第3章 第119話 追跡
3分が終わった瞬間、後方の警察車両が動いた。
それまで一定の距離を保っていた先頭車両が速度を上げ、ストラドとの間を一気に詰め始める。
「来た!」
後部座席からアキラが振り返った。
蓮は返事をせず、アクセルを踏み込む。
エンジン音が高まり、深い灰色のストラドが前へ出た。悠斗の背中がシートへ押しつけられ、足元に置かれたボストンバッグが僅かに滑る。
助手席のシオンは銃を手元に残したまま、サイドミラーを確認した。
「一台、近い」
「見えてる」
蓮の声は短い。
前方には何台もの一般車が走っている。
信号が黄色から赤へ変わった。
蓮は止まらなかった。
交差点へ近づく直前に僅かに速度を調整し、横から来る車の流れを見ながら、そのまま突き抜ける。
クラクションが鳴った。
「うわ、来てたぞ」
「見えてるって!」
蓮が再びアクセルを踏む。
後ろから警察車両も続いてきた。
悠斗が振り返る。
赤と青の光が、さっきまでよりずっと近い。
「二台来てる」
アキラが言った。
「その後ろにもいる」
シオンが付け加える。
「銀行だもんな……」
アキラの声から少しだけ笑いが漏れた。
誰も返さない。
「いや、何か言えよ」
「今忙しい」
「俺だって忙しいんだけど?」
ほんの一瞬だけ、車内の張り詰めた空気が緩んだ。
それも、前方の車列が近づくまでだった。
「前詰まってる」
悠斗が言う。
「抜く」
蓮は迷わない。
ストラドを反対車線へ出した。
一般車が何台も左側へ流れていく。
正面の遠くに対向車が見えた。
「来てるぞ」
「まだいける」
数台をまとめて抜き、蓮は対向車との距離が詰まる前に元の車線へ戻った。
すれ違った車が長くクラクションを鳴らしている。
「今の結構近くなかった?」
「大丈夫だったろ」
「結果論じゃん」
「黙ってろ」
「俺、後ろ見て報告してるだけなのに扱い酷くない?」
助手席からシオンが淡々と言う。
「報告だけでいい」
「ほら!」
「何がほらなんだよ」
蓮の声にも僅かに普段の調子が戻る。
悠斗は口元を緩めかけたが、すぐに後ろを確認した。
警察も止まってはいない。
先頭の一台は交通の中を抜けながら追ってくる。
こちらが車列を抜いても、簡単には離れなかった。
◇
ナナはすでにストラドとは別の方向へ走っていた。
セブンⅡの速度も必要以上には上げていない。
無線から聞こえる短いやり取りだけで、向こうが本格的な追跡に入ったことは分かる。
『二台近い』
『前、車いる』
『抜く』
思わずアクセルを開けたくなる。
けれど、ナナはその衝動を抑えた。
今から追いつこうとしても意味がない。
まだバイクに乗り始めて間もない自分が混ざれば、助けるどころか余計な心配を増やす。
「……無茶しないでよ」
聞こえない声で呟く。
そのまま交差点を曲がり、サイレンの聞こえる方向からさらに離れていった。
◇
ストラドは市街地を走り続けていた。
赤信号でも止まらない。
前に車列があれば、空いている場所を使って抜く。
反対車線にも出る。
ただし蓮は、何も見ずに突っ込んでいるわけではなかった。
対向車が近ければ戻る。
交差点へ入る時には横から来る車を見る。
無関係な車へぶつかってまで前へ出ようとはしない。
「次どうする?」
蓮が尋ねる。
悠斗は前を見る。
事前に考えていた流れはある。
しかし、道路の混み方まで計画通りになるはずがない。
「走りやすい方で。無理に予定へ戻らなくていい」
「了解」
蓮は即答した。
悠斗はそれ以上細かく言わなかった。
今、この車を一番上手く扱えるのは蓮だ。
任せた方がいい。
「後ろ少し離れた」
シオンが言った。
アキラも振り返る。
「ほんとだ」
さっきまで迫っていた先頭の警察車両との間に、少し距離ができている。
「このままいける?」
悠斗が聞く。
「まだ分かんねえ」
蓮は前を見たまま答えた。
