第1章 第13話 新しい連絡先
午後十一時前。
昼間まで蓮と運転練習をしていた東部とは反対側、南部の工業地帯には、昼間とはまるで違う空気が漂っていた。
閉まった倉庫のシャッター。錆びた金網。大型トラックが残していった黒いタイヤ跡。古い街灯が点々と道路を照らしているものの、一本裏道へ入れば人影はほとんどない。
悠斗はユウジから指定された立体駐車場の四階へ上がり、端に停まっている黒いセダンを見つけた。
スマートフォンの画面に表示されているナンバーと一致している。
「……これか」
昼間、蓮に言われたことを思い出す。
車は何か。
誰を乗せるのか。
警察が来る可能性はあるのか。
最初の裏仕事では、何も聞かないまま渡された車に乗り込み、後になって盗難車だったと知らされた。
同じ失敗はしたくない。
悠斗はすぐに乗り込まず、フロントガラスの登録票と車載端末を確認した。
所有者名は知らない人物だった。
ユウジからは「仲間名義で、盗難車ではない」と聞いている。
本当かどうかまで確認する術はない。それでも、少なくとも何も知らずに乗るよりはましだった。
運転席へ座り、シートとミラーを合わせる。
ハンドルへ両手を置いたところで、昼間の練習を思い出した。
止まる。
曲がる。
前だけではなく、その先を見る。
自分にどれくらい余裕があるのか考える。
たった数時間練習しただけだ。
急に上手くなったわけではない。
それでも、以前よりは何を意識すればいいのか分かっている。
スマートフォンが短く震えた。
『その車で南部第七倉庫区へ』
『二人拾え』
『場所は着いたら送る』
悠斗は一度深く息を吐き、エンジンをかけた。
低い振動が車内へ広がる。
「……行こう」
黒いセダンをゆっくり発進させた。
◇
南部第七倉庫区へ近づくほど、街の明かりは減っていった。
大型商業施設や飲食店は姿を消し、代わりに物流会社、部品倉庫、資材置き場が続く。
交差点を曲がったところで、前方を二台のパトカーが横切った。
胸が跳ねる。
反射的にブレーキを踏みそうになったが、昼間の蓮の言葉を思い出して足を緩めるだけに留めた。
追われていない。
まだ何も起きていない。
悠斗は周囲の車と同じ速度で走り続けた。
パトカーは別方向へ消えていく。
少しして、ユウジから位置情報が届いた。
『次の角を左』
『二十秒で出てくる』
倉庫街の裏通りへ入り、悠斗は路肩へ車を寄せた。
エンジンは切らない。
前方も塞がない。
すぐに発進できる位置で待つ。
二十秒。
ただ待つだけの時間なのに、異様に長く感じた。
シャッターの閉まった倉庫。
積まれたパレット。
錆びたフェンス。
遠くで大型車のエンジン音が響く。
十五秒ほど経ったところで、人影が二つ飛び出してきた。
一人は明るい茶髪。
もう一人は黒いパーカー姿。
何度も後ろを確認しながら走ってくる。
「乗って!」
悠斗が声を上げた。
二人が駆け寄る。
黒いパーカーの男が後部座席へ飛び込み、茶髪の男が助手席へ滑り込んだ。
「出して!」
「はい!」
悠斗はドアが閉まるのを確認してからアクセルを踏んだ。
銃声はない。
サイレンもまだ聞こえない。
それでも後部座席の男は肩で息をしており、何度も後ろを振り返っていた。
「次、右! その先も右!」
後ろから矢継ぎ早に指示が飛ぶ。
悠斗の肩へ力が入った。
その時、助手席の男が振り返る。
「おっさん、一気に言うなって。こいつ状況知らねえだろ」
「警察来てんだぞ!」
「だから事故ったら余計終わるんだろ」
茶髪の男はそう返してから、悠斗を見た。
「運転手、名前は?」
「え?」
「呼び方。『おい』じゃ分かりにくいだろ」
「……神谷悠斗です」
「悠斗な。俺、水城アキラ。後ろはコウジ」
「よろしく」
後部座席から短い声が返った。
「とりあえず次の信号まで真っすぐ。今、後ろに警察いる?」
「いません」
「じゃあ普通に走ろう」
悠斗は少しだけ肩の力を抜いた。
「何があったんですか?」
アキラが眉を上げる。
「聞くんだ」
「警察が何を探してるか分からないと、走り方を決められないので」
