第1章 第11話 助手席から見える景色
南部の倉庫街は、昼間と夜とで別の場所のように見えた。
昼には大型トラックと作業員が行き交うだけの広い道路沿いに、今夜は何十台もの車が集まっている。低い車高のスポーツカー、古い車体へ手を入れた改造車、悠斗では名前すら分からない高級車。白い街灯の下で磨かれたボディが光を反射し、あちこちから低い排気音が響いていた。
エンジンを吹かす音が重なるたび、空気まで細かく震える。
「すご……」
思わず漏れた声は、周囲の騒音にすぐ消えた。
「だろ?」
隣を歩いていた一ノ瀬ハルトが、自分のことを褒められたように笑った。
「ここ、まだ小さい方だけどな。もっとデカい集まりだと百台近く来る時もある」
「そんなに来て、警察に見つからないんですか?」
「見つかる時は見つかる」
「駄目じゃないですか」
「だから面白いんだって」
まるで噛み合っていない。
悠斗は苦笑しながら、改めて周囲へ目を向けた。
車の横で談笑している男たちがいる。ボンネットを開けたまま何人かでエンジンを覗き込んでいる集団もいれば、飲み物を片手に誰かの走りを語っている者もいる。
女のレーサーも珍しくない。
もっと殺伐としているものを想像していた。
実際には危険な連中も混じっているのだろうが、少なくとも今の光景だけを見れば、車好きが集まる大きなイベントにも見える。
誰かが到着すれば手を振り、久しぶりらしい相手とは笑いながら肩を叩き合う。
その光景を眺めているうちに、悠斗の胸の奥が少しだけざわついた。
形は違う。
それでも、どこか似ていた。
生前、画面越しに眺め続けていた光景に。
「悠斗」
名前を呼ばれて振り向く。
少し離れた場所で、黒いクーペにもたれていた久我蓮が片手を上げていた。
「来たんだな」
「ハルトさんに誘われて」
「俺が何回誘っても来なかったくせにな」
「一回しか誘われてません」
「回数の問題か?」
「たぶん」
蓮が笑う。
裏仕事で知り合った頃は、こうやって軽口を返すだけでも少し考えていた。今でも誰とでも同じように話せるわけではないが、少なくとも蓮やハルトを相手にする時は、言葉を探して黙り込むことが減っている。
それに気づくと、少し不思議な気分になった。
「今日、蓮も走るんですか?」
「そのために来たんだけど」
蓮は当然のように言って、愛車らしい黒いクーペの屋根を軽く叩いた。
低い車高に、太いタイヤ。見た目だけなら派手すぎないが、停まっている状態でも妙な迫力がある。
ハルトが車体を見ながら鼻で笑った。
「今日も負けた時用の言い訳考えてきた?」
「お前にだけは言われたくねえ」
「この前、俺の方が速かっただろ」
「直線だけな」
「負け惜しみじゃん」
「もう一回やるか?」
「やる?」
二人の声色が同時に変わった。
悠斗は思わず一歩引く。
「仲良いんですよね?」
「悪い」
「最高に仲悪い」
二人とも即答した。
たぶん仲がいい。
そう判断する程度には、悠斗も人と人との距離が少し分かるようになってきた。
やがて参加する車が数台ずつ移動を始めた。
今夜使われるのは、倉庫街のさらに外れにある広い私有地に近い一画らしい。完全に許可された催しではなく、悠斗が詳しい場所を尋ねるとハルトは笑って誤魔化した。
スタート地点付近へ並んだ車を囲み、人の輪ができる。
蓮の黒いクーペもその列に入った。
運転席に座った瞬間、さっきまで笑っていた蓮から表情が消える。
ハンドルへ添えた両手。
前を見る目。
姿勢そのものは大きく変わっていないのに、車内の空気だけが違って見えた。
「蓮って、こんな顔するんだ……」
「走ってる時だけな」
隣のハルトが言った。
「普段は馬鹿だけど」
少し離れている蓮には聞こえていない。
合図とともに数台のエンジン音が跳ね上がった。
車が一斉に走り出す。
悠斗の目には、それだけでも十分異常な速さだった。
先頭へ出た一台を別の車が追い、緩いカーブへ入る直前に順位が入れ替わる。蓮もその集団の中にいた。
自分が運転した時とは、まるで違う。
初めて警察に追われた夜、悠斗は後ろを気にするだけで精いっぱいだった。曲がると決めるのも遅れ、アクセルを踏みすぎて車体を膨らませ、何度も一般車にぶつかりかけた。
今、蓮の車にはそうした迷いがほとんど見えない。
速いのはもちろんだ。
けれど、それ以上に車が暴れていなかった。
「……上手い」
「蓮?」
「はい」
「まあ、あいつは速いよ」
ハルトは素直に認めたあと、少し笑った。
「でも、車が上手いって一個じゃないからな」
「一個じゃない?」
「レースが速い奴もいるし、街中を綺麗に走る奴もいる。逃げる時だけ妙に強い奴とか、何乗らせても壊さない奴とか」
