第5章 第142話 店員から客へ
NOXの仕事を終えたあと、ナナはそのまま家へ帰らなかった。
拠点の駐車場で悠斗たちと別れ、黒い《アルディス・セブンⅡ》のエンジンをかける。
昼間の熱気はすっかり薄れ、街には夜の灯りが増え始めていた。飲食店の看板が点き、帰宅途中の車が交差点で列を作っている。
ナナが向かっているのは《ブルームーン》だった。
いつもなら、これから働きに向かうこともある時間だ。
今日は違う。
赤信号で止まり、ナナはハンドルへ添えた手を少しだけ握り直した。
その時、昼間にNOXの拠点でカナメから言われたことを思い出した。
◇
『外で表の仕事をしてる奴はいるか?』
午前中。
NOXの規則について説明を受けていた時、カナメが五人へそう尋ねた。
ナナは少し迷ってから手を挙げた。
『私、バーでバイトしてます』
『どこだ?』
『ブルームーンです』
店の名前を聞いた瞬間、カナメはすぐに分かったようだった。
『南雲の店か』
『はい』
『NOXの傘下じゃないな』
『違います』
『なら辞めろ』
『……え?』
あまりにも即答だったので、ナナは思わず聞き返した。
カナメは表情を変えない。
『NOXに入った以上、表で働くなら傘下の仕事だけだ。外の店に籍を置いたまま、こっちの都合で呼び出すわけにもいかない』
『ああ……』
『それに、構成員が働いてるとなれば、店までNOXと一体だと見られることがある。本人だけの問題じゃない』
ナナはそこでようやく意味を理解した。
『じゃあ、ブルームーンは……』
『辞めてもらう』
『……分かりました』
少し寂しいとは思った。
けれど、NOXへ入ると決めたのは自分たちだ。
好きな部分だけ受け入れて、都合の悪い規則だけ無視するつもりはなかった。
◇
信号が青へ変わった。
ナナはセブンⅡを発進させる。
ブルームーンを辞めること自体は、もう決まっている。
今からしに行くのは相談ではない。
報告だ。
◇
ブルームーンへ着いたのは午後八時を少し回った頃だった。
店内からは柔らかな音楽が漏れ、窓越しにいくつもの人影が見える。
仕事帰りらしい客。
カウンターで一人飲んでいる男。
奥のテーブルには、何度か見たことのある常連客もいた。
駐車スペースには高級車もあれば、年季の入った普通のセダンも停まっている。
ナナはセブンⅡを停め、ヘルメットを外した。
今日は勤務ではない。
私服のまま扉を開けると、聞き慣れたベルが鳴った。
「いらっしゃ――って、ナナ?」
カウンターの向こうにいたスタッフが途中で言葉を変える。
「こんばんは」
「今日シフトじゃないよね?」
「うん。今日はちょっとレイさんに用事があって」
その声に気づいたのか、奥の席から片手が上がった。
「お、ナナちゃん」
振り向く。
一年以上ここへ通っている中年の常連客だった。
「こんばんは」
「今日は休みじゃなかったか?」
「うん。休みだよ」
「じゃあ飲みに来たのか?」
ナナは一瞬だけ言葉を選んだ。
まだレイにも何も伝えていない。
「まあ……今日はちょっと用事があって」
「そうか。じゃあ、また今度シフト入ってる時に頼むわ」
「……うん」
ほんの少しだけ返事が遅れる。
「まあ、またね」
「おう」
常連客は特に気づいた様子もなく、隣の客との会話へ戻っていった。
ナナはその背中を一瞬だけ見てから、店内を見回した。
南雲レイはちょうどテーブル席の客と話を終えたところだった。
いつもの洒落たスーツにハット。
客へ軽く手を上げて別れたところで、ナナに気づく。
「珍しいな。今日は休みだろ?」
「うん。ちょっと話があって」
レイはナナの顔を見る。
「分かった。少し待て」
近くのスタッフへ短く声をかけると、店の奥へ顎をしゃくった。
◇
バックヤードの休憩スペースには、小さなテーブルと椅子が置かれている。
壁際のハンガーには、店で使う黒いベストやネクタイが掛かっていた。
何度もここで着替えた。
見慣れたはずなのに、今日は少しだけ違って見える。
向かいに座ったレイが口を開いた。
「それで?」
「……私たち、NOXに入った」
レイの表情が止まった。
一瞬だけだった。
「五人とも?」
