第1章 第16話 名前を知らなかった男
それから数日、悠斗の生活は大きく変わらないようで、少しずつ形を変えていた。
昼はタクシー会社へ出勤し、客を乗せてレイヴンシティを走る。仕事が終わればカイの整備工場へ顔を出すこともあり、蓮から運転の練習に誘われることもあった。
アキラとは何度かメッセージを交わし、シオンからは一度だけ、
『昨日はどうも』
という短い連絡が届いた。
悠斗が、
『こちらこそありがとうございました』
と返すと、
『敬語じゃなくていい』
と返ってきたので、
『まだ無理です』
と送った。
それきり返信はなかった。
嫌われたのかと少し気になったが、翌日アキラから「シオン、お前の返信見てちょっと笑ってたぞ」と教えられたので、たぶん問題はない。
レイヴンシティへ来たばかりの頃、スマートフォンの連絡先にはほとんど何も入っていなかった。
今は着信音が鳴ると、怖さより先に「誰だろう」と思うことが増えている。
その日の午後も、中央地区から南部へ向かう客を降ろしたあと、会社指定の待機場所へタクシーを停めてスマートフォンを確認した。
アキラからだった。
『今日の夜空いてる?』
悠斗は画面を見て、少しだけ笑った。
『内容によります』
すぐに既読がつく。
『警戒心育ちすぎだろ』
『前に隠されてたので』
『ああ、盗難車の件か』
『今日は受け渡しの立ち会い』
『俺とシオンもいる』
『運転手じゃない』
悠斗は少し考えてから返信する。
『何を受け渡すんですか』
『車の部品』
『合法ですか』
『物自体は』
「物自体は……」
嫌な言い方だった。
『場所は?』
『南部の倉庫街』
『報酬は四百』
以前の悠斗なら、危ない仕事だと分かっていても、裏側へ近づけるというだけで興味が勝っていたかもしれない。
今は違う。
『警察が来る可能性は?』
『低い。でもゼロじゃない』
『相手は?』
『知り合い経由の仲介人。俺も直接会うのは初めて』
そこまで確認してから、ようやく返した。
『行きます』
◇
午後十時前。
南部の倉庫街は、昼間とは別の場所のように静かだった。
大通りを一本外れるだけで店舗の明かりは減り、フェンスで囲まれた資材置き場や閉じたシャッターが続く。遠くを貨物列車が通るたび、車輪とレールが擦れる低い音が夜気に響いた。
指定されたコンビニの駐車場へ着くと、見覚えのある青いクーペが停まっている。
「……蓮?」
運転席の窓が下がった。
「お、来た」
「何でいるの?」
「アキラに呼ばれた」
「俺もです」
「じゃあ一緒だな」
助手席からアキラが顔を出す。
「揃ったなら行くぞ」
「シオンさんは?」
「向こう」
悠斗が後部座席へ乗り込むと、蓮が車を発進させた。
「今日は俺が運転な」
「分かってます」
「練習したからって運転したくなってない?」
「仕事中に試したくないです」
「正解」
アキラが笑った。
青いクーペは倉庫街の奥へ入り、古い自動車部品会社の裏手で停まった。
敷地には灰色のバンが一台。
その横にシオンが立っている。
さらに少し離れた位置には、黒い大型SUVが二台並んでいた。
悠斗は、その二台を見た瞬間に妙な既視感を覚えた。
以前、タクシーで客を降ろした高級ホテルの前。
あの時も、似たような黒い車が何台か停まっていた気がする。
「相手、もういるみたいだな」
蓮が呟いた。
四人で車を降りる。
アキラがシオンへ近づく。
「どう?」
「今のところ問題ない」
「相手は?」
「中」
倉庫脇の小さな事務所を指した。
悠斗は三人の少し後ろを歩いた。
古い鉄扉を開ける。
中には簡素な机と椅子、壁際には段ボール箱が積まれている。
その奥に三人の男がいた。
中央にいた男を見た瞬間、悠斗の足が止まった。
「……あ」
黒いシャツ。
落ち着いた目。
以前より少しラフな格好をしているが、見間違えるはずがない。
