第3章 第128話 残された一人
病院の自動ドアが開くと、夜の冷たい空気がナナの頬を撫でた。
振り返れば、白く照らされた入口の脇には制服姿の警察官が立っている。
あの建物の中に悠斗がいる。
シオンとアキラもいる。
蓮だけは、そのまま警察へ連れていかれた。
ほんの半日前まで五人で一緒にいたのに、今は自分だけが街の中へ放り出されたような感覚があった。
ナナは駐輪場へ向かいながら、小さく息を吐く。
「……婚約者で、妊娠中か」
自分で口にした言葉を思い返し、顔をしかめた。
最初は婚約者と名乗れば、顔くらい見せてもらえるかもしれないと思った。
それでも断られそうになって、焦った末に出たのが妊娠だった。
「我ながらすごい嘘ついたな……」
悠斗が病室で何とも言えない顔をしていたのも当然だ。
けれど、五分だけでも直接顔を見られた。
声も聞けた。
それでよかった。
少なくとも今は。
◇
駐輪場に停めていたセブンⅡの前で、ナナは足を止めた。
黒い小柄な車体は、病院の外灯を受けて静かに光っている。
買ったばかりの頃なら、見るだけで少し嬉しくなった。
今夜はそんな気分になれない。
ヘルメットを被り、エンジンをかける。
軽い振動が身体へ伝わってきた。
大通りへ出ると、レイヴンシティは何事もなかったように動いていた。
飲食店には客が入り、歩道では若者たちが笑っている。隣の車線には派手なクーペが止まり、窓を開けたまま大きな音で音楽を流していた。
遠くを救急車が走っていく。
少し遅れて、別方向へ警察車両が曲がっていった。
自分たちに何が起きても、街全体が止まるわけではない。
それが当たり前なのに、今夜は妙に不思議だった。
赤信号でセブンⅡを止めたナナは、ハンドルを握ったまま病室での会話を思い出す。
『……カバン、覚えてる?』
もちろん覚えている。
『今、アキラの家にある』
それだけだった。
悠斗はどうしてそこにあるのかを説明しなかったし、何をしてほしいとも言わなかった。
けれど、わざわざ警察官のいる病室で場所を伝えた。
それだけで十分だった。
「……分かってるよ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
信号が青へ変わった。
ナナはセブンⅡを発進させた。
◇
アキラの住む辺りまで来ると、交通量が少し減った。
古い集合住宅と小さな一戸建てが混ざる、ごく普通の住宅街だ。
仕事を終えて帰ってきたらしい人がコンビニ袋を提げて歩き、道路脇では中年の男が車から荷物を降ろしている。
ナナは少し離れたところでセブンⅡを停めた。
スタンドを出し、車体を傾ける。
「っと……」
いつもより慎重に支えた。
こんな時でも、バイクの扱いに完全に慣れたわけではない。
ヘルメットを外し、アキラの部屋へ向かう。
玄関の前まで来ると、ナナは一度だけ立ち止まった。
以前、アキラが冗談半分に教えてくれたことがある。
鍵をなくした時のために、予備を玄関の近くに隠している、と。
「……まだあるかな」
確かめると、記憶していた場所に鍵は残っていた。
「あった」
ナナはそれを使い、部屋の中へ入った。
◇
照明を点ける。
アキラらしい生活感の残った室内は、普段と何も変わっていなかった。
脱ぎっぱなしの上着。
テーブルに置かれた空のペットボトル。
椅子の背へ掛けられた服。
その中に、場違いなものが一つだけある。
ボストンバッグ。
ナナはしばらく、その場から動かなかった。
「……ほんとにある」
近づき、持ち手へ手をかける。
持ち上げた瞬間、腕へ予想以上の重さがかかった。
「重っ……」
すぐに一度下ろした。
中身を開けて確認する必要はない。
金額を数える必要もない。
悠斗が話していたカバンなら、それで十分だった。
ナナは床に置いたまま、それを見つめる。
悠斗たちは捕まった。
アキラも、怪我が治ればそれで終わりというわけではない。
今のうちに動いた方がいい。
それだけは分かっていた。
「……ほんと、面倒なもの残してくれるよね」
小さく呟いて、もう一度持ち上げる。
◇
外まで運ぶだけでも楽ではなかった。
セブンⅡのところへ戻る途中、近所の住人らしい男とすれ違う。
「重そうだな、それ」
突然声をかけられ、ナナの肩が僅かに跳ねた。
「……ちょっと荷物が多くて」
「若いからって腰やるぞ」
「あ、はい」
男はそれ以上興味を示さず、そのまま歩いていった。
ナナは数秒立ち止まり、それから小さく息を吐く。
