第3章 第122話 終わらない逃走
蓮は速度を上げなかった。
前方から近づいてくる警察車両は、まだ赤色灯を点けていない。サイレンも鳴っておらず、普通に街を走っている一台にしか見えなかった。
それでも、ストラドの車内から笑い声は消えていた。
銀行から逃げたストラド。その特徴は、すでに警察内で共有されているはずだ。追跡中に後部をぶつけられ、目立つ擦り傷まで残っている。
覆面はもう外している。
だからといって、車まで別物にはならない。
「このまま行く」
蓮が前を向いたまま言った。
「うん」
悠斗も短く返す。
ここで突然加速すれば、それだけで怪しまれる。
アキラは窓の外へ顔を向け、何でもないように座っている。シオンだけが助手席から、視線を動かしすぎないように相手を確認していた。
距離が縮まる。
警察車両のフロントガラスまで見えるようになる。
悠斗はできるだけ相手を見ないようにした。
一度追跡を切った。
現金も近くにあったアキラの部屋へ置いた。
ナナも別の場所まで離れている。
あと少しで終われる。
そう思い始めていたところへ現れた一台だからこそ、嫌な緊張があった。
そして、すれ違った。
悠斗は振り返らない。
五秒ほど経つ。
「……どう?」
アキラが小さく聞いた。
シオンがミラーを見る。
「減速した」
誰も喋らなくなる。
「止まった」
さらに数秒。
「向き変えてる」
「うわ、マジかよ……」
アキラの声が沈んだ。
悠斗もミラーへ目を向ける。
遠ざかるはずだった警察車両が、道路上で向きを変えていた。
直後、屋根の上で赤と青の光が弾ける。
遅れてサイレン。
「バレた!」
「行くぞ!」
蓮がアクセルを踏み込んだ。
ストラドのエンジン音が一気に高くなり、静かだった街並みが再び後ろへ流れ始めた。
◇
「最悪だろ!」
アキラが後ろを見る。
「せっかく撒いたのに!」
「言っても変わんねえ!」
蓮は前方の交通を見ながらストラドを走らせる。
ただ、最初の追跡とは明らかに違った。
速度を上げるほど、シートの下から細かな振動が伝わってくる。
後方からも、ざりっ、ざっ、と不規則な擦過音が混じっていた。
「振動きてる」
悠斗が言う。
「分かってる」
「無理そうならすぐ言って」
「ああ」
シオンが後方を確認する。
「一台。離れない」
「そのうち増えるよな」
アキラが言った。
「多分」
一度追跡を切ったからといって、警察が銀行強盗犯を探すのをやめたわけではない。
今すれ違った警察車両も、その捜索中だったのだろう。
悠斗は無線へ手を伸ばした。
『また見つかった』
ナナの返事はすぐだった。
『……分かった。私はこのまま離れてる』
『うん。こっちには来ないで』
『何かあったら言って』
『分かった』
通信を切る。
戻ってくると言わなかったことに、少しだけ安心した。
ナナはまだセブンⅡに乗り始めたばかりだ。
今の追跡へ加わったところで、危険が増えるだけだった。
◇
ストラドが進路を変える。
一度。
少し走って、また別の通りへ。
最初の追跡を切った時と似たように何度か方向を変えるが、今度はミラーの中の赤と青がなかなか小さくならない。
「さっきなら、もうちょい離れてたよな」
アキラが言った。
「こっちがもうきつい」
蓮の声に冗談はなかった。
その直後、車体がぐらりと横へ揺れた。
「うわっ」
悠斗が前席へ手をつく。
蓮がすぐに車を戻す。
「今の何?」
「分かんねえ」
「ハンドル?」
「……さっきより変」
その一言に、悠斗の胸が冷えた。
これまで蓮はずっと、まだ走れると言っていた。
その蓮が初めて、はっきりと車の挙動がおかしいと認めた。
「事故るくらいなら止めよう」
「俺もそう思ってる」
「まだ走れる?」
「少しなら。でも長くは嫌だ」
「じゃあ止められる場所探そう」
「ああ」
悠斗はそれ以上細かく言わない。
車を一番分かっているのは蓮だ。
自分が運転の仕方まで指示する必要はなかった。
◇
進むにつれて、道路沿いの店舗が減っていった。
住宅もまばらになり、代わりに古い倉庫や資材置き場が増える。
大型車が出入りするためか、道幅だけは比較的広い。
人通りは少なかった。
「一台増えた」
シオンが言う。
アキラが振り返る。
「二台か」
サイレンが重なる。
まだ囲まれてはいない。
それでも、確実に距離は縮まっていた。
ストラドはもう、最初の追跡時ほど速度を出せない。
「このままだと追いつかれる」
シオンが言った。
「分かってる」
蓮が短く返す。
悠斗は腰元に残っている拳銃の重さを意識した。
銀行では撃たなかった。
人質も傷つけなかった。
逃走中も、必要になるまでは撃たないと決めていた。
今も変わらない。
逮捕されたいわけではない。
けれど警察へ銃を向ければ、その瞬間から相手も命を守るために撃ってくる。
自分たちにも命は一つしかない。
