第5章 第139話 黒い車列の裏側
備品整理を始めてから一時間ほど経った頃、悠斗はNOXに入って最初の誤解を一つ解くことになった。
強豪ギャングの拠点だからといって、何もかも完璧に管理されているわけではない。
「これ、どこですか?」
段ボールから未開封の洗車用クロスを取り出した悠斗が尋ねると、さっきから棚の前を行き来していた若い男が自信満々に右を指した。
「洗車用品はあっち」
「そこ工具棚だぞ」
背後から別の構成員が即座に突っ込む。
「……じゃあ左」
「左は医療用品」
「お前、昨日も間違えてただろ」
アキラが笑う。
「場所変わったんだって!」
「お前が変なところに入れるから整理されたんじゃねえの?」
ナナまで追撃すると、若い男は少し考えてから頷いた。
「それは否定できない」
昨日、備品の棚を何度も間違えてカナメに怒られていた若い構成員だ。
名前は榊ユウキ。二十二歳。
加入して一年ほどになるらしい。
「新人より頼りなくない?」
「聞こえてるぞ」
「聞こえるように言ったから」
「初日から強いな、この子」
ユウキは笑いながら、結局ほかの構成員に洗車用品の棚を聞きに行った。
その背中を見ながら、悠斗も少し笑う。
昨日まで、NOXという名前はどこか遠いものだった。
街でも名の知れた大きなギャング。
構成員は全員、犯罪のプロで、拠点では常に緊張感のある話をしているようなイメージすらあった。
実際には、備品の場所を覚えられない先輩もいる。
そんな当たり前の人間臭さに触れるたび、悠斗の中にあった緊張が少しずつ薄れていった。
◇
備品整理がひと段落すると、五人は建物の裏手にある車庫へ案内された。
大きなシャッターが上がった瞬間、蓮の足が止まる。
「うわ……」
さっきまで雑用に少し退屈そうだった顔が、一瞬で変わった。
車庫の中には、黒を基調にした車が何台も並んでいた。
四ドアセダン。
スポーツクーペ。
大型SUV。
少し古いワゴンまである。
どれもNOXの車だと分かる一方で、仕上げは一台ずつ違っていた。
ボンネット中央に大きな白いNOXロゴを入れた車もあれば、リアウインドウの隅に小さくステッカーを貼っているだけの車もある。
壁際にはタイヤラック、工具箱、洗車用品、交換用の消耗品。
油とゴム、それに洗剤の匂いが混ざっていた。
「ここ掃除すんの?」
蓮の声には、嫌そうな響きより期待が混じっている。
ユウキが頷く。
「掃除もするし、午後に使う車の準備もする」
「何の仕事です?」
「人を迎えに行くだけらしいけど、詳しいのは俺じゃない」
「じゃあ誰です?」
ユウキが奥へ向かって声を張った。
「ソウさん、新人来ましたー」
黒いセダンの陰から、一人の男が顔を出す。
二十代半ばほど。短く刈った髪に、黒いワークジャケット。胸元には小さな白いNOXロゴが入っている。
「朝から聞こえてた。うるせえ新人がいるって」
視線が真っ先に蓮へ向いた。
「俺?」
「たぶんお前」
「まだそんな喋ってないですよ」
アキラとナナが揃って蓮を見る。
「何だよ」
男が笑った。
「三枝ソウ。車両周りを見てる。日常点検や管理はこっちでやる。大掛かりな修理や調整は、付き合いのある店に出すこともある」
蓮がすぐに食いつく。
「車両担当?」
「そう」
「ここにある車、全部乗ったことあります?」
「ある」
「一番速いのどれです?」
「新人が最初に聞くことじゃねえな」
そう言いながらも、ソウは少し楽しそうだった。
車好き同士には通じるものがあるらしい。
悠斗が横を見ると、蓮はもう完全に掃除のことを忘れている。
「蓮」
「分かってる。掃除だろ」
「顔が全然分かってない」
◇
掃除が始まると、五人はいつもの癖で自然と同じ場所に集まりかけた。
そこへソウが指を鳴らす。
「お前ら、五人一組で来たんだろ?」
「はい」
「だったら今日は少し散れ」
悠斗たちは顔を見合わせた。
今朝、カナメに言われたばかりだった。
五人だけで固まるな。
「久我はこっち。車好きなら、タイヤと備品の確認手伝え」
「はい」
蓮だけ返事が妙に早い。
「御影は掃除終わったらガクさんのとこ。射撃見たいってさ」