「びっくりした……」
大事件の最中でもない。
ただ近所の人間に話しかけられただけだ。
それなのに、今はそんな何でもない出来事にまで神経が反応してしまう。
セブンⅡまで戻る。
問題はここからだった。
この重さを抱えて、普段と同じ感覚で走れるわけがない。
「……今日だけ大型の車が欲しい」
思わず愚痴が漏れた。
それでも、ここへ置いて帰るわけにはいかない。
荷物を安定させてから、ナナは慎重にセブンⅡへ跨がった。
発進してすぐ、いつもより車体の動きが重く感じられる。
交差点では早めに速度を落とし、曲がる時も普段以上に慎重になった。
止まる度に荷物の重さが気になる。
初心者の自分には、正直かなり嫌な運転だった。
「……絶対転ばない」
誰に言うでもなく呟きながら、ナナは夜の街をゆっくり進んだ。
◇
ガレージへ着いた頃には、夜もかなり深くなっていた。
五つ並んだシャッター。
端から二番目。
いつも通りの場所なのに、今夜は妙に広く見える。
シャッターを開け、中へ入る。
照明を点けると、白い蛍光灯が古びた床と長いテーブルを照らした。
六脚の椅子。
棚。
壁際の小物。
何も変わっていない。
それなのに、人がいないだけで空気まで違った。
いつもなら蓮がくだらない話を始めて、アキラが面白がって乗っかる。
シオンは興味がなければ黙っているくせに、たまに短い一言だけで全員を笑わせる。
悠斗はそんなやり取りを聞きながら笑っている。
自分も、その中にいた。
ナナはカバンを床へ置いた。
重い音が、小さくガレージ内へ響く。
「……四人とも馬鹿」
言ってから、少し考える。
「……私もか」
思わず苦笑した。
自分だって同じ計画に参加した。
一人だけ外にいたからといって、無関係になるわけではない。
椅子を引いて腰を下ろす。
静かだった。
普段なら気にも留めない蛍光灯の微かな音まで聞こえる。
ナナは向かい側の空いた椅子を見た。
帰ってきたら文句を言おうと思う。
シオンには、あんな撃たれ方をするまで残るなと言う。
アキラには、脚を撃たれてるのにまだ喋っていたことを笑ってやる。
蓮には、たぶんストラドのことで散々落ち込むだろうから、その時に少しだけからかう。
悠斗には――。
『ナナも、無茶するなよ』
病室で言われた言葉を思い出した。
「……自分が一番無茶してるじゃん」
ナナの口元が少しだけ緩んだ。
けれど、その笑みは長く続かなかった。
病院にいる三人は、怪我が治れば帰ってこられるわけではない。
蓮も同じだ。
今回の事件は、以前の逮捕とは違う。
銀行強盗をして、長い逃走の末に警察と撃ち合った。
ナナにも、それが軽く済むような話ではないことくらい分かる。
「……しばらく、一人なのかな」
声に出した瞬間、胸の奥が重くなった。
一人で街を走ることは今までもあった。
ブルームーンで働く時も、情報を集める時も、セブンⅡで出かける時も。
でも、戻れば四人がいるのと、戻っても誰もいないのとでは全然違う。
ナナはスマートフォンを取り出した。
五人のやり取りが残っている。
飯の話。
車の話。
どこへ集合するか。
くだらない冗談。
ほんの少し前まで、当たり前に続いていたものばかりだった。
指が途中で止まる。
ナナはしばらく画面を見つめたあと、スマートフォンを伏せた。
「……帰ってきたら、また五人でどっか行こう」
誰もいないガレージに声が落ちる。
今度は返事を期待しなかった。
◇
しばらくして、ナナは椅子から立ち上がった。
いつまでもここに座っているわけにはいかない。
明日になれば、病院も警察も動く。
四人がこれからどうなるのかも、少しずつ分かってくるだろう。
自分にできることが何なのかは、まだはっきりしない。
それでも、何もせず待つつもりはなかった。
照明を消す前に、もう一度ガレージを振り返る。
長いテーブル。
六脚の椅子。
いつもの場所。
「……ちゃんと帰ってきてよ」
ナナはそう呟いて、照明を消した。
シャッターを閉める。
外にはセブンⅡが待っている。
エンジンをかけると、静かな通りへ小さな排気音が響いた。
ナナはヘルメットのシールドを下ろす。
四人がいない街は、たぶん今までよりずっと広く感じる。
それでも明日になれば、また走らなければならない。
ナナはゆっくりセブンⅡを発進させた。
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