警察官にも同じように一つしかない。
「止まったらどうする?」
アキラが聞いた。
悠斗はすぐには答えられなかった。
逃げる。
降伏する。
銃を使う。
どれを選ぶにしても、もう軽い判断では済まない。
「まず撃たない」
悠斗が答えた。
「その後は?」
「まだ分かんない」
正直に言う。
「でも、この車で事故るまで走るのは違うと思う」
「……まあな」
アキラも頷いた。
シオンの右手が腰元へ移る。
「必要なら言って」
「まだ撃たない」
「了解」
その直後だった。
がんっ、と後ろで大きな音が鳴った。
ストラドが激しく揺れる。
「うわっ!」
「くそっ!」
蓮がハンドルを押さえる。
車が道路の中央へ寄りかけ、それからどうにか戻った。
「もう無理?」
悠斗が聞く。
「……かなりきつい」
今度は蓮も迷わなかった。
「止める」
◇
前方には低い倉庫が何棟か並んでいた。
コンクリートの壁。
古いフェンス。
壁際には使われていない資材が積まれ、その手前だけ道路脇が少し広くなっている。
「左、倉庫」
シオンが言う。
「壁使える」
悠斗も見る。
完全に開けた道路上で車を止めるよりはいい。
「そこまで行ける?」
「行く」
蓮が答えた。
ストラドの速度が落ちていく。
後ろから二台の警察車両が近づいてくる。
十数キロ。
さらに遅くなる。
最後に、後部から長い擦過音が響いた。
蓮がストラドを倉庫の壁際へ寄せる。
完全に止まった。
エンジンはまだ回っているが、車体全体が細かく震えていた。
蓮がハンドルへ手を置いたまま息を吐く。
「……ここまでだな」
その声には、いつもの軽さがなかった。
悠斗も一瞬だけ車内を見回す。
ストラド。
銀行まで四人を運び、警察に追われ、一度は追跡まで切ってくれた。
それだけでも十分すぎるほど走った。
「警察、来る」
シオンの声で意識を戻す。
悠斗は後ろを確認した。
二台の警察車両が距離を縮めている。
ここで四人が車の周りへ無防備に立てば、自分たちも警察も怖いだけだ。
「降りるなら、向こう側」
悠斗は警察と反対側を指した。
「ストラド挟もう」
「了解」
シオンがすぐに応じる。
アキラが腰元を見る。
「銃は?」
悠斗は一瞬考える。
「持って出る。でも構えない」
「分かった」
「壁まで行けそうなら、そっちへ移ろう」
シオンが倉庫を見る。
「近い」
「じゃあまず車の裏」
蓮がエンジンを切る。
途端に車内が静かになった。
残ったのは、どんどん大きくなるサイレンだけだった。
◇
四人は警察から見てストラドの反対側へ降りた。
誰も銃を構えていない。
悠斗は車体より頭を高く出さないように身を低くする。
アキラもその横へ入った。
助手席から出たシオンはすぐに倉庫側を確認する。
「壁まで近い」
蓮も車体の陰へ回り込んできた。
「ストラド、盾にするの嫌なんだけどな」
こんな状況でも、蓮らしい言葉だった。
「今だけ我慢して」
「分かってる」
ストラドの向こう側で警察車両が停止する音がした。
ドアが複数開く。
直後、鋭い声が飛んでくる。
『車から離れろ! 武器を捨てて両手を見える位置に!』
悠斗の身体が強張った。
こちらが銀行強盗犯だと、完全に判断されている。
シオンが倉庫の壁へ視線を向ける。
「移る?」
悠斗も距離を見る。
数メートル先。
コンクリートの壁まで行けば、ストラドよりもしっかり身体を隠せる。
「行こう。まだ撃たない」
「了解」
四人はストラドを挟んで警察側を警戒しながら、倉庫壁の方へ下がった。
悠斗が先に壁際へ入り、続いてアキラ。
シオンと蓮もすぐ後から来る。
コンクリートの冷たい壁へ背中をつけた瞬間、悠斗はようやく少し息を吐いた。
今、自分たちと警察との間にはストラドと倉庫の壁がある。
だからといって安全ではない。
状況が良くなったわけでもない。
ただ、道路の真ん中へ無防備に立っているよりはずっとましだった。
『武器を捨てろ! 繰り返す! 武器を捨てて出てこい!』
再び警察の声が響く。
アキラが小さく聞いた。
「どうする?」
悠斗は答えられなかった。
銀行で人質を取った時も怖かった。
何台ものパトカーに追われた時も怖かった。
けれど今は、それとは種類が違う。
壁の向こうには武装した警察官がいる。
こちらも銃を持っている。
誰か一人が引き金を引けば、もう元には戻れない。
シオンは拳銃へ手をかけているが、まだ抜いてはいない。
蓮もアキラも同じだった。
「……まだ撃たない」
悠斗がもう一度言った。
それは仲間へ向けた言葉であると同時に、自分へ言い聞かせる言葉でもあった。
警察からの投降を求める声が、倉庫街へ反響する。
誰も撃っていない。
まだ間に合う。
そう思える時間が、ほんの少しだけ残っていた。
お読みいただきありがとうございます。
ブックマークや評価をいただけると励みになります。
よろしくお願いいたします。