「うん。悠斗も、蓮も、シオンも、アキラも」
「いつから?」
「今日から」
レイは椅子の背へ身体を預け、少し黙った。
「そうか」
やがて、ゆっくり頷く。
「ついに入ったんだな」
ナナも小さく頷いた。
「うん」
「ジンには話したのか?」
「悠斗たちが昨日話しに行ったよ。ジンさんも背中押してくれたって」
「なら、ちゃんと考えて決めたわけか」
「うん」
そこまで聞くと、レイはナナを見た。
「じゃあ、ここのバイトは辞めないとな」
ナナは一拍遅れて頷く。
「……うん」
「昼間、NOXでも言われたか?」
「言われた。傘下の表仕事以外は駄目だって」
「やっぱりな」
レイは特に驚かなかった。
「NOXはその辺きっちりしてるからな」
「レイさん、知ってたんだ」
「何年この街にいると思ってる」
「まだ若いじゃん」
「年齢の話じゃない」
思わずナナが笑う。
レイも少し笑ったあと、話を戻した。
「ここはNOXの傘下じゃない。だから、そのルールなら辞めるしかない」
「うん」
「嫌か?」
ナナは少しだけ考えた。
「……ちょっと寂しい」
素直に答える。
「ここ、かなり好きだったから」
「そうか」
レイはしばらくナナを見た。
「一年ちょっとか」
「うん。それくらい」
「長かったような、短かったような感じだな」
「最初の頃、私そんなに使えなかった?」
「使えなかったとは言ってない」
「今の言い方、絶対そうでしょ」
レイは笑う。
「最初は注文取りながら、客の話の方ばっか気にしてただろ」
「情報収集」
「仕事中だ」
「ちゃんと注文も取ってたし」
「たまに聞き返してた」
「……たまにね」
ナナは少し気まずそうに視線を逸らした。
レイはその反応を見て、今度は静かに続けた。
「でも、よく働いてくれたよ」
ナナが顔を上げる。
「客の顔もすぐ覚えたし、常連とも上手くやってた。忙しい時も逃げなかったしな」
「……急にちゃんと褒めるじゃん」
「辞めるんだから、今くらい言っとく」
「辞めにくくなるんだけど」
「もう辞めるって決まってるだろ」
「それはそうだけど」
レイは少し笑ってから、改めて言った。
「一年ちょっと、お疲れ。助かったよ」
ナナはすぐには返事をしなかった。
働き始めた頃のこと。
初めて常連客に名前を覚えてもらったこと。
忙しい日に注文を間違えたこと。
客の会話が気になって、レイに仕事へ集中しろと注意されたこと。
そんな細かな記憶が、一瞬だけ頭をよぎる。
「……うん」
ナナは少しだけ笑った。
「こっちこそ、ありがと」
そこでナナは、ふと思い出したように顔を上げた。
「あ、でも……来週、私まだ一回シフト入ってたよね?」
「ああ。入ってるな」
「どうしよう。今日で辞めるなら、代わり探さないと」
「それはこっちでやる」
「でも急だし……」
「NOXに入った以上、もう出られないんだろ?」
「うん」
「なら気にするな。一人分くらい何とかする」
ナナは申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめん」
「謝るなら、もっと早くNOXに入る予定教えとけ」
「私も昨日まで決まってなかったし!」
「なら仕方ない」
レイはあっさり言って、話を切り替えた。
「制服は?」
「家にある分、洗って持ってくる。ベストとネクタイも返す」
「分かった。次に来る時でいい」
「ちゃんと返すよ」
「分かってる」
その短いやり取りに、ナナは少しだけ笑った。
◇
話を終えて店内へ戻ると、さっきより客が増えていた。
グラスが触れる音。
料理を運ぶスタッフ。
カウンター越しの笑い声。
何度も見た光景だった。
ナナはいつもの癖で、手が足りていない席を目で追ってしまう。
「手伝うなよ」
カウンターへ戻ったレイが言った。
「まだ何もしてないけど」
「顔が働こうとしてる」
「そんな顔ある?」
「ある」
ナナは仕方なくカウンターの椅子へ座った。
「何飲む?」
「え?」
「もう店員じゃないんだろ」
レイが当たり前のように言う。
ナナは一瞬目を瞬いた。
「……切り替え早くない?」
「商売だからな」
「じゃあ、ジンジャーエール」
「金取るぞ」
