第1章 第14話 仕事のあと
翌日の夕方、悠斗は中央地区のホテル前で最後の客を降ろした。
日が傾き始めた大通りには帰宅途中の車が増え、ビルの谷間を吹く風が昼間の熱を少しずつ押し流している。歩道には買い物袋を下げた人や仕事帰りの会社員が行き交い、少し離れた交差点では交通整理の警察官が笛を鳴らしていた。
悠斗は料金処理を終えると、そのまま会社指定の待機場所へ車を移した。
エンジンを切り、ようやくスマートフォンを見る。
十五分ほど前に届いていたメッセージの送り主は、水城アキラだった。
『今日の夜、暇?』
続けて、
『ちょっと運転手やってほしい』
ユウジではない。
昨夜交換したばかりの連絡先から、もう直接仕事の話が来た。
悠斗は画面を見つめたまま、少しだけ口元を引き締める。
嬉しい、という言葉だけでは違う。
自分が何かを頼まれる側になったことへの戸惑いと、頼られたことへの小さな高揚が混じっていた。
『夜なら大丈夫です。内容を教えてください』
送ると、すぐに既読がついた。
『車二台を移動させたい』
『運転手一人足りない』
それだけでは判断できない。
『盗難車ですか?』
『違う』
『警察に追われる可能性は?』
『今回はない』
『報酬は?』
『三百ドル』
前夜よりずっと低い。
逆に、それくらいの仕事ということなのだろう。
悠斗がもう一つ確認しようとしたところで、スマートフォンが着信画面へ切り替わった。
「……電話」
思わず眉を寄せる。
相手は当然アキラだ。
昨日、電話が苦手だと話したばかりなのに。
十秒ほど迷ってから、悠斗は通話ボタンを押した。
「……はい」
『出た』
「出ますよ。仕事の話なら」
『昨日より進歩してるじゃん』
「昨日会ったばかりなのに成長判定しないでください」
『細かい細かい』
電話越しに笑う声が聞こえる。
こういう相手だからこそ、悠斗も少しだけ言い返しやすい。
「それで、車二台ってどういうことですか?」
『知り合いが今日、中古車屋で二台買った』
「二台?」
『一台だけ買うつもりだったらしいんだけど、もう一台も気に入ったんだって』
「……それで両方?」
『そう』
「配送してもらえばいいんじゃないですか?」
『店の配送は明日以降。本人は今日持って帰りたい』
「なるほど」
『しかも人に運ばせるなら顔知ってる奴がいいって言うから、お前呼んだ』
そこで悠斗は少し黙った。
昨日一度一緒に仕事をしただけなのに、「顔を知っている側」へ入っている。
それはまだ少し不思議だった。
「車はちゃんと買ったものなんですよね?」
『契約済み。登録も済んでる。店の人にも夜に取りに行くって話ついてる』
「分かりました」
『慎重だなあ』
「前に盗難車に乗せられたので」
『それ聞いたら俺でも確認するわ』
アキラの声が少しだけ真面目になる。
『今回は本当に運ぶだけ。俺が助手席。持ち主がもう一台運転する』
「……やります」
『じゃあ九時に場所送る』
「電話じゃなくて?」
『メッセージで送るよ』
「そこは守るんですね」
『一応な』
通話が切れた。
悠斗はスマートフォンをしばらく見てから、肩の力を抜いた。
電話は相変わらず得意ではない。
それでも、聞きたいことを聞く前に切りたくなるほどではなくなっていた。
◇
午後九時。
南部の中古車販売店はすでに看板の照明を落としていた。
敷地を囲む金網の向こうには十数台の車が整然と並び、街灯の白い光がフロントガラスへ淡く反射している。表通りでは大型トラックが時折通り過ぎるものの、店の周囲は静かだった。
悠斗が入口付近で待っていると、黒いコンパクトカーが一台入ってくる。
助手席からアキラが降りた。
「お、ちゃんと来た」
「約束したので」
「そういうとこ真面目だよな」
運転席からも一人降りる。
黒髪。
黒いジャケット。
細身で、表情も動きも静かな青年だった。
年齢は悠斗より少し上に見える。
そして悠斗は、その腰の後ろに隠すように差された拳銃へすぐ気づいた。
呼吸がわずかに浅くなる。
配信では何度も見た。
犯罪者が銃を持っている場面も、撃ち合う場面も。
だが実際に数メートル先の人間が本物らしい拳銃を身につけているだけで、空気の重さが変わる。
もし突然抜かれても、今の自分には何もできない。
視線を止めすぎたせいか、青年がこちらを見る。
「……気になる?」
「え?」
「これ」
腰の方へわずかに顎を向けた。
「……少し」
「使う予定はない」
短い返答だった。
アキラが二人の間へ入る。
「こいつ御影シオン。今日の車の持ち主」
「御影シオン」
「神谷悠斗です」
「聞いてる」
「何をですか?」
「慎重な運転するって」
悠斗はアキラを見る。
「どういう紹介したんですか」
