第5章 第156話 新しい相棒
話がまとまると、老人は居間の棚から車両関係の書類をまとめて持ってきた。
長く使われてきた車検証入れをテーブルへ置き、中身を確認しながらシオンへ差し出す。
「名義を変えるのに必要なものは入ってる」
「分かりました」
シオンは受け取り、テーブルの端へ置いた。
そのあと、決まった金額を老人の口座へ振り込む。
老人は入金を確認すると、今度は一本の鍵をテーブルの上へ置いた。
金属部分には細かな傷が入り、使い込まれた黒いキーホルダーが付いている。
「これも?」
「ああ。ずっと付けてたやつだ」
シオンはすぐには手を伸ばさなかった。
一度だけ老人を見てから、鍵を取る。
「もらいます」
「そうしろ」
掌の中に収まった鍵を、シオンはしばらく眺めていた。
新しい車の鍵というより、老人が長い間持ち歩いてきたものまで一緒に受け取ったような感覚だった。
「じゃあ、外行くか」
老人が立ち上がる。
◇
午後の日差しが車庫へ斜めに入り、黒いレンジャーの傷を浮かび上がらせていた。
シオンは鍵を持ったまま運転席へ向かう。
「待て」
老人が呼び止めた。
「最初だけ俺も乗る」
「足、大丈夫?」
「少しくらいならな。長く乗ると響くってだけだ」
右足を軽く叩いてから、老人は助手席へ回った。
乗り込む時には少し足を庇っていたが、慣れた手つきでドアを閉める。
シオンも運転席へ座った。
視点が高い。
内装は最近の車と比べれば無骨で、スイッチ類も大きい。ダッシュボードやステアリングには長年使われてきた跡が残っている。
「鍵回せ」
「うん」
「一気に回すな。そこで一回止めろ」
シオンが言われた通りに手を止める。
「よし。回せ」
さらに捻ると、エンジンが低い音を立てて始動した。
シートを通して細かな振動が身体へ伝わる。
シオンの口元が僅かに緩んだ。
「そんなに嬉しいか」
「うん」
「分かりやすいな」
老人も笑う。
「クラッチは深めだ。ハンドルも重い。ブレーキも早めに踏め」
「分かった」
「ゆっくり出せよ」
レンジャーが車庫からゆっくり動き出した。
敷地内を低速で一周し、シオンはハンドルやブレーキの感触を確かめていく。
「重い」
「だろ?」
「かっこいい」
「そこに戻るのかよ」
老人が笑った。
一度停車すると、老人はゆっくり助手席から降りる。
地面へ右足をつけた瞬間、少しだけ顔をしかめた。
「やっぱり、もう長くは乗れんな」
シオンは運転席から老人を見る。
「ちゃんと乗ります」
「飾り物にするなよ」
「うん」
「こいつは走ってる方がいい」
老人がボンネットを軽く叩く。
その音を聞きながら、シオンも頷いた。
◇
「で、このあとどうする?」
少し離れたところにいたアキラが聞いた。
シオンは迷わなかった。
「カイのところ行く」
「整備?」
「うん。任せる」
ソウがレンジャーへ目を向ける。
「俺が見た限り、タイヤとゴム類、ブッシュは先にやった方がいい。油脂類も一回全部見直した方がいいな」
「カイに頼む」
「まあ、個人の車ならそれでいい」
そこでシオンは、老人から受け取った書類を持ち上げた。
「名義変更もお願いする」
アキラが笑う。
「そこもカイ?」
「うん」
「車にはめちゃくちゃこだわるのに、事務は全部任せるんだな」
「分からないから」
「潔いな」
ソウはそれを聞いてから、少しだけ声を改めた。
「ただし」
シオンが見る。
「整備を他に任せるのは構わない。でもNOXで使う前に、一回俺に見せろ」
「何で?」
「仕事に使う車なら、こっちでも状態を把握しとく必要がある」
シオンはすぐに頷いた。
「分かった」