「一年ちょっと働いた店員への扱い、それ?」
「もう元店員だ」
「さっきまで労ってたじゃん」
「それとこれは別」
「ケチ」
レイは呆れながら氷をグラスへ入れた。
炭酸を注ぎ、小さなライムを添える。
「ほら」
「ありがと」
「今日は奢り」
「やった」
「現金だな、お前」
ナナは笑いながらグラスを受け取り、一口飲んだ。
同じジンジャーエールなのに、カウンターの内側ではなく外側に座っているだけで少し違って感じる。
「お、ナナちゃん」
さっき声をかけてきた常連客が、こちらへ歩いてきた。
「何でそっち座ってんだ?」
ナナは手にしたグラスを見る。
「今日からお客さん」
「ん?」
「私、ブルームーンのバイト辞めることになったの」
男の顔から笑みが消えた。
「え、本当に?」
「うん」
「急だな……」
本気で残念そうな声だった。
「一年くらいいたよな?」
「一年ちょっと」
「そっか……」
男は少し困ったように頭を掻く。
「じゃあ、もう注文取りに来てくれないのか」
「それはもう無理かな」
「寂しくなるな」
そう言われると、ナナも少し照れくさくなった。
自分では普通に働いていただけのつもりだった。
けれど、こうして残念がってくれる人がいる。
「でも、ここには普通に来るよ」
「え?」
「今度からは私もお客さんだけど」
常連客は数秒きょとんとしたあと、すぐに表情を明るくした。
「なんだ。それならまた会えるじゃないか」
「うん」
「それ先に言えよ。びっくりしただろ」
「ごめん、ごめん」
「じゃあ次からは隣で飲めるな」
ナナはグラスを少し持ち上げる。
「私はこれだけどね」
「ジンジャーエールか」
「うん」
「そこは変わらないのか」
「変わらない」
男が笑い、ナナもつられて笑った。
少し離れたところでグラスを拭いていたレイが、こちらを見ている。
「ほらな」
「何が?」
「客として来ても問題ないだろ」
「……うん」
ナナはもう一度店内を見回した。
普通の会社員。
犯罪者。
レーサー。
商売人。
時には休みの日に飲みに来る警察官。
一年ちょっとの間に、ここでいろいろな人の顔と名前を覚えた。
ナナにとってブルームーンは、ただ給料をもらうための場所ではなかった。
街の噂を聞き、人を知り、自分の世界を広げてくれた場所だった。
「レイさん」
「ん?」
「本当にこれからも来ていいんだよね?」
レイが怪訝そうな顔をする。
「今さら確認するのか?」
「一応」
「元従業員が客で来るだけなら問題ない」
「そっか」
「ただし」
レイが指を一本立てる。
「店の中で揉め事は起こすな」
「私が?」
「お前だけじゃない。お前が連れてきた奴も同じだ」
「分かった」
レイは淡々と続ける。
「ギャングでも警察でも関係ない。ここでは客だ。やるなら店の外でやれ」
「レイさんらしい」
「店主だからな」
別の客から呼ばれ、レイがその場を離れようとする。
数歩進んだところで足を止めた。
「ナナ」
「ん?」
振り返ったレイが言う。
「仕事辞めても、困った時は来い」
ナナの手が止まった。
「NOXに入ったからって、今までの付き合いまで切る必要はない」
すぐには返事が出なかった。
代わりに、少しだけ頬が緩む。
「……うん」
ナナはグラスを持ち直した。
「ありがと、レイさん」
◇
三十分ほどして、ナナはブルームーンを出た。
外へ出ると、夜の空気が頬を撫でる。
セブンⅡの横まで歩き、ヘルメットを被る前に一度だけ店を振り返った。
窓の向こうでは、レイがいつものように客と話している。
さっき残念がってくれた常連客も、楽しそうにグラスを傾けていた。
次にあの扉を開ける時、自分は店員ではない。
客として入る。
少しだけ寂しい。
それでも、店の明かりが遠くなったようには感じなかった。
ナナはヘルメットを被り、セブンⅡへ跨がる。
ポケットの中には、今日渡されたNOXの無線機がある。
エンジンをかけると、低い振動が身体へ伝わった。
ナナはブルームーンの明かりを背に、夜のレイヴンシティへ走り出した。
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