第1章 第17話 知らない名前を使うな
翌日の夕方、悠斗はタクシーの営業を終え、南部地区にある《SUNSET DINER》へ向かっていた。
日が傾き始めた街には、昼間とは少し違う空気が流れている。工場から帰る車と、これから夜の仕事へ向かう車が交差し、古い建物の壁には西日が長い影を落としていた。
歩道の向こうでは若者たちが笑いながら車を囲み、少し離れた交差点ではパトカーが交通違反らしい車を路肩へ止めている。
レイヴンシティへ来たばかりの頃なら、パトカーを見るだけで目で追っていた。
今は違う意味で気になる。
悠斗は無意識に視線を逸らしながら、スマートフォンを取り出した。
画面には、一時間ほど前に届いたメッセージが残っている。
『車を一台移動してほしい』
『南部から東側まで』
『報酬千五百ドル』
送り主は知らない番号だった。
それだけなら、最近では珍しいことではない。
裏仕事を何度かこなすうちに、悠斗の番号が少しずつ人から人へ渡っているらしい。誰から聞いたのか分からない相手から連絡が来ることも増えていた。
問題は、その後だった。
『EMBERから聞いてる』
その一文を見た瞬間、悠斗は返信する指を止めた。
以前なら、名前を知っているだけで多少安心していたかもしれない。
今は違う。
黒瀬ジンから聞いた言葉が頭に残っている。
仕事の内容より先に、誰の仕事なのかを見る。
有名な名前を出されたからといって、その名前が本物だとは限らない。
何より、EMBERのボスであるジン本人と知り合った今だからこそ、その名前を軽々しく信用する気にはなれなかった。
悠斗は連絡先を開き、検索欄へ「黒瀬」と打ち込む。
何も表示されない。
「……そういえば、連絡先知らないんだった」
何度も会話しているせいで、すっかり連絡できるような気になっていた。
ジンとはまだ、そんな距離ではない。
そこで悠斗が思い出したのが蓮だった。
自分一人で分からないなら、分かりそうな人間へ聞けばいい。
以前の悠斗なら、その「聞く」という行為自体に余計な時間を使っていた。
けれど今は、少なくとも蓮には以前ほど迷わず連絡できる。
『今、少しいい?』
送ってから一分もしないうちに返事が来た。
『生きてる』
『何』
悠斗は思わず小さく笑ってから、仕事の内容をそのまま送った。
数秒。
『受けた?』
『まだ』
『ならそのまま待て』
今度は返信が早かった。
『EMBERから聞いてるって言われたんですけど』
『そこが怪しい』
『やっぱり?』
『俺なら千五百なら一瞬迷う』
『迷うんだ』
『金は欲しいだろ』
続けて、笑っている顔のスタンプが届く。
その軽さに少し安心した直後、次の文章は真面目だった。
『でも持ち主も言わない車は触りたくねえ』
『前にそれで面倒食らったことあるし』
悠斗は画面を見つめた。
蓮も最初から全部知っていたわけではない。
失敗して、嫌な目を見て、その結果として警戒している。
そう考えると、少しだけ聞きやすかった。
『何を確認したらいい?』
『誰の車か』
『何で俺が運ぶのか』
『警察来る可能性』
『あとEMBERの誰から話回ったのか』
『全部まともに答える奴なら、その後考えればいい』
悠斗は短く息を吐いた。
答えをもらったというより、考える材料をもらった気がした。
『ありがとう』
『珍しいな』
『何が?』
『ちゃんと聞いてから動いてんの』
『前は盗難車に乗ってから知ってたじゃん』
「……」
痛いところを突かれた。
『あれは知らなかった』
『だから言ってんだよ』
最後に笑うスタンプが届いた。
悠斗はスマートフォンを握ったまま、少し迷った。
知らない相手へ自分から連絡するのは、今でも好きではない。
それも今回は、普通の仕事ではない。
断ったことで相手が気分を害する可能性だってある。
胸の奥が少し重くなる。
それでも、最初の裏仕事の時とは違う。
あの時は何も分からないまま、相手の言葉に流されて運転席へ座った。
今は、自分で確認すると決めている。
悠斗はメッセージではなく、表示されている番号へ電話をかけた。
呼び出し音が一度、二度と続く。
『誰だ』
低い男の声だった。
「さ、さっき車の移動の件で連絡をもらった、神谷です」
最初の一言だけ少し詰まった。
それでも電話を切りたくなるほどではない。
『ああ。やるのか?』
「その前に、いくつか確認したいことがあります」
一瞬、向こうが黙った。
『何だよ』
「車は誰のものですか?」
『そこ聞く必要あるか?』
悠斗の指先に力が入る。
「あります」
『面倒くせえな。こっちはEMBERから聞いてんだぞ』
再びその名前が出た。
けれど今度は、安心より違和感の方が強かった。
「EMBERの誰からですか?」
『そこまでお前に教える義理ねえだろ』
答えない。
「警察が来る可能性はありますか?」
『ねえよ』
「どうして俺に頼むんですか?」
『……お前、細けえな』
通話の向こうで、男が舌打ちした。
『運転できる新人がいるって聞いた。それだけだ』
「誰からですか?」
『だからいちいち聞くなって』
悠斗は目を閉じた。
怖い。
怒らせたかもしれない。
住所も顔も知られている可能性がある。
以前なら、そこで「分かりました」と言ってしまったかもしれない。
嫌われることや怒られることを避ける癖は、まだ自分の中に残っている。
けれど今ここで受ける理由は、それ以上にない。
「すみません。その仕事は受けません」
『は?』
「確認できない仕事は、受けません」
『お前ビビってんの?』
悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
否定しようかと思った。
けれど、無理に格好をつけても仕方がない。
「怖いので確認しています」
『……』
「それで分からないままなら、やりません」
数秒の沈黙のあと、男は小さく鼻を鳴らした。
『好きにしろ』
電話が切れた。
耳元から電子音が消えた途端、悠斗は大きく息を吐いた。
「……疲れた」
誰かと喧嘩をしたわけでもない。
警察から逃げたわけでもない。
それなのに、肩が妙に重い。
断るだけでこんなに疲れるのかと思う。
それでも、不思議と後悔はなかった。
千五百ドル。
最初に受けた二千ドルの裏仕事にも近い額だ。
少し前なら、その数字だけでかなり心が揺れていたはずだった。
今も惜しいとは思う。
しかし、惜しいと思うことと、危険を無視することは別だった。
悠斗が店へ入ると、鉄板で肉の焼ける匂いと、コーヒーの香りが混ざって鼻へ届いた。
「いらっしゃ――あ、悠斗」
カウンターの向こうでミオが手を上げる。
「こんばんは」
「今日は一人?」
「たぶん後でカイが来ます」
「たぶんって何」
「連絡したら『腹減ったら行く』って」
「それ来るやつじゃん」
ミオに笑われ、悠斗も少しだけ口元を緩めた。
以前なら、誰かと待ち合わせをして店へ入るだけで落ち着かなかった。
今では、こうして自分から席へ座り、知っている相手と普通に話せる。
まだ自然にできているというほどではない。
けれど、できることは確実に増えていた。
しばらくして、本当にカイが来た。
「お前、先に食ってないだろうな」
「まだです」
「よし。腹減った」
「自分で言ったんじゃないですか」
「何を?」
「腹減ったら来るって」
「だから来た」
当然だろうという顔で座るカイを見て、ミオが呆れたように笑う。
三人で適当な話をしている途中、悠斗のスマートフォンが震えた。
蓮からだった。
『さっきの件』
『一応知り合いに聞いた』
悠斗の表情が少しだけ固まる。
『少なくともジンさんの仕事じゃない』
『EMBERの名前使ってる奴がいるっぽい』
『車が何なのかまでは分からん』
そこで終わっていた。
真相までは分からない。
盗難車だったのかもしれないし、別の犯罪に使われた車だったのかもしれない。
あるいは、それほど危険ではなかった可能性だって残っている。
それでも、EMBERという名前だけは本物ではなかった。
『断って正解だった?』
悠斗が送ると、
『知らん』
即答だった。
『結果論で正解にすんな』
『分からんから断ったんだろ』
悠斗はしばらくその文章を見た。
それから、
『そうだね』
と返した。
「何、また怪しい顔してんの」
向かいからカイが言った。
「そんな顔してました?」
「してる。悠斗って分かりやすいぞ」
「……知り合いから連絡が来ただけです」
「その知り合いが怪しいんだろ」
「否定しづらいです」
「お前ほんと最近交友関係広くなったな」
何気なく言われた言葉に、悠斗は少しだけ黙った。
交友関係。
前世では、自分に使われることなどなかった言葉だ。
カイは深く考えていないのか、メニューを見ながら、
「俺より友達増えたりして」
「それはないです」
「即答すんな」
「カイの知り合い多すぎるからです」
「まあな」
なぜか誇らしげだった。
その夜。
安宿へ戻った悠斗は、シャワーを浴びたあとベッドへ座り、スマートフォンを開いた。
蓮から新しいメッセージが届いている。
『そういや情報詳しい奴いる』
『アキラが前に言ってた』
『こういう怪しい名前とか店とか調べるの好きな奴』
続けて連絡先が送られてきた。
『雨宮ナナ』
『勝手に渡すのもあれだから、向こうには悠斗から連絡来るかもって伝えてる』
悠斗は画面を見つめた。
知らない女性。
それだけで少し緊張する。
しかも自分から連絡するとなれば、なおさらだった。
数十秒迷い、結局メッセージを打つ。
『突然すみません。神谷悠斗といいます』
送信。
すぐには既読がつかなかった。
悠斗はスマートフォンを置こうとする。
その瞬間、画面が光った。
『知ってる』
「え」
『アキラから聞いた』
『最近、変な仕事引いてる新人でしょ』
「……どういう紹介されてるんだろう」
思わず声が漏れる。
『今日もEMBERの名前使ってる奴に引っかかりかけたんだって?』
『引っかかってはないです』
『そこ大事?』
『大事です』
少し間が空いたあと、笑っている猫のスタンプが届いた。
『じゃあ次から怪しい名前とか場所あったら送って』
『分かる範囲なら見る』
『無料でいいんですか?』
『面白そうなら』
悠斗は返事に困った。
『面白くなかったら?』
『既読無視』
「怖いな……」
けれど、そのやり取りには嫌な圧迫感がなかった。
『今日はありがとうございました』
『まだ何もしてないけど』
『連絡先教えてもらえたので』
送ってから、少し恥ずかしくなる。
重かっただろうか。
だがナナから返ってきたのは、猫が虫眼鏡を持っている妙なスタンプだった。
『じゃ、今後よろしく』
悠斗も短く、
『よろしくお願いします』
と返した。
通話履歴には、今日初めて自分からかけた知らない男の番号。
メッセージには蓮。
連絡先にはカイ、アリサ、ハルト、そして新しく加わった雨宮ナナの名前。
レイヴンシティへ来て、およそ一か月。
悠斗のスマートフォンには、もう「誰もいない」とは言えないだけの名前が並び始めていた。
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