「あと、ロゴ入れるならそれも勝手にやるなよ」
「うん」
「そこはカナメさんにも確認だ」
「分かった」
老人が三人のやり取りを聞きながら、少しだけ首を傾げていたが、余計なことは聞かなかった。
シオンも説明しなかった。
「じゃあ行く」
運転席へ戻る前に、シオンは老人を見る。
「また来ます」
「ああ」
「車も連れてきます」
老人は一瞬だけ黙った。
それからレンジャーを見て、ゆっくり頷く。
「そうしてくれ」
◇
ソウのSUVを先頭に、レンジャー、プラントSの順で道路へ出た。
三台の小さな車列が住宅地を抜けていく。
シオンは両手で重いハンドルを握っていた。
道路の継ぎ目を越えるたびに車体が揺れ、幌の後ろから低い軋みが聞こえる。
加速も速くない。
カーブでは大きな車体がゆっくり傾く。
それでも、シオンは楽しそうだった。
赤信号で停まると、隣の車線へ古いクーペが並んだ。
運転していた若い男がレンジャーを二度見し、窓を下げる。
「それレンジャー?」
シオンも窓を開けた。
「うん」
「珍しいな。元軍用?」
「うん」
「すげえ傷だな」
「かっこいい」
男が一瞬黙ってから笑った。
「そこ気に入ってんのか」
「うん」
信号が青に変わる。
後ろから短くクラクションを鳴らされ、男は片手を上げて走り去った。
◇
三台が向かったのは、カイが働いている整備工場だった。
敷地へ入ると、奥で作業していたカイが顔を上げる。
レンジャーを見た瞬間、工具を置いてこちらへ歩いてきた。
「何だこれ」
「買った」
運転席から降りたシオンが答える。
「お前が?」
「うん」
カイはレンジャーを一周する。
「四ドア、幌付き、黒……お前が探してたやつじゃん」
「見つけた」
「いや、見りゃ分かるけど」
右前フェンダーの長い傷で足が止まる。
「外装は?」
「そのまま」
「ここも?」
「そのまま」
「塗装剥げてんぞ」
「かっこいい」
カイがシオンを見る。
「……まあ、お前がいいならいいけど」
今度はソウが車の状態を簡単に伝える。
「タイヤ、ブッシュ、ゴム類。あと油脂類一式。俺が見た感じ致命的なのはない」
「了解。こっちでも全部見る」
シオンは車両書類も差し出した。
「これもお願い」
カイが受け取る。
「名義変更?」
「うん」
「分かった。手続き終わったら、前の持ち主にも変更通知が届く」
「お願い」
「はいよ」
カイは書類を脇へ置き、もう一度レンジャーを見る。
「で、いつまでに欲しい?」
「早く」
「それ期限じゃねえよ」
アキラが笑った。
「たぶん明日って言いたいんじゃない?」
「明日」
「無理」
「何で?」
「部品が全部あると思うな」
シオンの表情が僅かに曇る。
カイはそれを見て笑った。
「ちゃんと直してから乗れ。せっかく気に入ったんだろ」
「うん」
「じゃあ待て」
「……分かった」
ソウも横から付け加える。
「終わったら俺にも見せろよ」
「うん」
カイがレンジャーを工場の奥へ動かしていく。
シオンはその後ろ姿をじっと見送った。
アキラが隣へ来る。
「帰りどうする?」
「乗せて」
「即答だな」
「お願い」
「今日は素直じゃん」
「車ないから」
「はいはい」
アキラがプラントSの鍵を取り出す。
シオンは助手席へ向かう前に、もう一度だけ工場の奥を振り返った。
傷だらけの黒いレンジャーが、リフトの前で止まっている。
まだ整備も、名義変更も終わっていない。
それでも、もう探している車ではなかった。
これから自分が乗る相棒だった。
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