「ちゃんと褒めたぞ。昨日パトカー見ても焦らなかったって」
「そこまで話したんですか」
「別に秘密じゃないだろ?」
アキラは笑っている。
シオンはそんな二人を一度見てから、販売店の奥を指した。
「車、あれ」
一台は灰色のスポーツセダン。
もう一台は黒いクーペだった。
「二台とも今日買ったんですか?」
「そう」
「最初から二台買うつもりで?」
「一台」
「じゃあ、もう一台は?」
シオンは灰色の車を見る。
「気に入った」
「それだけで?」
「安かった」
理由として強いのか弱いのか分からない。
アキラが横から笑う。
「店の配送は明日になるって言われて、こいつ待てなかったんだよ」
「今日欲しかった」
「子供みたいな理由ですね」
言ってから、初対面の相手に失礼だったかと悠斗は少し焦った。
しかしシオンは怒らなかった。
「そうかも」
短く答えただけだった。
昼間のうちに契約と登録は終わっており、店側にも夜間引き取りの許可は取っているらしい。警備用の端末でアキラが店から送られてきた認証番号を入力すると、車のキー保管ボックスが開いた。
「悠斗は灰色の方」
「分かりました」
「俺は助手席」
アキラが乗り込む。
シオンは黒いクーペへ向かった。
二台だけの小さな列で販売店を出る。
◇
南部から東部へ抜ける幹線道路は、九時を過ぎてもまだ車が多かった。
配送トラック。
タクシー。
仕事帰りらしい乗用車。
悠斗は周囲の流れに合わせて走る。
「踏んでみないの?」
助手席のアキラが言った。
「人の車ですよ」
「正解」
「試したんですか?」
「何を?」
「俺が調子に乗るかどうか」
「半分」
「半分は?」
「俺が見たい」
「やりません」
即答すると、アキラが笑った。
バックミラーには、一定の距離を保って走るシオンのクーペが映っている。
「これ、速い車なんですか?」
「そこそこ。蓮なら喜びそう」
悠斗は名前に反応した。
「蓮を知ってるんですか?」
「久我蓮だろ? 知ってるよ」
「仲いいんですか?」
「仕事で何回か一緒になった程度。あいつ車の話になるとうるさいし」
「それは分かります」
自然に答えたあと、悠斗は少しだけ驚いた。
カイと知り合った時は、会話のたびに次に何を言えばいいか考えていた。
今はアキラ相手なら、そこまで構えなくても言葉が出てくる。
「なあ悠斗」
「はい?」
「お前、普段ほんとにタクシーやってんの?」
「やってます」
「昼はタクシーで、空いた時だけこういう仕事?」
「今はそんな感じです」
「変な生活だな」
「アキラさんに言われたくないです」
「お」
「何ですか?」
「もっと大人しい奴かと思ってた」
悠斗は前方を見ながら少し考えた。
「知らない人が何人もいると、今でもあんまり話せないです」
「じゃあ俺には慣れてきたってこと?」
「……たぶん」
「たぶんかよ」
アキラが笑う。
悠斗も少しだけ笑った。
信号が青へ変わり、車を発進させる。
バックミラーのシオンも続いた。
◇
目的地は東部の住宅地にある個人ガレージだった。
シャッターを開けると、中には工具棚やタイヤラックが並んでいる。車二台を収めても少し余裕があり、奥には古いバイクまで置かれていた。
悠斗が灰色のセダンを停めて降りると、シオンが三百ドル分のプリペイドカードを差し出した。
「ありがとう」
「あ、はい」
受け取る。
「また運転頼むかも」
シオンが続ける。
悠斗は少しだけ考えてから答えた。
「その時は、内容聞いてから決めます」
「それでいい」
それ以上、シオンは何も言わなかった。
アキラがスマートフォンで時間を確認する。
「腹減った」
「俺も」
シオンが短く同意した。
「じゃ、飯行こうぜ」
アキラが悠斗を見る。
「悠斗も来る?」
仕事は終わっている。
断っても問題はない。
安宿へ戻り、途中で何か買って一人で食べることもできる。
以前なら、そちらを選んでいたかもしれない。
相手の時間を邪魔したくない。
自分が混ざったら気を使わせるかもしれない。
そんな理由をいくつも並べて。
けれど今は、断る理由を探すより先に言葉が出た。
「……行きます」
「よし。何食う?」
「肉」
シオンが即答する。
「聞いてねえよ。悠斗は?」
「ハンバーガーとかなら」
「採用」
「じゃあ肉入ってる」
シオンが言う。
アキラが吹き出した。
「お前は何でも肉基準だな」
三人でガレージを出る。
アキラとシオンが店を探しながら先を歩き、悠斗は少し遅れてその後ろをついていった。
仕事はもう終わっている。
それでも、自分だけ帰る理由を探していない。
そのことに気づいた時、悠斗の口元には自然と小さな笑みが浮かんでいた。
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