シオンが顔を上げる。
「今から?」
「掃除のあと」
「分かった」
「敬語」
「……分かりました」
ソウが吹き出した。
「もう教育されてんな」
ナナはユウキと在庫表の確認。
アキラは別の構成員と、午後に受け取る物資の準備を手伝うことになった。
そこでソウが一言付け加える。
「別に今日ついた奴が、これから先ずっと担当ってわけじゃないからな」
悠斗が顔を上げる。
「そうなんですか?」
「新人は一通り見て回る。向いてる場所なんて、やらせてみねえと分からんだろ」
「なるほど」
「まあ久我は分かりやすすぎるけど」
「車両班、空いてます?」
「気が早えよ」
蓮が真顔で聞き返し、ソウが呆れる。
そのやり取りに笑いながらも、悠斗は少し安心していた。
NOX側が最初から五人のことを全部分かっているわけではない。
自分たちも組織を知る。
組織も自分たちを見る。
そうやって少しずつ居場所が決まっていくらしい。
◇
車庫の床を掃き終えた頃、ソウが一台の黒い四ドアセダンを外へ出そうと運転席へ乗り込んだ。
リアウインドウの右下に、小さな白いNOXロゴが貼られている。
エンジンがかかり、そのまま数メートル動いたところでソウがメーターを見た。
次の瞬間、露骨に嫌そうな顔をする。
「……おい」
蓮がすぐに近づいた。
「どうしました?」
「燃料ほぼねえ」
「え?」
ソウがエンジンを切り、無線へ手を伸ばす。
「昨日このセダン使ったの誰だ」
少し間があった。
『……なんで?』
無線の向こうから、明らかに心当たりのある声が返ってくる。
ソウの眉間に皺が寄る。
「なんでじゃねえよ。満タンにして戻せって言ったよな」
『いや、ほら……帰ってきた時、店閉まってて』
「二十四時間開いてるスタンドあるだろ」
『……忘れてた』
「あとで来い」
『はい』
短いやり取りが終わる。
車庫にいた何人かが笑った。
「強豪ギャングでもガソリン入れ忘れるんだ……」
悠斗が思わず呟く。
ユウキが横から答える。
「そういうのが一番怒られる」
「犯罪より?」
「比べるなよ」
アキラが吹き出した。
ソウはため息をつきながら運転席を降りる。
「こういうのがあるから確認するんだよ」
ボンネットを開け、車体の状態も順番に見ていく。
蓮はすぐ横へついた。
「午後使うんですよね?」
「人を迎えに行くだけだけどな」
「俺らも?」
「今日は乗らない」
「残念」
「新人が初日から何でもやらせてもらえると思うな」
ソウはタイヤへ目を落とす。
悠斗も言われるまま、反対側のタイヤを確認した。
派手な作業ではない。
空気圧。
傷。
ライト。
積載物。
燃料。
一つずつ確かめていくだけだ。
「毎回ここまで見るんですか?」
悠斗が聞く。
「使う前はな」
「結構細かいですね」
「逃げる時だけ車が大事なわけじゃねえからな」
ソウはタイヤの溝を指でなぞりながら続ける。
「迎えに行く時も、荷物運ぶ時も、誰か助けに行く時も使う。途中で止まったら全部困るだろ」
その言葉に、悠斗は少しだけ目を見開いた。
生前、画面越しに何度も見たギャングの車列。
同じ方向へ何台もの車が走る姿は、それだけで格好よく見えた。
けれど、その裏には誰かが洗い、燃料を確認し、異常がないか点検する時間がある。
車列は勝手に出来上がるものではない。
「……なるほど」
「何が?」
「こういうのも含めて、ギャングなんだなって」
ソウが一瞬きょとんとしたあと、笑う。
「お前、ギャングに夢見すぎじゃね?」
「……否定できないです」
「そのうち嫌でも現実見るぞ」
横では蓮がタイヤを覗き込みながら口を挟む。
「でも車いっぱい触れるなら俺は全然いい」
「お前は本当に分かりやすいな」
◇
昼前。
悠斗が車庫から共用スペースへ戻ると、さっきまで一緒だった四人の姿は見えなかった。
蓮はまだソウのところ。
シオンはガクに連れて行かれ、ナナとアキラもそれぞれ別の作業へ移っている。
いつも視界のどこかにいた四人がいないだけで、思った以上に静かに感じた。
五人で入った。
それでも、これからずっと五人だけで動くわけではない。
