第3章 第127話 死ななかっただけ
次に悠斗が目を覚ました時、病室の窓の外はすっかり暗くなっていた。
薄いカーテンの隙間から、レイヴンシティの夜景がぼんやりと見える。室内には規則正しい電子音が響き、腕には点滴の管が繋がっていた。
身体を少し起こそうとしただけで、脇腹の奥へ鋭い痛みが走る。
「……っ」
息を止め、そのまま枕へ頭を戻した。
傷には厚く処置が施されている。痛み止めが効いているのか、耐えられないほどではない。それでも深く息を吸えば、身体の内側を引っ張られるような痛みが残っていた。
悠斗は天井を見つめる。
意識がはっきりしてくるにつれて、最後に見た光景が蘇ってきた。
倉庫。
警察。
途切れ途切れに響いていた銃声。
右肩を撃たれたシオン。
左脚から血を流して倒れたアキラ。
自分の脇腹へ走った衝撃。
「……シオン、アキラ」
思わず名前を口にする。
すぐに病室の外で人が動く気配がした。
半開きだった扉から、制服姿の警察官が顔を覗かせる。
「目が覚めましたか」
「……はい」
「医師を呼びます。そのまま横になっていてください」
「分かりました」
警察官は廊下へ戻った。
ただし、扉は閉じない。
悠斗はその隙間を見つめた。
自分がここにいるのは、ただの入院ではない。
銀行を襲った。
警察から逃げた。
最後には銃を撃ち合い、武器を置いて確保された。
治療が必要だから病院へ運ばれただけで、警察に捕まっている事実は何も変わっていない。
◇
しばらくして、白衣姿の女性が病室へ入ってきた。
二十代後半ほどに見える。落ち着いた表情のままベッド脇へ立つと、モニターと点滴を確認した。
「橘です。あなたを担当しています」
「神谷悠斗です」
「知っています」
「あ……ですよね」
橘遥はカルテへ視線を落とした。
「脇腹の銃創ですが、弾は致命的な位置を外れています。出血も止まっています。ただ、かなり血を失っています」
「……はい」
「しばらく入院が必要です。傷だけではなく、身体全体の回復を見る必要があります」
「どれくらいですか?」
「今の段階では断言できません。少なくとも、すぐに退院できる状態ではありません」
悠斗は小さく頷いた。
自分が危なかったことは分かっていた。
それでも医師からはっきり言われると、改めて身体が冷える。
「シオンとアキラは?」
橘が顔を上げた。
「肩を負傷した方は出血量がかなり多く、一時は危険な状態でした。処置は終わって、現在は安定しています」
悠斗の肩から僅かに力が抜ける。
「脚を負傷した方も出血が多かったですが、こちらも処置後は安定しています」
「二人とも……助かるんですか?」
「現時点では、命に関わる状態ではありません」
「……よかった」
心の底から息が漏れた。
橘はそんな悠斗を数秒見つめたあと、静かに言った。
「今回は助かりました」
悠斗が顔を上げる。
「でも、次も同じとは限りません」
責めるような口調ではなかった。
ただ事実を告げているだけだった。
だからこそ、その言葉は重かった。
「……はい」
「今は休んでください。話をするだけでも思っている以上に体力を使います」
橘はそう言い残し、病室を出ていった。
◇
それからしばらく経った頃だった。
廊下から何人かの話し声が聞こえてきた。
最初は気にも留めなかった。
けれど、その中に聞き覚えのある声が混じっている。
悠斗は扉へ顔を向けた。
「婚約者なんです」
ナナの声だった。
悠斗の目が少し見開かれる。
「現在は警察の管理下にあります。原則、面会は認められません」
警察官の声が返ってくる。
「分かってます。でも私、妊娠してて……。顔を見るだけでいいんです」
悠斗は一瞬、言葉を失った。
――そこまで言うのか。
婚約者も妊娠も、もちろん全部嘘だ。
面会するために、ナナが咄嗟に作った話なのだろう。
廊下には警察官がいる。
ここで変な反応をするわけにはいかない。
悠斗は何も聞かなかったことにして、そのまま天井へ視線を戻した。
廊下ではしばらくやり取りが続く。
別の警察官も加わり、何かを確認している声がした。
やがて、
「……五分だけです。こちらにも会話が聞こえる状態でお願いします」
