第1章 第12話 逃げる前に覚えること
昼を少し過ぎた頃、悠斗は東部へ向かう幹線道路の脇に立っていた。
中心街から離れるにつれて高層ビルは姿を消し、代わりに低い倉庫や修理工場、中古車販売店が増えていく。照り返しの強いアスファルトの向こうには乾いた丘陵が広がり、大型トラックが通り過ぎるたび、熱気を含んだ風が悠斗の前髪を揺らした。
道路脇に停まった古い銀色のセダン。その運転席から顔を出した久我蓮が、片手を上げる。
「おーい、悠斗。こっち」
「すみません。待ちました?」
「五分くらい。俺が早く来ただけだから気にすんな」
助手席へ乗ろうとした悠斗を、蓮が顎で運転席の方へ促した。
「そっちじゃなくて、今日はお前が運転」
「……やっぱりですか」
「そのために呼んだんだけど?」
蓮は笑いながら車を降りた。
セダンは年季こそ入っているものの、車内は意外なほど綺麗だった。持ち主について尋ねると、蓮は「知り合いから借りた」とだけ答えた。詳しく聞かない方がいいのかと思ったが、少なくとも盗難車ではないらしい。
それを確認してから、悠斗は運転席へ座った。
「ちゃんと確認するようになったじゃん」
「前に確認しないで酷い目に遭ったので……」
「学習できる奴は長生きするよ」
冗談めかした口調だったが、内容は笑えない。
悠斗はシートを調整してミラーを合わせ、ゆっくり車を発進させた。
向かったのは東部の外れにある、使われなくなった広い資材置き場だった。ひび割れた舗装の上に消えかけた白線が残り、端には古いコンテナが何個か積まれている。休日なのか人影はなく、遠くの道路を走る車の音だけが聞こえていた。
「最初は止まる練習」
「止まる?」
「そう。悠斗って走る方ばっか気にしてるだろ」
蓮は助手席でシートベルトを締めながら前方を指した。
「速く走るって、アクセル踏むことじゃないから。ちゃんと止まれるか、曲がれるか、自分が今どれくらい余裕あるか分かってる方が大事」
言われた通り一定の速度まで上げ、指定された位置でブレーキを踏む。
思ったより手前で止まった。
「……早いな」
「慎重すぎ」
もう一度。
今度は踏み始めるのが遅れ、目標の線を越えた。
「今のは遅い」
「難しいですね」
「だから練習すんだよ」
蓮自身も最初から上手かったわけではないらしい。
「俺も昔、止まれると思って突っ込んだことあるからな」
「何にですか?」
「倉庫の壁」
「……大丈夫だったんですか?」
「車は全然大丈夫じゃなかった」
悠斗が思わず笑うと、蓮も肩を揺らした。
「持ち主に死ぬほど怒られた。だから覚えた。車って、失敗すると金が飛ぶ」
「命じゃなくて?」
「命も。そっちは飛んだら戻ってこない」
蓮は軽い調子のまま言ったが、その横顔には一瞬だけ真面目な色が浮かんだ。
その後は曲がる練習、狭い場所での車幅感覚、何度かの切り返しと続いた。
最初の頃なら、ハンドルを切るだけで頭の中がいっぱいになっていたはずだ。今も上手いとは到底言えない。それでも、タイヤがどこを通るのか、車体がどちらへ動こうとしているのかを考える余裕が少しだけ生まれている。
一時間ほど経つ頃には、悠斗の額に薄く汗が浮いていた。
「休憩」
蓮が言い、二人は車をコンテナの影へ停めた。
悠斗は買ってきた水を一口飲んでから、助手席の蓮を見た。
「またやります?」
「ん?」
「練習。今日だけじゃなくて」
一度口にしてから、自分でも少し驚いた。
誰かに誘われるのを待つのではなく、自分から次を頼んだ。
蓮はそんな悠斗をしばらく見てから、にやりと笑った。
「いいよ。そのうちレース出ろよ」
「まだ早いです」
「真面目だなあ」
「死にたくないので」
「それは正しい」
即答だった。
蓮は危ない運転が好きなのに、死ぬことまで楽しんでいるわけではないらしい。
そう考えているうち、悠斗は前から聞いてみたかったことを思い出した。