「でもストラド、思ってたより走るな」
「買った時嬉しそうだったもんな」
「今それ言う?」
「車褒めてんじゃん」
「集中させろ」
道路が少し開ける。
蓮がさらに速度を上げた。
エンジン音が車内を満たし、窓の外の店や駐車場が次々と後ろへ流れていく。
警察車両との距離がもう少し開く。
悠斗の胸に、僅かな期待が生まれた。
まだいける。
少なくとも、すぐ捕まるような状況ではない。
その時だった。
「また来た」
シオンの声が落ちる。
悠斗が後ろを見る。
先ほど離れた警察車両が、再びこちらへ迫っていた。
一般車の隙間を抜け、確実に距離を縮めている。
「しつこいな」
アキラが言う。
「仕事だからね」
「分かってるけどさ」
蓮がミラーを見る。
「一台かなり近い」
赤と青の光が大きくなる。
警察車両はすぐ後ろまで来たものの、すぐにぶつかってはこなかった。
ストラドの動きを見ながら、距離を保って追ってくる。
数秒。
十数秒。
サイレンとエンジン音だけが続く。
何も起きない時間の方が、悠斗には落ち着かなかった。
いつ来る。
どこで来る。
そればかりを考えてしまう。
助手席のシオンが銃へ手を掛けた。
「必要なら言って」
悠斗はすぐに首を振る。
「まだ撃たない」
「了解」
シオンは銃を手元に置いたまま、後ろを見続ける。
相手は警察だ。
一度撃てば、追跡とは別のものになる。
今はまだ、その必要はない。
「右から車」
悠斗が言う。
「見えてる」
交差点へ一般車が入りかける。
蓮は少しだけ進路をずらして、その前を抜けた。
クラクション。
ストラドは止まらない。
その直後、後方の警察車両がさらに迫った。
「近い!」
アキラが叫ぶ。
「分かってる!」
蓮がハンドルを握り直す。
警察車両のフロントがストラドのすぐ後ろまで来る。
来る。
悠斗がそう思った次の瞬間。
ドンッ!
鈍い衝撃が車内を走った。
「っ!」
身体が大きく揺れる。
足元のボストンバッグが横へ滑り、アキラが慌てて足で押さえた。
「当たった!」
「まだ大丈夫!」
蓮が即座にハンドルを修正する。
ストラドの後部は僅かに振れたものの、大きく姿勢を崩すことなく前へ戻った。
シオンは後方を確認する。
「まだ来てる」
「そりゃそうだろ!」
アキラが返したが、さっきまでの軽さは消えていた。
「車は?」
悠斗が聞く。
「普通に走る。今のところ変な感じはない」
「分かった」
それ以上は聞かない。
走れているなら、今は走る。
ストラドが再び速度を上げた。
警察車両との距離が少し開く。
悠斗もようやく息を吐こうとした。
その時。
ざりっ。
後方から何かが路面を擦るような音がした。
「……今の聞こえた?」
蓮の声が僅かに変わる。
「聞こえた」
アキラが後ろを見る。
シオンも確認したが、車内から原因までは分からない。
もう一度。
ざっ、と短い音。
「何か擦ってる?」
「たぶんな」
蓮は前から目を離さない。
「走り方は?」
悠斗が尋ねる。
「今は大丈夫」
「なら、そのままで」
「おう」
後ろを見る。
赤と青の光は、まだ消えていない。
一度距離を開けても追いつかれる。
最初の接触も受けた。
それでもストラドは走っている。
まだ逃走は終わっていない。
蓮は前を見たままハンドルを握り直した。
「……せっかく買ったのに、もう傷だらけになりそうだな」
アキラが間髪入れず返す。
「今それ気にする?」
「気にするだろ」
「生きて帰ってから気にしろよ」
「それもそうだな」
ほんの一瞬だけ、蓮が笑った。
その直後にはもう、表情を戻して前を見る。
ストラドの後ろからは、時折まだ嫌な擦過音が聞こえていた。
そして後方では、警察車両が再び少しずつ距離を詰め始めていた。
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