タクシーを始めて間もない頃、自分を客として乗せた男。
『速いだけじゃ駄目だ』
『帰ってこれる奴が上手い』
そう言い、多めのチップを置いていった人物だった。
男も悠斗に気づいた。
片方の眉がわずかに上がる。
「……お前か」
「え?」
アキラが二人を見比べる。
「知り合い?」
「一度だけ、タクシーに乗せました」
「へえ」
男が低く笑った。
「まだ運転手やってんのか」
「はい」
「そうか」
それだけの会話なのに、悠斗は妙な違和感を覚えた。
アキラが普段より少しだけ静かだ。
蓮もいつもの軽い笑いを浮かべていない。
「……蓮」
悠斗は小声で呼んだ。
「何?」
「あの人、誰?」
蓮が一瞬だけ悠斗の顔を見る。
本気で知らないのか、と確かめるような目だった。
「黒瀬ジン」
「黒瀬……」
「EMBERのボス」
悠斗は息を呑んだ。
隣ではアキラまで振り返る。
「……マジで知らなかったの?」
「知らないです」
視線が自然にジンへ戻る。
第5位ギャング《EMBER》。
その名前なら、悠斗もこの街で何度か耳にしていた。
タクシーの客同士の会話。
裏仕事で顔を合わせた相手の雑談。
南部で長く生き残っているギャング。
派手な全面戦争を好まず、仲間を簡単に捨てない。
悠斗が知っているのは、その程度の噂だけだった。
そのボスが、あの時の客だった。
あの日は、少し怖い雰囲気の年上の男だと思っていただけだった。
けれど今は違う。
黒いSUV。
周囲の空気。
アキラや蓮の態度。
すべてが、あの時見えていなかったものを後から浮かび上がらせていく。
「……ボスだったんですか」
思わず口から出た。
ジンが笑う。
「今さらか」
「本当に知らなかったです」
「知らなかったから普通に喋れたんだろ」
「……たぶん」
「なら、その方がよかったじゃねえか」
確かにそうだ。
最初から正体を知っていたら、悠斗はまともに話せなかっただろう。
「で、仕事の話に戻すぞ」
ジンが机へ視線を向ける。
アキラもすぐに表情を切り替えた。
◇
今回の受け渡しは、自動車部品を別の仲介人へ渡すだけの仕事だった。
物自体に違法性はない。
ただし、金の出所や最終的にどこで使われるのかまでは誰も説明しない。
アキラが納品数を確認する。
シオンは周囲を見る。
蓮は車をすぐ動かせる位置に残している。
悠斗には、まだはっきりした役割がなかった。
言われたことを聞き、周囲を見る。
それだけだ。
だからこそ、三人が何をしているのかがよく見えた。
「一箱足りない」
アキラが突然言った。
相手側の男が眉を寄せる。
「そんなはずねえよ」
「伝票は十二。ここ十一」
「もう一回数えろ」
「数えた」
空気が少し張る。
悠斗も積まれた箱へ目を向けた。
相手側の男が不機嫌そうに何か言い返そうとする。
その時、ジンが口を開いた。
「倉庫の外見ろ」
短い一言だった。
「搬入口の横に一個置いてあったぞ」
全員の視線が外へ向く。
シオンが確認しに行き、数十秒後、一箱抱えて戻ってきた。
「これ」
アキラが小さく息を吐く。
「じゃあ十二」
相手側の男も少し気まずそうに視線を逸らした。
ジンは何も言わない。
責めもしない。
それでも、その場の空気は妙に落ち着いた。
悠斗はその様子を黙って見ていた。
大声を出したわけでもない。
威圧したわけでもない。
ただ、状況を見ていた。
それだけで場が締まる。
自分とはまるで違う。
やがて受け渡しは終わり、相手側の車が倉庫街を出ていった。
「終わり」
アキラが肩の力を抜く。
「何も起きなくてよかったな」
「何もない方がいい」
シオンが答えた。
「今日はそれで正解だ」
ジンも言う。
アキラがほんの少しだけ姿勢を正した。
悠斗はそれを見逃さなかった。
「おい、タクシー」
突然ジンに呼ばれる。
「俺ですか?」
「他に誰がいる」
ジンが顎で外を示した。