「蓮」
「ん?」
「もし……警察が来たら、どう逃げればいいと思います?」
口にしてから、わずかに胸がざわついた。
自分から警察からの逃げ方を尋ねている。
日本にいた頃なら想像すらしなかった会話だった。
蓮は少し考えたあと、窓の外へ視線を向ける。
「まず、無茶しないことじゃね?」
「意外です」
「俺を何だと思ってんだよ」
「かなり無茶する人」
「否定できねえ」
蓮は苦笑し、それから続けた。
「俺も最初の頃、後ろばっか気にして前の縁石に乗り上げたことあるしな。逃げたいからって焦った方が事故る」
あくまで蓮自身の経験から出た言葉らしい。
「速い奴より、帰ってこられる奴の方が結局強いよ」
悠斗は少しだけ目を見開いた。
以前、名前も知らない年上の男から聞いた言葉を思い出した。
――帰ってこれる奴が上手い。
蓮も似たことを言う。
危険なことをしている人間ほど、「どう勝つか」より「どう帰るか」を口にする。それが悠斗には少し意外だった。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
画面を見る。
ユウジからだった。
『今日空いてるか』
心臓が少しだけ強く鳴った。
最初の仕事以来、連絡が来るたびに身体が先に緊張する。
悠斗はすぐには返事をせず、続く文章を待った。
『二人送ってほしい』
『報酬八百ドル』
『仕事終わりの回収だ』
八百ドル。
最初の二千ドルより少ない。それでも普通にタクシーを走らせるより、ずっと大きな金額だった。
以前の悠斗なら、「何を運ぶのか分からない」という不安を抱えたまま、それでも金額に惹かれて返事をしていたかもしれない。
今回は指がすぐには動かなかった。
「仕事?」
横から蓮が尋ねる。
「ユウジからです」
「ああ」
「二人を迎えに行って送るって」
「たぶん、終わった奴を現場から抜く足だな」
悠斗はスマートフォンへ視線を戻した。
逃げている人間を乗せれば、自分まで追われる可能性がある。
それを確認せずに引き受ける気にはなれなかった。
『車は何ですか』
少しして返信。
『こっちで用意する。今回はちゃんとした車だ』
悠斗は思わず眉を寄せた。
『今回は?』
『前のは悪かったって』
絶対に悪いと思っていない文章だった。
それでも前回より具体的に答えてくれる。最初の仕事を最後まで終えたことで、少なくとも完全な使い捨ての新人からは一段だけ扱いが変わったのかもしれない。
『誰を乗せますか』
『二人。現地で分かる』
『警察に追われる可能性はありますか』
今度は少し間が空いた。
『ある』
誤魔化さなかった。
続けてメッセージが届く。
『嫌なら断っていい』
悠斗は画面を見つめた。
危険だと分かった。
警察に追われるかもしれない。
それでも八百ドル欲しいから、というだけではない。
怖いのに、もっと知りたいと思っている自分もいた。
犯罪者がどうやって仕事をするのか。
誰と誰が繋がっているのか。
この街の裏側が、どう動いているのか。
最初の仕事では流されるように車へ乗った。
今度は違う。
危険を聞いた上で、自分で決める。
『やります』
送信した直後、位置情報が届いた。
地図を開いた悠斗は、表示された場所を見て眉を寄せた。
「……そこか」
「どこ?」
蓮が画面を覗き込み、さっきまでの軽い表情をわずかに消した。
指定されたのは、南部の工業地帯。その中でも夜になると人通りが極端に減る一角だった。
「悠斗」
「はい」
「今夜は、さっきみたいな練習じゃ済まないかもしれないぞ」
悠斗はスマートフォンを握ったまま、静かに頷いた。
まだ運転が上手くなったわけではない。
それでも今度は、何も知らないままアクセルを踏むつもりはなかった。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