そこでハルトが肩をすくめる。
「駐車だけならカイの方が蓮より信用できる」
「それ、本人に言ったら怒りません?」
「だから本人には言わない」
急に説得力がなくなった。
悠斗が笑っている間にもレースは進み、最後は蓮が先頭から少し遅れて戻ってきた。
「二位?」
「二位」
ハルトが嬉しそうに笑う。
降りてきた蓮は、それを見た瞬間に顔をしかめた。
「何でお前がそんな嬉しそうなんだよ」
「一位じゃないから」
「次お前走れ」
「いいよ」
「本当に仲悪いですね」
悠斗が言うと、今度は二人から同時に睨まれた。
そんなやり取りをしていた時だった。
少し離れた場所で、誰かが鋭く声を上げた。
「警察来た!」
空気が一瞬で変わった。
談笑していた人間が車へ戻り、開いていたボンネットが次々と閉じられる。エンジン音が一斉に重なり、さっきまでイベント会場のようだった場所から車が散り始めた。
「え」
悠斗が固まった横で、ハルトは迷う様子もなく自分の車へ走る。
「悠斗、帰りどうする?」
「え?」
「俺乗る?」
迷った。
その瞬間、蓮が助手席側のドアを開けた。
「悠斗、乗れ」
「……お願いします!」
考えるより先に体が動いた。
シートベルトを締める。蓮は悠斗が固定されたのを確認してから車を動かした。
遠くで赤と青の光が揺れている。
前の車が道路へ出て、それぞれ違う方向へ散っていく。
蓮は周囲の車を見ながら流れへ入り、必要以上に速度を上げようとはしなかった。
「もっと飛ばさないんですか?」
「事故ったらそこで終わりだろ」
短い返事だった。
悠斗は黙った。
あの夜、自分はひたすら逃げなければと思っていた。
速く。
遠くへ。
後ろから離れる。
そればかり考えていた。
けれど蓮は違う。
怖くないわけではないらしい。ハンドルを握る指には僅かに力が入っているし、信号で一度停止した時には大きく息を吐いた。
それでも判断が乱れない。
しばらく走ったところで、周囲からサイレンが聞こえなくなった。
「もう大丈夫?」
悠斗が尋ねる。
「たぶんな。絶対とは言わねえけど」
「そういう感じなんですね」
「そういう感じ」
蓮が苦笑した。
「映画みたいに毎回完璧に逃げられるなら誰も捕まらねえよ」
その言葉で、悠斗は少し肩の力が抜けた。
蓮だって万能ではない。
怖さもある。
失敗する可能性も分かっている。
それでも自分よりずっと先を走っている。
そう思った時、以前タクシーへ乗せた名も知らない男の言葉がふと蘇った。
帰ってこられる奴が上手い。
今なら、あの言葉の意味が少しだけ分かる気がした。
帰り道、倉庫街から離れた場所にあるコンビニの駐車場へ車を停めた。
ハルトからは『俺は無事』という短いメッセージが届いている。
他にも何台かは警察に止められたらしいが、詳しいことまでは分からなかった。
自分たちが逃げ終わっても、街のどこかではまだ警察とレーサーの夜が続いている。
悠斗は買ってきた炭酸飲料の缶を両手で持ちながら、黒いクーペを見た。
「蓮」
「ん?」
車にもたれて飲み物を飲んでいた蓮が顔を上げる。
頼もうと思った途端、喉が少し固くなった。
仕事を頼まれた時とは違う。
これは自分から言うことだ。
必要だからではなく、やりたいから頼む。
以前の自分なら、その違いだけで何分も迷っていた気がする。
「今度……運転、教えてもらえませんか?」
蓮が目を瞬いた。
「俺に?」
「はい。レースじゃなくて、まず普通に練習できるところで」
「普通に練習できるところ」
蓮が繰り返して笑った。
「悠斗、お前ほんと真面目だな」
「駄目ですか?」
「いや」
蓮は飲み終えた缶を軽く振った。
「いいよ」
あまりにも簡単に返ってきた。
悠斗は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく笑う。
「……ありがとうございます」
「その代わり、最初から速く走ろうとすんなよ」
「はい」
「車壊したらカイに怒られるし」
「蓮が怒られるんですか?」
「俺もお前も怒られる」
「じゃあ絶対壊せないですね」
「そこまで怖いか、カイ」
二人で笑った。
生前の悠斗なら、知らない誰かが運転する動画を見て、自分もこんなふうに走れたらと思うだけだった。
今は違う。
まだ下手だ。
何度も失敗すると思う。
それでも、自分から誰かに教えてほしいと言えた。
助手席から見ているだけだった景色へ、次は自分の手で少し近づいてみたい。
そんなことを考えながら、悠斗は夜の駐車場に停まった黒いクーペを眺めていた。
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