「ちょっと来い」
◇
倉庫の外へ出ると、夜風に油と鉄の匂いが混じっていた。
遠くでは大型トラックが低い音を立てて走っている。
ジンは黒いSUVの横へ立つ。
「お前、最近この辺で走ってるだろ」
悠斗の肩がわずかに強張った。
「……少しだけです」
「若い新人が盗難車で警察に追われたって話も聞いた」
「それ、俺だって分かってるんですか?」
「後から繋がっただけだ」
ジンは肩をすくめる。
「新人が無茶な仕事振られて、それでも逃げ切ったって話は、この辺じゃちょっとした酒のつまみになる」
「全然嬉しくないです」
「だろうな」
ジンが笑う。
「で?」
「はい?」
「まだ続けんのか」
悠斗は少しだけ考えた。
「……続けます」
「怖くなかったか?」
「怖かったです」
「ならまだマシだ」
即答だった。
悠斗は少し目を見開く。
ジンは道路の方を見ながら続ける。
「怖ぇなら、その怖さを使え。確認しろ。逃げ道考えろ。相手見ろ。怖がるのがダサいと思い始めたら終わりだ」
以前聞いた言葉より、ずっと具体的だった。
悠斗は黙って頷く。
「あと一個」
「はい」
「仕事より先に、誰の仕事か見ろ」
「誰の?」
「報酬同じでも、人が違えば中身は別物だ」
ジンが悠斗を見る。
「失敗した時に一緒にケツ持つ奴もいりゃ、全部お前に押しつける奴もいる」
悠斗はユウジの顔を思い浮かべた。
「ユウジって人は……」
ジンの目が少し細くなる。
「お前、あいつから受けてんのか」
「何回か」
「仕事は持ってくる」
ジンは少し間を置いた。
「でも、面倒まで引き取ってくれる奴じゃねえ」
それ以上は言わなかった。
悪人だとも、信用するなとも断定しない。
だからこそ、悠斗には重く聞こえた。
「分かりました」
「分かった顔すんな。自分で見ろ」
「……はい」
「俺の言うことだって、全部正しいと思うなよ」
その言葉は少し意外だった。
「自分で見て、決めろ。裏じゃそれできねえ奴から食われる」
悠斗は今度こそ、しっかり頷いた。
「ありがとうございます」
「礼言うほどのことじゃねえ」
「でも、前に言われたことも助かってるので」
ジンが少しだけ目を細める。
「律儀だな、お前」
「よく言われます」
「それ、裏じゃ長所にも短所にもなるぞ」
「……覚えておきます」
「覚えるだけじゃなく使え」
最後まで言い方は厳しかった。
それでも嫌な感じはしない。
事務所の方からアキラの声が聞こえた。
「悠斗ー! 帰るぞ!」
以前なら、誰かに名前を呼ばれただけで身体が固くなっていた。
今は自然に振り返る。
「はい!」
返事をしてから、悠斗はもう一度ジンを見る。
「それじゃ」
「おう」
悠斗が蓮たちの方へ戻る。
「何話してた?」
蓮が聞く。
「注意されました」
「ジンさんに?」
「はい」
「お前、すげえな」
「怒られただけなんですけど」
「普通は怒られる距離にもいねえんだよ」
その一言で、ようやく少し実感が湧いた。
あの日タクシーに乗せた、名前すら知らなかった男。
その正体は、EMBERのボスだった。
しかも自分は、その男に顔を覚えられている。
蓮が青いクーペのロックを解除する。
悠斗が後部座席へ乗ろうとした時、背後から声が飛んだ。
「神谷!」
振り返る。
ジンが少し離れた場所からこちらを見ていた。
「次に会う時まで、生きてろよ」
一瞬だけ、その言葉の意味を考える。
この街では、それが冗談ではないことを悠斗はもう知っている。
「……はい」
青いクーペが倉庫街を離れていく。
バックミラーの中で、黒いSUVとジンの姿が少しずつ小さくなる。
悠斗は窓の外へ視線を戻した。
それでも、最後に言われた言葉だけは、走り出した車の中でもしばらく耳に残っていた。
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