第3章 第120話 ストラドの異変
後方から響いていたサイレンが、少しずつ遠くなっていた。
助手席のシオンがミラーを確認する。
「先頭、かなり離れた」
後部座席のアキラも身体を捻った。
「ほんとだ。さっきより全然遠い」
悠斗も振り返る。
赤と青の光はまだ見える。
けれど、先ほどストラドへ接触してきた時とは明らかに距離が違っていた。
蓮は喜ぶより先にミラーを見た。
「……今なら切れるかも」
直後、ストラドが大通りを外れた。
一度曲がり、少し走ったところでもう一度進路を変える。
さらに先でも曲がった。
後ろから聞こえていたサイレンが、少しずつ小さくなっていく。
「後ろ?」
「まだ見える」
シオンが答える。
「じゃあもう一回」
蓮はそのまま別の通りへ入った。
そこからも真っすぐには走らない。
次の通りを曲がり、その先でもまた方向を変える。
周囲の景色が、大きな道路沿いの店や建物から、背の低い住宅や小さな駐車場の多い一帯へ変わっていった。
「まだいる?」
「……見えなくなった」
「サイレンは?」
「遠い」
「もう少し」
蓮は気を抜かない。
さらに二度、進路を変えた。
そのたびにシオンが後ろを確認する。
「いない」
もう一度曲がる。
「まだ見えない」
さらに少し走る。
「音もほとんど聞こえない」
アキラが大きく息を吐いた。
「今度こそ撒いたんじゃね?」
「まだ分かんねえ」
「でも見えないじゃん」
「だから一回隠れる」
蓮が前方を見ながら言った。
◇
ストラドは少し先で道路を外れた。
古い建物と植え込みに囲まれ、表の通りから直接車体が見えにくい場所まで入る。
蓮がゆっくり車を止めた。
誰もすぐには降りなかった。
さっきまで鳴り続けていたサイレンが聞こえない。
車内には荒い呼吸と、まだ回っているエンジンの音だけが残っている。
「……来る?」
アキラが小さな声で聞く。
シオンは後ろを確認したまま首を振る。
「今は来てない」
悠斗も窓の外を見る。
遠くの道路を普通の車が通り過ぎていく。
警察車両は見えない。
数秒。
さらに数十秒。
何も起きない。
「これ、さすがに切れたんじゃない?」
アキラが言った。
今度は蓮もすぐには否定しなかった。
「……かもな」
「認めた」
「“かも”だって」
悠斗も小さく息を吐いた。
銀行を出てから、初めて少しだけ肩の力が抜けた。
足元には、現金の入ったボストンバッグ。
四人とも無事。
ナナも追跡から離れている。
警察も見えない。
本当に逃げ切れるかもしれない。
そう思った時だった。
アキラが周囲を見回し、少し眉を寄せた。
「……あれ?」
「何?」
悠斗が聞く。
「この辺、見覚えある」
「知ってる場所?」
「うん」
アキラは窓の外をもう一度確認した。
「俺ん家、ここからそんな遠くない」
蓮が振り返る。
「マジ?」
「歩いても大したことない」
車内が静かになった。
アキラの視線が悠斗の足元へ落ちる。
ボストンバッグ。
「……なあ」
「うん?」
「先にこれ、置かない?」
悠斗はすぐに意味を理解した。
「金?」
「そう。このまま持って走り回る必要なくない?」
蓮もバッグを見る。
「それはありだな」
シオンも頷いた。
「また警察に見つかっても、金まで一緒に持っていかなくて済む」
「俺ん家なら近いし」
アキラが続ける。
「置いてすぐ戻ってくる」
悠斗は少しだけ考えた。
追跡は一度切れている。
それでも、このままずっと警察から逃げ続けなければならない可能性はある。
ストラドも、さっきから後ろで何かを擦るような音がしている。
今のうちに金だけでも切り離しておく。
その方がいい。
「……うん。そうしよう」
「決まり」
アキラが少し笑った。
◇
蓮は周囲を確認してから、ストラドをもう少しだけ移動させた。
アキラの家へ近づきすぎる必要はない。
さっきまでと同じように、道路から目立たないところで止める。
アキラが後部座席から降りた。
「バッグ貸して」
悠斗は足元のボストンバッグへ手を伸ばす。
「結構重いよ」
「銀行からここまで持ってきたの、お前じゃん」
「そうだけど」
「今度は俺が持つって」
アキラがバッグを受け取る。
肩へ掛けた瞬間、少し身体が沈んだ。
「……重っ」
「だから言った」
「これ、お前よく普通に持ってきたな」
「普通ではなかったけど」
「だよな」
アキラが苦笑した。
シオンが短く言う。
「気をつけて」
「分かってる」
蓮も前を向いたまま言った。
「長くなるなよ」
「すぐ戻る」
アキラはバッグを持ったまま車を離れた。
悠斗はその背中を見送る。
やがて姿が建物の向こうへ消えた。
◇
アキラがいなくなると、車内は急に静かになった。
悠斗は無線を確認する。
ナナから連絡は入っていない。
蓮はミラーを何度も見ている。
シオンも後ろを確認したままだ。
「来てない?」
悠斗が聞く。
「警察は見えない」
シオンが答える。
「音もない」
蓮がハンドルへ指を乗せたまま言う。