一瞬だけ車内が静かになる。
やがてアキラが小さく笑った。
「思ったよりちゃんとしてるな」
「……運転は全然ですけど」
「そこは今見れば分かる」
「分かるんですか」
「ハンドル握ってる手、めちゃくちゃ固い」
言われて気づく。
確かに指へ力が入りすぎていた。
「アキラ、遊んでる場合じゃねえ」
「はいはい」
アキラの表情から笑みが少し消える。
「車一台持って出る予定だったんだけど、倉庫入ったところで警報鳴った。警備員来て、警察にも連絡入った。車にはまだ触ってない」
「顔は見られました?」
「警備員には多分。警察にはまだだと思う」
「武器は?」
「ない」
「盗った物は?」
「何も」
悠斗は前方を見たまま頷いた。
今のところ、警察に特定された車を運んでいるわけでも、車内に盗品や武器があるわけでもない。
だったら、最初から派手に逃げる必要はない。
「大通りを普通に走ります」
後部座席からすぐ声が飛ぶ。
「は? 裏道の方が――」
「今は追われてません。細い道で事故を起こしたり、警察を見て急に曲がった方が目立つと思います」
喉は少し詰まった。
それでも言い切った。
アキラが横から頷く。
「俺も悠斗に一票。まだ割れてないなら、普通の車に見える方がいい」
コウジは不満そうに息を吐いたものの、それ以上は言わなかった。
悠斗は幹線道路へ出た。
会社帰りの車。
配送トラック。
タクシー。
バイク。
その流れへ黒いセダンを混ぜる。
数分後、反対車線から一台のパトカーが近づいてきた。
心臓が強く鳴る。
以前なら、バックミラーばかり見ていたかもしれない。
悠斗は前を見る。
速度を変えない。
車線を守る。
パトカーはそのまますれ違っていった。
誰もこちらを振り返らない。
「……通ったな」
コウジが呟いた。
「はい」
悠斗が答えると、アキラが面白そうに横顔を見る。
「悠斗、こういう仕事何回目?」
「まだ、少しだけです」
「その割に自分で考えるじゃん」
褒められたのか分からず、悠斗は反射的に頭を下げかけた。
「運転中に頭下げんなって」
「あ……すみません」
「だから謝るなよ」
アキラが笑う。
「電話とかも苦手そうだな、お前」
「なんで分かるんですか」
「なんとなく」
図星すぎて何も返せなかった。
その後は大きな問題もなく東部へ抜けた。
◇
指定されたモーテルの裏手へ車を停めると、コウジはすぐ後部座席から降りた。
「助かった」
「次はもうちょい楽な仕事しろよ」
アキラが言う。
「お前も一緒だっただろ」
「俺は途中から止めた」
「途中からな」
二人のやり取りに、悠斗は思わず小さく笑った。
アキラがそれを見逃さない。
「笑うじゃん」
「……少しだけ」
「じゃあ悠斗、この番号って仕事用?」
「はい」
「今度、直接連絡していい?」
悠斗は一瞬だけ言葉に詰まった。
知らない相手から直接連絡が来ることへの抵抗は、まだ完全には消えていない。
それでも、今回は断りたいとは思わなかった。
「……大丈夫です」
「電話じゃなくてメッセージにするから安心しろ」
「そこまで分かるんですか」
「今の反応で分かった」
アキラは笑いながら連絡先を交換する。
すぐに一件、メッセージが届いた。
『水城アキラ』
表示された名前を、悠斗は数秒見つめた。
「じゃあな、悠斗」
「はい。また」
「おう。また」
アキラとコウジがモーテルの奥へ消えていく。
ほどなくして、ユウジからメッセージが届いた。
『完了確認』
『グローブボックス』
中には八百ドル分のプリペイドカードが入っていた。
悠斗はそれを財布へしまい、もう一度スマートフォンを見る。
《水城アキラ》
また一つ、知らなかった名前が連絡先に増えた。
ユウジに仕事をもらわなければ、今日出会うことのなかった人間だ。
けれど次にアキラから連絡が来る時は、もうユウジを挟まない。
悠斗はスマートフォンをポケットへ戻し、静かにエンジンをかけた。
今夜増えたのは、八百ドルだけではなかった。
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