第3章 第132話 一年
刑務所へ入ってから最初の一か月は、驚くほど時間が進まなかった。
朝は決められた時間に起こされ、点呼を受ける。食事を済ませれば作業へ向かい、休憩を挟んでまた働く。夕方には居室へ戻り、自由時間が終われば消灯。
スマートフォンはない。
車にも乗れない。
気分転換に街を走ることも、ガレージへ集まることもできない。
外にいた頃なら、何となく腹が減ったというだけで五人が集まり、そのまま夜まで一緒にいることも珍しくなかった。
今は一日のほとんどが最初から決められている。
その生活に慣れるまでが、一番長かった。
◇
三か月が過ぎる頃には、銀行強盗のあとに負った傷もほぼ治っていた。
悠斗の脇腹。
シオンの右肩。
アキラの左脚。
日常生活で気にすることはなくなり、施設側から運動を制限されることもなくなった。
そこで四人が始めたのが、自由時間の筋トレだった。
「今日もやる?」
運動スペースへ入ったところで、蓮が腕を回しながら聞く。
「やる」
シオンは短く答え、そのまま器具の方へ向かう。
「シオン、一番やる気あるよな」
アキラが笑う。
「暇だから」
「理由が現実的すぎるだろ」
刑務所の中でできることは多くない。
最初は暇潰しに近かった。
けれど何日か続けると、前より回数が増える。それが分かると、少し面白くなった。
悠斗も腕立て伏せを続けていた。
「二十七……二十八……」
「遅くない?」
横から蓮が覗き込む。
「数えるなら手伝ってよ」
「じゃあ二十九、三十」
「急に二つ増やしただろ」
「バレた?」
「バレるよ」
アキラが笑う。
シオンは少し離れたところで黙々と続けている。
何でも競争にしたがる蓮。
適当なことを言いながら結局参加するアキラ。
無言で一番真面目にやるシオン。
刑務所の中でも、四人の関係だけは変わらなかった。
◇
半年が近づく頃には、筋トレも完全に習慣になっていた。
悠斗がベンチへ腰を下ろし、汗を拭いていると、アキラが隣から腕を見てきた。
「悠斗、前より筋肉ついたんじゃね?」
「……そう?」
「ついたついた。腕とか前より太い」
悠斗は自分の腕を見る。
確かに、三か月前より少し違う。
大きく変わったわけではない。
それでも毎日のように身体を動かしていれば、それなりに変化は出る。
「蓮の方が分かりやすいけど」
「俺はちゃんと追い込んでるからな」
「俺もやってるよ」
「回数が違う」
「そこ張り合うところ?」
シオンが横から言った。
「アキラは?」
「俺は細く強くなるタイプだから」
「それ筋トレ少ない言い訳じゃね?」
「違う。方向性の問題」
「昨日途中でやめてた」
「シオン、そういうの覚えてなくていいから」
笑い声が小さく響く。
一年前なら、刑務所で筋トレをしながら仲間と笑っている自分なんて想像もしなかっただろう。
けれど今は、それすら日常になっていた。
◇
外から届く手紙は、刑務所の時間を測る目印になった。
ナナから最初に届いた手紙には、車のことが書かれていた。
ヴェローチェ。
レイザー。
プラントS。
三台ともスーパーの駐車場から回収し、それぞれの家へ戻した。
悠斗の家にはテンペストもあり、ヴェローチェと二台並んでいる。
カイが定期的に状態を見てくれる。
家賃や光熱費、ガレージ代などは玲奈と整理している。
最後には、
『帰ってきた時、家も車もなくなってたら困るでしょ』
と書かれていた。
蓮にレイザーの話をすると、食いつくのは早かった。
「カイ、ちゃんと乗ってくれてる?」
「手紙には状態見てるって」
「エンジンも?」
「そこまでは書いてない」
「今度聞いといて」
「ナナに?」
「うん」
アキラが呆れたように言う。
「お前、自分の家より車の方が心配なんだな」
「家は走らねえから」
「またそれ言ってる」
シオンは悠斗へ尋ねる。
「ナナは?」
「元気みたい」
「ならいい」
それだけ言って食事へ戻る。
悠斗は手紙を丁寧に畳んだ。
自分たちが塀の中へ入っても、外の生活まで消えたわけではない。
ナナがいる。
カイがいる。
玲奈もいる。
戻る場所を残してくれている人間がいる。
それが、思っていた以上に大きかった。
◇
七か月目。