「本当に撒いたかもな」
「さっきより自信出てきた?」
「ちょっとだけ」
その時。
無線からナナの声が入った。
『そっち、どう?』
悠斗が応答する。
『今、警察は見えてない』
『ほんと?』
『うん。何回か曲がって、一回隠れてる』
『じゃあ撒けた?』
『たぶん』
少し間が空く。
『こっちはもう全然別のところにいるよ』
『そのままでいて』
『分かった』
ナナの声が少し柔らかくなった。
『……ちゃんと戻ってきてね』
『うん』
通信が切れた。
悠斗は短く息を吐いた。
少なくともナナまで、この追跡へ巻き込まずに済んでいる。
あとはアキラが戻ってくればいい。
数分後。
建物の向こうからアキラが姿を見せた。
今度は手ぶらだった。
少し早足で戻ってきて、後部座席のドアを開ける。
「ただいま」
「大丈夫だった?」
「大丈夫」
アキラが乗り込む。
さっきまで抱えていたボストンバッグはない。
「置いてきた」
悠斗は小さく頷いた。
「誰かいた?」
「いや。問題なし」
「じゃあ、とりあえず金は大丈夫だね」
「うん」
アキラが背もたれへ身体を預けた。
「これでちょっと楽になったな」
それは悠斗も同じだった。
金を失う心配がなくなったわけではない。
けれど、少なくとも今この車の中にはない。
もしまた警察に見つかったとしても、銀行から持ち出したものまで一緒に抱えて逃げなくて済む。
それだけで気持ちはかなり違った。
◇
「じゃあ動くぞ」
蓮が言った。
「うん」
ストラドが再び走り出す。
最初は何もおかしくなかった。
ゆっくり道路へ戻り、少しずつ速度を上げる。
「後ろ?」
「何もいない」
シオンが答える。
アキラが笑った。
「これ、ほんとに成功したんじゃね?」
「また言う」
蓮が呆れた声を出す。
「だって金も置いたし、警察もいないし」
「だからって油断すんなって」
「分かってるって」
「その言い方が分かってない」
悠斗も少し笑う。
確かに、今までで一番状況はいい。
追跡を切った。
金も一度確保した。
四人とも無事。
ナナも離れている。
残っているのは、自分たちも無事に帰ることだけだった。
「こいつ、思ってたよりいいな」
蓮がふと呟いた。
「ストラド?」
アキラが聞く。
「うん」
「気に入った?」
「最初から嫌いじゃねえよ」
「レイザーより?」
「それは別」
「やっぱレイザーなんだ」
「当たり前だろ」
シオンが淡々と言う。
「でも少し好きになってる」
「……まあな」
蓮が認めた。
「おお」
「何だよ」
「認めたじゃん」
「うるせえ」
車内にまた笑いが起きる。
悠斗も口元を緩めた。
その時だった。
ざりっ。
後方から、嫌な音が聞こえた。
さっきより長い。
笑いが止まる。
「……まだ擦ってんな」
蓮が呟いた。
「さっきぶつけられたところ?」
アキラが後ろを見る。
「たぶん」
「走りは?」
「今は普通」
そのまま少し進む。
ストラドは真っすぐ走っている。
ハンドルも大きく取られていない。
エンジン音にも明らかな異常はない。
だが数秒後。
車体に、ごく小さな振動が走った。
「……ん?」
悠斗が足元を見る。
路面の凹凸かと思った。
さらに走る。
もう一度。
今度はアキラも気づいた。
「今、揺れなかった?」
蓮は答えない。
「聞こえてる?」
「ちょっと静かに」
声が低くなる。
全員が口を閉じた。
今はもうサイレンが聞こえない。
だからこそ、ストラド自身の音がはっきり聞こえる。
エンジン。
タイヤ。
風。
時折後方から混じる擦過音。
そこへ、僅かな振動が重なる。
数秒。
また震えた。
今度は少し長い。
「……やっぱおかしいな」
蓮が呟いた。
悠斗が前席の間から覗き込む。
「どこ?」
「分かんねえ」
「運転は?」
「できる。ハンドルも普通」
「じゃあ、まだ走れる?」
「今はな」
アキラが後ろを見る。
「警察はいない」
シオンも確認する。
「見えない」
「なら、とりあえずこのまま――」
アキラが言いかけたところで、また振動が来た。
今度は誰にでも分かった。
細かな震えがシートを通して身体へ伝わってくる。
蓮の表情から笑いが消える。
「さっきまでとは違う」
「無理になりそうならすぐ言って」
悠斗が言った。
「分かった」
蓮がハンドルを握り直す。
警察からは一度逃れた。
金も切り離した。
四人とも怪我はない。
あと少し。
本当にあと少しで終われるかもしれない。
そんなところまで来ている。
だからこそ、ストラドから伝わってくる振動が嫌だった。
蓮が小さく息を吐く。
「……頼むから、もう少し持ってくれよ」
誰に言うでもなく呟いた言葉に、今度は誰も笑わなかった。
銀行強盗で手に入れたものは、ひとまず確保できた。
警察の姿も消えている。
それなのに悠斗の胸には、さっきまでとは別の嫌な予感が、少しずつ広がり始めていた。
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