第3章 第125話 生きて帰るために
脇腹を押さえた手が、すぐに血で濡れた。
悠斗は閉じたシャッターの前で壁へ身体を預け、浅い呼吸を繰り返していた。息を吸うたびに傷の奥が脈打ち、少し姿勢を変えるだけでも熱を持った痛みが腹の横へ広がる。
それでも座り込んでいるわけにはいかなかった。
蓮は左側の角を警戒し、アキラは右側へ拳銃を向けている。
シオンは右肩を撃たれ、拳銃を左手へ持ち替えていた。肩から腕へ血が伝っているが、視線だけは警察の動きを追い続けている。
少し前まで残っていた膠着は、もう完全に崩れていた。
警察から撃たれ、こちらも撃ち返した。
今はもう、銃撃戦だ。
「立てる?」
蓮が視線を前へ向けたまま聞いた。
「……立てる」
悠斗は壁へ手をつき、ゆっくり身体を起こした。
脇腹へ鋭い痛みが走る。
「っ……」
「無理すんな」
「でも、座ってたら見えない」
蓮は一瞬だけ悠斗へ目を向けたものの、それ以上は何も言わなかった。
左右のどちらか一方でも見落とせば、その一瞬が致命的になる。
悠斗自身にも、それくらいは分かっていた。
◇
「右」
シオンの低い声。
右側の角から警察官がわずかに姿を見せる。
すぐに銃声が響いた。
悠斗は身体を引き、アキラとシオンが短く撃ち返す。
乾いた発砲音が倉庫街に反響した。
警察官が角の裏へ消えると、また静かになる。
ほんの数秒前まで撃ち合っていたとは思えないほどの静けさだった。
だが、誰も気を抜かない。
次にどちらの角から来るのか分からない。
「当たった?」
「分からない」
シオンが短く答えた。
悠斗はそれを聞いて、わずかに息を吐く。
警察官を倒したいわけではない。
けれど向こうが撃ってくれば、こちらも何もしないわけにはいかなかった。
その考えに慣れ始めている自分が、悠斗には怖かった。
◇
耳元の無線からナナの声が入った。
『聞こえる?』
悠斗は一度呼吸を整えてから送信を入れる。
「……聞こえる」
『さっきから返事ないから心配した』
「ごめん」
『まだ倉庫街?』
「うん」
『何が起きてるの?』
悠斗は数秒黙った。
言葉にすれば、本当に後戻りできなくなるような気がした。
「……警察と撃ち合いになってる」
無線の向こうが静かになる。
『……え?』
「でも、こっちには来ないで」
『怪我してる人いる?』
悠斗はシオンを見る。
右肩の服はもうかなり赤く染まっている。
自分の脇腹も、押さえている手の隙間から血が滲み続けていた。
「……二人」
『二人!?』
「まだ動ける」
『それ大丈夫じゃないでしょ』
返す言葉がなかった。
『救急は?』
「今は無理だと思う」
この銃撃の中へ救急隊が入ってこられるはずがない。
『じゃあ、どうするの?』
悠斗は答えられなかった。
逃げ道が見つからない。
それでも、まだ武器を置く決断もできていなかった。
◇
左側から銃声が響いた。
「下がれ!」
蓮の声に、悠斗は身体を奥へ引く。
弾が壁の縁へ当たり、コンクリートの欠片が散った。
アキラが撃ち返す。
次の瞬間。
「っ……!」
アキラの身体が大きく崩れた。
「おい!」
片膝をつき、左脚を押さえる。
ズボンに赤い染みが広がっていく。
「当たった!」
「分かってる……!」
アキラは歯を食いしばりながら壁際まで身体を引いた。
「脚……最悪」
それ以上は続かなかった。
普段ならこんな時でも何か余計なことを言う男が、痛みを堪えるだけで精いっぱいになっている。
悠斗の胸の奥が冷えた。
三人。
シオン。
自分。
アキラ。
もう三人が撃たれている。
蓮だけが無傷だった。
次は――。
そこまで考えた瞬間、悠斗は頭の中から無理やり追い出した。
◇
それでも銃撃は終わらなかった。
右から数発。
しばらく静まり、今度は左。
こちらも角に人影が見えれば撃ち返す。
アキラは立てなくなったまま、壁へ背中を預けて拳銃を握っている。
シオンは右腕をほとんど使えず、左手だけで応射していた。
悠斗も一度だけ引き金を引いた。
狙いをつけたつもりだったのに、腕が震えていた。
どこへ飛んだのか分からない。
それでも撃った。
警察へ向かって。
その事実が遅れて胸へ落ちてくる。
脇腹から流れる血で服が重い。
呼吸も浅くなっていた。
視界の端が時々暗くなる。
「これ、マジで持たないぞ」
蓮が低く言った。
誰も否定しなかった。
また銃声。
搬入口の縁でコンクリートが弾ける。
悠斗は反射的に身体を縮めた。
耳鳴りが止まらない。
