第3章 第126話 サイレンの向こう側
脇腹を押さえていた手から、少しずつ力が抜けていく。
悠斗は閉じたシャッターの前に座り込み、浅い呼吸を繰り返していた。
銃声はもう聞こえない。
代わりに飛び交っているのは警察官たちの声と無線、それから次第に近づいてくる救急車のサイレンだった。
少し前まで、あれほど離れたかった音なのに。
今は早く来てほしいと思っている。
「……眠い」
無意識に漏らすと、少し離れたところにいる蓮がすぐこちらを向いた。
「寝るなよ」
「寝ない……」
「今の言い方、絶対寝るやつだろ」
いつもの蓮なら笑っていただろう。
けれど今は口元すら動かなかった。
手錠をかけられる前の確認を受けながらも、何度も悠斗たちの方を見ている。
悠斗も視線を動かした。
シオンはシャッターへ背中を預け、撃たれた右肩を反対の手で押さえていた。血は止まっていない。さっきより顔色も明らかに悪くなっている。
アキラは左脚を伸ばしたまま座り込んでいた。
「……寒い」
小さく呟く。
さっきまで痛みに悪態をついていたのに、今はそれすらない。
「おい」
蓮が反応した。
「寒いって大丈夫か?」
「知らねえよ……俺に聞くな」
返事はした。
けれど、声が弱い。
悠斗の胸がざわついた。
全員まだ生きている。
そう思いたかった。
だが、さっきより明らかに悪くなっている。
◇
「負傷者三名!」
警察官の声に続いて、複数の足音が近づいてきた。
救急隊員たちは搬入口へ入ると、ほとんど迷わず三人へ散った。
脇腹からの出血が続き、意識の落ちかけている悠斗の前にも一人が膝をつく。
若い女性だった。
明るい茶色の髪を後ろでまとめ、悠斗の顔を覗き込む。
「聞こえますか?」
「……はい」
「どこを撃たれました?」
「脇腹……」
「分かりました。今から診ます。眠らないでくださいね」
落ち着いた声だった。
悠斗の服を確認し、隣の隊員へ短く声をかける。
傷へ触れられた瞬間、鋭い痛みが身体を走った。
「っ……!」
「痛いですね。もう少しだけ我慢してください」
悠斗は歯を食いしばった。
それでも視線は、自分ではなく横へ向く。
シオンの周囲にも隊員が集まっている。
肩の傷を確認していた一人の表情が変わった。
「出血多い。こっち先に準備して」
短い声が飛ぶ。
別の隊員がすぐ動いた。
悠斗の喉が詰まる。
「あっち……」
「大丈夫です。ちゃんと診ています」
「肩、ずっと血が……」
「分かっています」
女性隊員は悠斗から目を逸らさず答えた。
その向こうでは、アキラを診ていた隊員も慌ただしく動いている。
「脚の出血まだ続いてる。意識確認して」
「聞こえますか?」
「……聞こえてる」
アキラの返事が聞こえた。
声を聞いただけで、悠斗は少し息を吐いた。
「二人とも……助かりますか?」
目の前の女性隊員――白鳥ユナは、処置の手を止めなかった。
「助けるために来ています」
絶対に大丈夫とは言わなかった。
その代わり、迷いもなかった。
悠斗には、その答えの方が信じられた。
◇
自分の処置が進む間にも、周囲では絶えず声が飛んでいた。
シオンは右肩の出血が思った以上にひどかったらしく、先ほどまで左手で銃を構えていたのが嘘のように大人しく処置を受けている。
顔色が悪い。
目を閉じるたび、救急隊員から声をかけられていた。
「目を開けてください」
「……開いてる」
「もう少し頑張って」
一方のアキラも、脚だから大丈夫という状態ではなかった。
血で濡れたズボンを確認した隊員たちの動きが速くなっている。
「気分悪いですか?」
「ちょっと……」
「眠らないで。こっち見てください」
悠斗はそれを見ているだけで、胸が苦しくなった。
自分も撃たれている。
それなのに、自分の傷より二人の状態の方が怖かった。
ユナが悠斗の視線に気づく。
「今は自分の呼吸だけ考えてください」
「でも……」
「ほかの人にも隊員がついています」
「……はい」
返事をした途端、視界がまた霞んだ。
「神谷さん?」
「え……」
「眠らないでください」
いつ名前を伝えたのか、一瞬分からなくなった。
警察に身元を確認された時だったかもしれない。
悠斗はぼんやりした頭で思い出そうとして、やめた。
◇
担架へ身体を移される。
脇腹が引きつれるように痛み、悠斗は思わず声を漏らした。
「っ……」
「もう少しです」
何人かの手で支えられ、どうにか横になる。
搬入口から外へ運び出された瞬間、眩しい光が目に入った。
赤と青。
警察車両の回転灯が、倉庫の壁や道路を絶えず染めている。
周辺には何台もの車両が停まり、少し離れた場所では警察官たちが慌ただしく動いていた。
その中に、ストラドも残っている。
壁際に停まったままの車体には、逃走の途中でついた傷がいくつも残っていた。
もうエンジンはかかっていない。
周囲では警察官が確認を進めている。