共有スペースで、蓮の肩へ別の受刑者がぶつかった。
持っていた紙コップが床へ落ちる。
「おい」
蓮が振り返った。
相手も止まる。
「何だよ」
「ぶつかっただろ」
「だから?」
空気が少し変わった。
アキラも顔を上げる。
シオンは黙って見ていた。
悠斗は蓮へ声をかける。
「蓮」
「……分かってる」
相手が鼻で笑う。
「四人いないと何もできねえのか?」
アキラが一歩前へ出かけた。
悠斗が腕を伸ばして止める。
「いいよ」
「でもさ」
「こんなので一年無駄にしたくない」
数秒の沈黙。
蓮は床のコップを拾った。
「……だな」
相手は面白くなさそうな顔で離れていく。
離れた場所では職員が一連の様子を見ていた。
誰も手を出さなかったため、それ以上の問題にはならなかった。
「偉くなったな、俺ら」
蓮が言う。
「普通のことしただけだろ」
アキラが返す。
「昔なら?」
「知らん」
シオンが呟く。
「殴ってたかも」
三人がシオンを見る。
「お前が?」
「蓮が」
「俺かよ」
小さな笑いが起きた。
◇
八か月、九か月と過ぎる。
傷のことを意識する日はもうほとんどない。
代わりに、筋トレで筋肉痛になる日の方が増えた。
作業態度にも問題はなく、四人とも大きな規則違反を起こさない。
刑務所へ入ったばかりの頃は「新入り」と呼ばれていたが、いつの間にかそれもなくなっていた。
顔見知りの受刑者も増えた。
以前「三回目だ」と笑っていた男が、食事中に悠斗たちを見て言う。
「お前ら、ほんと問題起こさねえな」
「出たいんで」
悠斗が答える。
「みんな最初はそう言うんだよ」
アキラが横から聞く。
「じゃあ何で三回目なの?」
「お前そこ聞く?」
「気になるじゃん」
「気にすんな」
蓮が笑った。
刑務所の中にも、刑務所の中なりの日常があった。
◇
十か月目になると、仮釈放についての面談が増えた。
作業態度。
規則違反。
生活態度。
出所後の住居。
外で支えてくれる人間。
一つずつ確認される。
「神谷。今のところ記録は良好だ」
担当職員が書類を見ながら言う。
「はい」
「ただし、一年で自動的に出られるわけじゃない」
「分かってます」
「審査がある」
「はい」
分かっている。
それでも、十か月まで来れば期待しない方が難しい。
◇
十一か月目。
蓮が自由時間に突然言った。
「外出たら最初に何する?」
「肉食う」
アキラが即答する。
「早いな」
「ずっと決めてた」
シオンは少し考える。
「風呂」
「ここにもあるだろ」
「好きな時間に入りたい」
「それは分かる」
蓮は胸を張った。
「俺はレイザー」
「知ってた」
悠斗が笑う。
「悠斗は?」
聞かれて、少し考えた。
ヴェローチェに乗りたい。
ガレージへ行きたい。
ナナにも会いたい。
カイにも。
玲奈にも礼を言いたい。
街を走りたい。
「……とりあえず、みんなで飯かな」
アキラが笑う。
「じゃあ肉な」
「まだそれ言ってる」
◇
そして、入所から一年が経った。
いつも通り午前の作業を終え、悠斗が通路を歩いていた時だった。
「神谷」
職員に呼び止められる。
「はい」
「面談室へ」
胸が少し強く鳴る。
何か問題を起こした覚えはない。
小さな面談室へ入ると、担当職員が数枚の書類を手に待っていた。
「座れ」
悠斗が椅子へ腰を下ろす。
職員は記録を確認したあと、顔を上げた。
「一年経過した」
「はい」
「お前は仮釈放審査の対象になった」
分かっていた言葉なのに、実際に聞くと喉が乾いた。
「日程が決まった」
「いつですか?」
「来週だ」
机の上へ書類が置かれる。
悠斗はそこに書かれた日付を見つめた。
「久我、御影、水城も同じ時期に審査へ入る」
悠斗が顔を上げる。
「四人とも?」
「ああ」
胸の奥が少し軽くなった。
まだ出られると決まったわけではない。
一年間問題を起こさなかったからといって、必ず認められるものでもない。
「最後まで気を抜くな」
「はい」
悠斗は頷いた。
面談室を出る。
一年前。
初日の夜に四人で決めた。
一年後、全員で外へ出る。
長かった一年が、ようやく終わろうとしていた。
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