「ありがとうございます」
そんな言葉が聞こえた。
数秒後、扉が開く。
入ってきたナナと目が合った。
「……起きてる」
「ナナ」
悠斗は思わず身体を起こしかけ、すぐ脇腹の痛みに顔をしかめた。
「動かないで」
「……うん」
もう一度枕へ身体を預ける。
ナナがベッド脇の椅子へ座った。
二人の視線が一瞬だけ重なる。
悠斗は思わず何とも言えない顔になりかけたが、すぐに表情を戻した。
今は、その嘘に合わせるしかない。
◇
ナナはいつもより髪が少し乱れていた。
普段のような明るい表情もない。
「大丈夫?」
「今は大丈夫」
「……ならいい」
悠斗はナナの顔を見てから言った。
「シオンとアキラは助かったって、先生から聞いた」
「うん」
「蓮は?」
「そのまま警察に連れていかれたって」
「……そっか」
悠斗は天井へ視線を向けた。
自分とシオンとアキラは病院。
蓮は警察。
ナナだけが外にいる。
数時間前まで五人で一緒にいたはずなのに、今は全員が別々の場所にいた。
ナナは一度視線を落とし、膝の上で手を握った。
「……ほんとに、生きててよかった」
いつものナナより、ずっと小さな声だった。
悠斗も少しだけ目を伏せる。
「……うん」
それしか返せなかった。
◇
短い沈黙が落ちる。
五分しかない。
しかも、自由に話せる場所ではない。
悠斗もナナも、それを分かっていた。
その時だった。
悠斗の頭に、一つのことが浮かぶ。
――カバン。
胸の奥が一気に冷える。
悠斗は僅かに扉へ視線を向けた。
警察官は廊下にいる。
ここで詳しく話すわけにはいかない。
「ナナ」
「ん?」
悠斗は声を落とした。
「……カバン、覚えてる?」
ナナの表情が僅かに変わる。
すぐに小さく頷いた。
「うん」
「今、アキラの家にある」
「……え?」
ナナが一瞬だけ目を見開く。
だが、それ以上は何も聞かなかった。
悠斗も何も続けない。
数秒だけ二人の視線が重なる。
どうして今、この状況で、その場所を伝えたのか。
ナナなら分かる。
やがて彼女の表情から驚きが消えた。
「……分かった」
それだけだった。
悠斗も小さく頷く。
具体的なことを口にする必要はない。
必要なことは、もう伝わった。
◇
間もなく、廊下から声が飛んできた。
「時間です」
「はい」
ナナが椅子から立ち上がった。
五分は驚くほど短かった。
そのまま扉へ向かいかけて、ナナが一度だけ振り返る。
「ちゃんと休んで」
「うん」
「無理しないで」
「分かった」
悠斗は少しだけ間を置いて、ナナを見る。
「ナナも、無茶するなよ」
ナナは一瞬だけ目を丸くした。
それから、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……うん」
短く頷いた。
それ以上は何も言わず、病室を出ていく。
警察官に付き添われ、足音が廊下の向こうへ遠ざかっていった。
静けさが戻る。
悠斗は枕へ身体を沈めた。
たった五分。
それだけ話しただけなのに、身体がひどく重い。
◇
天井を見つめる。
シオンは生きている。
アキラも生きている。
蓮も怪我はしていない。
ナナも無事だった。
四人とも、まだいる。
それだけで今は十分なはずだった。
なのに、胸の奥に残る重さは消えない。
シオンの肩から流れていた血。
アキラが倒れた瞬間。
自分の脇腹へ弾が入った時の衝撃。
あと少し位置が違っていたら。
救急が遅れていたら。
誰か一人でも、あの場でもっと血を失っていたら。
今とは違う夜になっていた。
橘の言葉が蘇る。
今回は助かった。
でも、次も同じとは限らない。
悠斗はゆっくり目を閉じた。
これから警察の取り調べがある。
その先に何が待っているのかも、まだ分からない。
けれど、今回のことを思い返しても、胸に浮かぶのは達成感ではなかった。
逃げ切れなかった悔しさでもない。
仲間が生きている。
今は、それだけだった。
自分たちは勝ったわけじゃない。
ただ、死ななかっただけだった。
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