腹の痛みよりも、身体から少しずつ力が抜けていく感覚の方が怖かった。
「顔、やばいぞ」
「……大丈夫」
「もうそれ信用できねえよ」
蓮の声にも余裕がなかった。
悠斗は答えず、近くに残されたストラドの方角へ一瞬だけ目を向けた。
ここへ逃げ込む前、壁際へ止めたままになっている。
一度は警察を振り切るところまで運んでくれた車だ。
けれど、最後には走り続けることができなくなった。
今からあそこまで戻り、もう一度四人で逃げる。
そんなことができる状態ではない。
◇
警察側の短い無線が聞こえた。
左側の角から人影が消える。
「右」
シオンが告げる。
銃声。
蓮が撃ち返した。
悠斗も拳銃を持ち上げる。
だが、その途中で膝から力が抜けた。
「っ……」
壁へ肩をぶつけ、そのまま座り込む。
「おい!」
蓮が寄ろうとする。
「来なくていい……」
「いや、無理だろ」
脇腹を押さえた手はもう真っ赤だった。
息を吸っても、胸の奥まで入ってこない。
アキラが苦しそうに脚を押さえながら言う。
「俺……もう走れねえぞ」
シオンも一度だけ自分の右肩を見る。
「右腕も、もう厳しい」
蓮だけが立っている。
悠斗は三人を順番に見た。
まだ全員生きている。
声も聞こえる。
目も開いている。
だからこそ、今ならまだ止められる。
そう思った。
「……もういい」
「何?」
「もう、やめよう」
三人の視線が集まった。
アキラが荒い息の合間に聞く。
「投降するってこと?」
「うん」
「……捕まるぞ」
「分かってる」
怖い。
逮捕される。
銀行強盗も、逃走も、警察へ撃ち返したことも全部残る。
それでも悠斗は、シオンの血に濡れた肩と、アキラの動かなくなった脚を見た。
「でも、このまま続けたら……誰か死ぬ」
銃声の止まった倉庫街に、その言葉だけが残った。
「捕まるのも嫌だよ。でも、ここで誰かいなくなる方が……もっと嫌だ」
銀行から持ち出した金は、ここにはない。
ストラドはすぐ近くにある。
それでも今の四人には、どちらも逃げる理由にはならなかった。
シオンが先に頷いた。
「俺はいい」
アキラも息を吐く。
「……俺も。もう走れねえし」
蓮が三人を見る。
しばらく黙ってから、拳銃を握った手を少し下げた。
「……分かった」
◇
『武器を捨てろ!』
警察から再び声が飛ぶ。
悠斗は息を吸った。
「分かった!」
声を張る。
「武器を置く!」
銃声は来なかった。
代わりに、少し間を置いて警察側から命令が返ってくる。
『ゆっくり置け!』
悠斗は三人を見る。
「置こう」
最初にシオンが拳銃を床へ置いた。
アキラ。
蓮。
最後に悠斗。
指から拳銃が離れ、硬い床へ置かれる。
その瞬間、張り詰め続けていた何かまで一緒に切れた気がした。
『武器から離れろ!』
動ける範囲で距離を取る。
アキラは脚を引きずることすら難しい。
シオンも右肩を押さえている。
悠斗はもう立ち上がれなかった。
蓮だけが両手を見える位置へ上げながら、ゆっくり後ろへ下がる。
左右の角から警察官たちが姿を見せた。
まだ誰一人、銃を下げていない。
何人かが悠斗たちへ銃口を向けたまま近づき、別の警察官が床へ置かれた拳銃を確認していく。
『動くな!』
悠斗は言われるまでもなく動けなかった。
少し離れた壁際には、傷だらけになったストラドが残っている。
あれに乗って銀行へ向かった時は、こんな終わり方になるなんて考えてもいなかった。
◇
警察官たちが周囲を確認し、ようやく緊張が少しだけ緩んだ。
一人が負傷した三人を見て無線へ手をやる。
『負傷者三名。現場確保。救急入れて』
その言葉を聞いた瞬間、悠斗の肩から力が抜けた。
少し離れた場所で待機していたのだろう。
しばらくして、これまで聞こえていた警察車両とは違うサイレンが近づいてきた。
救急車。
その音が、今まで聞いたどのサイレンよりも安心できるものに思えた。
「……全員いる?」
悠斗は小さく聞いた。
「いる」
蓮がすぐ答える。
シオンも僅かに頷いた。
アキラは床へ座り込んだまま、片手だけ上げる。
「いるよ」
三人の返事を聞いて、悠斗はようやく目を閉じた。
逃げ切れなかった。
ストラドも置いたまま。
自分たちは警察に確保された。
この先どうなるのかは分からない。
それでも今だけは、それでよかった。
四人ともまだ生きている。
救急車のサイレンが、すぐ近くまで迫っていた。
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