銀行へ向かった時には、あの車で逃げ切るつもりだった。
一度は本当に警察を振り切った。
最後まで四人を運び続けた。
「……ストラド」
悠斗が小さく呟く。
ユナが視線の先を一度確認した。
「車はあとです。今は自分のことを考えてください」
「……はい」
素直に返事をする。
もう一度見たかったが、その余裕さえなくなっていた。
◇
救急車へ運ばれる前に、悠斗は蓮を探した。
すぐに見つかった。
両手に手錠をかけられ、警察官の横に立っている。
無傷だった蓮は、病院へ運ばれる三人とは別だ。
目が合った。
蓮がこちらへ一歩出ようとして、警察官に止められた。
「……ちゃんと戻ってこいよ!」
声が飛んでくる。
悠斗は手を上げようとした。
途中で力が抜ける。
「動かなくて大丈夫です」
ユナに止められた。
それでも蓮には見えたらしい。
小さく頷くのが分かった。
少し離れた場所にはストラド。
その向こうには警察車両。
銀行から始まった逃走が、本当に終わったのだとようやく実感した。
救急車の扉が閉じた。
◇
車内が走行の振動で小さく揺れる。
「名前を確認します。神谷悠斗さんで合ってますか?」
「……はい」
「年齢は?」
「17です」
ユナの手が一瞬だけ止まった。
「17?」
「はい……」
悠斗は目を逸らした。
銀行を襲って、警察から逃げ、銃撃戦までして、脇腹を撃たれた。
その犯人が17歳。
自分でも、改めて言葉にされると異様に感じる。
ユナは何か言いたそうな表情をしたが、結局それ以上は聞かなかった。
「眠くても、もう少しだけ起きていてくださいね」
「……はい」
「ほかの二人も救急隊が対応しています」
聞いていないのに言われた。
たぶん、ずっと気にしていることが顔に出ていたのだろう。
「一緒の病院ですか?」
「状態によって決まります。でも、必要なところへちゃんと運ばれます」
「そうですか……」
白い天井を見上げる。
照明がぼやけていた。
銀行の中。
人質。
アキラの交渉。
ストラド。
追ってきたパトカー。
一度追跡を切れた時の安堵。
再び見つかった瞬間。
倉庫。
銃声。
シオンの肩。
自分の脇腹。
倒れたアキラ。
頭の中で、今日の出来事が途切れ途切れに浮かんでくる。
全部、自分たちで始めたことだった。
生前なら、こんな逃走劇を画面越しに食い入るように見ていたはずだ。
けれど今、胸にあるのは興奮ではない。
痛みと恐怖。
それから、二人が助かってほしいという気持ちだけだった。
「神谷さん」
ユナの声がする。
いつの間にか目を閉じかけていた。
「まだ寝ないでください」
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいです。目だけ開けててください」
悠斗は重いまぶたを持ち上げた。
◇
倉庫街に残った蓮は、手錠をかけられたまま救急車が現場を離れていくのを見送っていた。
悠斗を乗せた車両が先に走り出す。
そのあとも、負傷した二人を運ぶための動きが続いていた。
警察官に促されても、蓮は何度も振り返った。
ストラドが見える。
傷だらけになり、壁際へ置かれたままの車。
「……これ、返ってこねえだろうな」
今度ははっきり車へ向けて呟いた。
押収されるのか。
修理できるのか。
そもそも自分たちの手元へ戻ってくるのか。
分からない。
けれど今はどうでもよかった。
車なら、また何とかできる。
買うこともできる。
直すこともできるかもしれない。
三人は違う。
蓮は遠ざかっていく救急車の赤いランプを見つめた。
「……絶対戻ってこいよ」
今度の声は、誰にも届かなかった。
◇
悠斗が次にはっきり意識を取り戻した時、サイレンは聞こえなかった。
代わりに耳へ入ってきたのは、一定の間隔で鳴る電子音だった。
消毒薬の匂い。
白い天井。
身体を動かそうとした途端、脇腹へ重い痛みが走る。
「……ここ……」
病院。
そこまで理解するのにも少し時間がかかった。
視線だけをゆっくり動かす。
近くに誰かいる気配がした。
けれど顔を確認する前に、強い眠気がまた押し寄せてくる。
今度は、目を開けていろと言う声はなかった。
悠斗の頭に浮かんだのは、銃声ではなくガレージだった。
長い古いテーブル。
並べた椅子。
車の話をしていた蓮。
口数は少なくても同じ場所にいたシオン。
何かと喋り続けるアキラ。
そこへやってくるナナ。
何でもない時間だった。
けれど今は、その何でもない時間がひどく遠く感じる。
もう一度、五人であそこへ集まりたい。
くだらない話をして、車のことで揉めて、腹が減ったら何かを食べに行く。
そんな普通のことを、もう一度やりたかった。
その願いを最後に、悠斗は静かに目を閉じた。
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