むしろここから、それぞれがNOXの中でも知り合いを増やしていくのだろう。
「神谷」
声をかけられ、悠斗が振り返る。
カナメが部屋の入口に立っていた。
「来い」
「はい」
ついて行った先は、小さな事務室だった。
机の上には書類が何枚か広げられている。
カナメは椅子に座ると、一枚を悠斗の前へ滑らせた。
「当面の動きだ」
悠斗が紙へ目を落とす。
車両。
拠点。
無線。
見張り。
運搬。
同行。
日ごとに違う内容が並んでいた。
「五人まとめて入れたが、五人だけで動かすつもりはない」
「はい」
「しばらくは色々回れ。今日、誰についたかで今後が決まるわけじゃない」
悠斗は頷く。
「久我は車へ食いついてたが、それでも車しかやらせないわけじゃない。御影も撃つだけじゃない。雨宮も水城も同じだ」
「一通り経験させるってことですか?」
「ああ」
カナメは悠斗の顔を見る。
「お前もだ」
「俺も?」
「むしろお前が一番分からん」
悠斗は思わず瞬きをした。
「……分からない?」
「何が一番得意なのか、まだ見えない」
かなり率直だった。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
「運転なら久我の方が上。戦闘なら御影。交渉は水城の方が慣れてる。雨宮は情報を拾うのが上手い」
「はい」
「ただ、外の仕事で見てきた限り、最後まで周りを見てるのはお前だった」
悠斗が顔を上げる。
「だから今は一つに絞らない」
カナメは予定表を指で叩いた。
「車両も見ろ。戦闘も見ろ。交渉も、金も、情報もだ。全部できるようになれとは言わない」
少し間を置く。
「見て、自分で考えろ」
悠斗は紙へ視線を戻した。
半グレだった頃、自分が何か特別なことをしているつもりはなかった。
蓮が運転した方がいいと思えば任せた。
シオンが前へ出た方がいいなら頼った。
アキラが話した方がいい場面では任せた。
ナナが調べた方が早ければ任せた。
ただ、それだけだった。
「できますかね」
思わず漏らすと、カナメは淡々と答える。
「できるかどうかを見るのも、これからだ」
その言い方が妙に納得できた。
最初から期待されすぎるより、ずっと楽だった。
「今日は午後も雑用中心だ。変に期待するな」
「はい」
「あと、明後日。五人とも予定を空けとけ」
「何かあるんですか?」
「スーツを作りに行く」
悠斗の表情が変わった。
カナメが眉を寄せる。
「そんな嬉しいか?」
「ちょっと」
「久我みたいになってきたな」
「それは嫌かも」
「本人に言うなよ。面倒だから」
悠斗は小さく笑った。
◇
事務室を出ると、ちょうどNOX用の無線に声が入った。
『誰か車庫いる? 黒セダン一台出すぞ』
少し遅れて別の声。
『ソウいるだろ』
『さっき新人連れてたぞ』
『車好きのやつ捕まえて楽しそうにしてた』
続いて、聞き覚えのある声が割り込む。
『聞こえてるわ』
無線の向こうで笑い声が重なった。
悠斗は廊下の途中で足を止める。
知らない声ばかりだった。
昨日までなら、自分には関係のない会話だった。
今朝、無線を受け取った時も、まだ自分からそこへ入る感覚はなかった。
けれど今は、ソウがどこにいるか知っている。
悠斗は耳元の無線へ手を伸ばした。
ほんの少しだけ迷ってから、送信を入れる。
「……神谷です。ソウさんなら、さっき車庫にいました」
一瞬だけ間が空いた。
『お、新人じゃん』
別の声が続く。
『了解。ありがとな』
「はい」
それだけだった。
本当に、それだけのやり取りだった。
誰かを説得したわけでもない。
大きな仕事を任されたわけでもない。
ただ、知らない相手の会話へ自分から入っただけ。
それでも悠斗は、無線から手を離したあともしばらく口元の笑みを消せなかった。
これまで五人だけだった無線に、知らない声が増えていく。
その中へ、自分の声も少しずつ混ざり始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
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