっきから聞こえてた」


 社長はまずカイを見て、それから黒いレイザーへ視線を移した。


「お前、この車やりたいんだろ?」


 カイは一瞬だけ迷ったようだったが、すぐに頷いた。


「……やりたいです。ここまで触るなら、本番も見たいです」


「ならメカニックやれ」


 即答だった。


 カイの方が少し驚いたように目を見開く。


「でも、うちのカスタムカーでレースに出る話は?」


「今回は諦める」


「いいんですか?」


「両方やって中途半端になる方が嫌だ。それに、うちの車まで引っ込める必要はない」


 社長は工場の奥に停められている自社のカスタムカーへ目を向けた。


「レースに出す予定だった車は、デモカー展示へ回す」


 その言葉にアキラがすぐ反応した。


「展示枠がありますもんね」


「ああ。あれだけ仕上げた車なら、止めてじっくり見てもらうだけでも十分うちの仕事は見せられる。むしろ細かいところまで見てもらうなら、展示の方が向いてる部分もある」


 カイも自社のカスタムカーを見ながら、少しずつ納得したように頷いた。


 レースへ出られなくなるからといって、会社としてイベントで見せるものがなくなるわけではない。


 デモカーとして展示し、来場者に外装や内装、作り込みを見てもらう。


 それだけでも会社として十分意味がある。


 社長はそこで黒いレイザーへ視線を戻した。


「それに、こっちも使える」


「使える?」


 蓮が少し警戒したように聞き返す。


 社長はそれを見て、わずかに笑った。


「悪い意味じゃない。このレイザー、うちでフルカスするんだろ? しかもカイが本番で専属メカニックまでやる」


 そこまで言われて、アキラが先に意図を察したようだった。


「宣伝ですか?」


「そういうこと」


 社長はレイザーを一周するように眺める。


「せっかくなら、会社でこの車のスポンサーもやる」


 今度は蓮が目を見開いた。


「スポンサー?」


「ああ。フルカスはスポンサー扱いで値引きする。本番でカイが専属メカニックをやる分も会社で持つ。ピットで使う通常の消耗品や材料も、こっちで用意する」


 蓮は思っていた以上の条件に、すぐには返事をしなかった。


 カイも、社長の口からそこまで具体的な条件が出てくるとは思っていなかったらしく、少し驚いた顔で社長を見る。


 ただし、社長も何でも無条件で負担するつもりではないらしい。


「勘違いするなよ。事故で高い部品壊しても、全部こっちが出すって話じゃない。普通の整備で使うオイルとかフルードとか、細かい材料なんかは持つってことだ」


「それは分かってます」


 蓮はすぐに頷いた。


 そこで社長が右前ドアへ目を向ける。


 大きなNOXのロゴが入っている場所だ。


「その代わり、条件は一つ。うちのステッカーも貼ってくれ」


 蓮は少しだけ考えた。


 金の話より、むしろそこを気にしているようだった。


「NOXの邪魔にならない場所なら」


「そこはこっちも分かってる。右前ドアには触らない。車全体見て、ちゃんと馴染む場所に入れる」


 蓮はもう一度レイザーを眺めた。


 黒いボディ。


 右前ドアのNOX。


 そこへ新しく、整備会社のロゴが加わる。


 自分の車に別の会社の名前を入れることへの違和感より、カイたちが作った車として走ることの方が、今は自然に思えた。


「じゃあ、お願いします」


 返事をすると、横でアキラが少し笑った。


「結構すぐ決めたな」


「条件いいだろ」


「まあ、それはそうだけど」


 社長も満足そうに頷いた。


「整備ブースは予定どおり出す。うちのカスタムカーはデモカー展示。レイザーはうちが手を入れたスポンサー車として実際に二時間を走る。カイは専属メカニックでピットに入る」


 そう整理して聞くと、会社側にも十分な意味があった。


 デモカーでは、止まっている状態で仕上がりをじっくり見てもらえる。


 整備ブースでは、その場で実際に車へ触る姿を見せられる。


 そしてレースでは、自分たちが仕上げた車が本気で走るところを見せられる。


 単純に会社のカスタムカー一台をレースへ出すより、見せられるものは増えている。


 カイもようやく迷いが消えたようだった。


 レイザーのボンネットへ手を置き、蓮を見る。


「じゃあ、本番まで俺が見る」


「頼む」


「やるなら中途半端にはしないぞ」


「それはこっちも同じ」


 蓮がそう返すと、カイは少しだけ笑った。


「じゃあ、まず一回全部ばらして見ないとな」


「え、今日から?」


「フルカスしたいって言ったの誰だよ」


「いや、そうだけど」


 カイが肩をすくめ、それから少し意地の悪そうな笑みを浮かべる。


「あと、本番で壊すなよ」


 それを聞いた瞬間、蓮が露骨に嫌そうな顔をした。


「今日それ何回言われたと思ってんだよ」


 その反応に、工場の中へ笑い声が広がった。


 黒いレイザーは、まだ今日サーキットを走った時と何も変わっていない。


 右前ドアには大きなNOX。


 外装も、駆動も、冷却も、これからだ。


 けれど、その車を見つめる蓮の中では、もう完成した姿が少しずつ見え始めているようだった。


 今日、フルカスタム車に立ち上がりで離され、ストレートで背中を見送った。


 だからこそ、次は同じままでは終わらない。


 次に本気であのサーキットへ戻る時。


 黒いレイザーは、蓮が今まで乗ってきた車とは別物になっているはずだった。

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