第3章 第116話 警察との交渉
銀行の外から、拡声器を通した男の声が響いた。
『中にいる者へ。こちらはレイヴンシティ警察だ。交渉を担当する。まず、人質の安全を確認したい』
赤と青の光が、正面のガラス越しに店内を何度も照らしている。
さっきまで客が番号を呼ばれるのを待っていた銀行は、もう完全に別の場所になっていた。
悠斗は現金の入ったボストンバッグを肩から下ろし、足元へ置いた。
重さから解放された肩がじんと痛む。
隣ではアキラが一度だけ息を吐いた。
「俺が話す」
「お願い」
悠斗が答えると、アキラは正面へ向き直る。
「人質は全員無事だ! こっちも誰も撃ってない!」
『分かった。こちらも急なことはしない。まず話をしよう』
怒鳴り声ではなかった。
低く、一定の調子を保った声。
警察側も、こちらを刺激しないようにしているらしい。
アキラが小声で言う。
「どうする?」
「まず向こうの話、聞こう」
「了解」
シオンは会話へ入らず、人質たちの様子を見ていた。
待合席。
窓口前。
壁際。
怯えて俯いている者もいれば、こちらを睨んでいる者もいる。
さっき立ち上がった中年の男も、今は椅子へ戻っていた。
『人質に怪我人はいないか?』
「いない!」
『体調が悪そうな人間は?』
「今のところ――」
アキラの返事が途中で止まった。
悠斗も気づく。
待合席の端に座っていた若い男が、胸元へ手を当てて前屈みになっていた。
肩が大きく上下している。
隣にいた女性が心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「……ちょっと、息が……」
シオンがそちらへ近づく。
ただし、必要以上に距離は詰めなかった。
「苦しい?」
男が何度か頷く。
額には汗が浮かんでいた。
悠斗はアキラを見る。
アキラも眉を寄せる。
「どうする?」
「外に伝えよう」
判断に時間はかからなかった。
アキラが警察へ声を上げる。
「一人、具合悪そうなやつがいる!」
外の声がすぐ返ってきた。
『意識はあるか?』
「ある! でも息が苦しいみたいだ!」
『了解した。救急は待機している。その人を外へ出せるか?』
銀行内の人質たちが一斉にこちらを見る。
悠斗は一瞬だけ黙った。
一人を外へ出す。
その意味を考えるより先に、目の前の男がまた苦しそうに息を吸った。
ここへ残して悪化させる理由はない。
「出そう」
「いい?」
「うん」
アキラはすぐに外へ返す。
「分かった! この人は出す!」
『ありがとう。本人だけをゆっくり外へ出してくれればいい』
シオンが男へ視線を向ける。
「立てる?」
「……たぶん」
隣の女性が腕を支えようとしたが、男は小さく首を振り、自分で立ち上がった。
足元は少し頼りない。
シオンが入口の方を示す。
「ゆっくりでいい」
「……ありがとうございます」
その言葉に、シオンは何も返さなかった。
男は何度か深く息をしながら入口へ向かう。
悠斗はその背中を見ていた。
自動扉が開く。
外から警察の声が飛んだ。
男が銀行の外へ出る。
すぐに数人が近づき、そのまま人の輪の向こうへ連れていかれた。
銀行内から姿が見えなくなる。
誰かが小さく息を吐いた。
人質側か。
自分たちの誰かか。
悠斗にも分からなかった。
◇
銀行から少し離れた場所では、ナナがセブンⅡを停めて周囲を見ていた。
警察車両は最初に見た時より増えている。
警官たちは銀行前だけに固まっているわけではなかった。
周辺の歩行者を遠ざける者。
車の流れを整理する者。
後から来た警察官へ状況を伝えている者。
救急車も見える。
さっき銀行から出てきた男が、そちらへ連れていかれた。
ナナは無線へ声を入れる。
『外に出した人、救急の方に行った。ちゃんと歩けてる』
『了解』
悠斗の声。
ナナは少し安心した。
すぐに視線を周囲へ戻す。
『警察、また増えてる。周りの人もかなり離された』
『分かった』
『今のところ、それ以外は変わった動きない』
『そのまま見てて』
『うん』
通信を終え、ナナはヘルメットの中で息を吐いた。
セブンⅡのエンジン音が小さく続いている。
自分は外から見えたものを、そのまま伝える。
今はそれだけでいい。
◇
ストラドへ戻った蓮は、運転席で無線を聞いていた。
まだ動く必要はない。
何もできない時間だけが続いている。
「長えな……」
小さく呟き、ダッシュボードへ視線を落とした。
出発前に買ったスポーツドリンクが一本残っている。
もう一本は途中で少し飲んだ。
残った方は、終わってから飲むつもりだった。
「……終わってからって、誰が飲むんだっけ」
一瞬考える。
「俺だわ」
自分で答えて、鼻で笑った。
こんな時に何を考えているんだと思う。
けれど、銀行の中にいる三人へ何もできない今は、くだらない独り言でもなければ落ち着かなかった。
無線からアキラの声が聞こえる。
交渉は続いている。
蓮はハンドルへ軽く手を置いた。
「早く帰ってこいよ」
◇
『具合の悪い人を出してくれたことには感謝する』
警察の交渉担当の声が、再び銀行内へ届いた。
『こちらも人質全員を無事に帰したい。そちらの希望を聞かせてほしい』
アキラが悠斗を見る。
「来たな」
「うん」
悠斗は外へ視線を向けた。
何を言うか。
それ自体は事前に話している。
ただ、ここまで来ると、紙の上で考えていた時とは重さが違う。
「俺たちはここから出たい! 人質は無事に返す!」
『分かった。出る方法について話そう。ただ、こちらも人質の安全を確認しながら進めたい』
「それは分かってる!」
『急に動いたり、撃ったりしなければ、こちらも勝手なことはしない』
アキラが少しだけ首を傾け、悠斗へ小声で言う。
「思ったより普通に話せるな」
「今のところはね」
「もっと怒鳴られるかと思った」
「俺も」
そこで会話を切る。
警察が穏やかだからといって、安心できるわけではない。
向こうには向こうの仕事がある。
こちらが武器を持っている事実も変わらない。
それでも、今は会話が成立している。
そこを崩す必要はなかった。
少し離れたところで、人質の一人が小さく手を上げた。
三人の視線がそちらへ向く。
今度は年配の女性だった。
「すみません」
アキラが身構える。
「何?」
「お手洗いに行っても……?」
一瞬、沈黙が落ちた。
アキラが悠斗を見る。
悠斗も見返す。
シオンまでこちらを見た。
「……トイレ?」
「はい……」
銀行強盗の最中でも、人間はトイレへ行きたくなる。
当たり前のことなのに、計画を立てている時には頭に浮かばなかった。
アキラが小さく眉を上げる。
「行かせる?」
「いいんじゃない?」
「だよな」
シオンが短く言う。
「場所だけ見る」
年配の女性は何度も頷いた。
「ありがとうございます」
また礼を言われた。
悠斗は何とも言えない気持ちになる。
自分たちは感謝されるような立場ではない。
そもそも、この状況を作ったのはこちらだ。
女性が席を離れる。
シオンは一定の距離を保ったまま、その動きを見ていた。
その光景を見たアキラが小声で呟く。
「銀行強盗って、もっと忙しいと思ってた」
「忙しいでしょ」
「いや、忙しいけどさ。トイレ待ちするとは思わなかった」
悠斗は思わず笑いそうになった。
「俺も」
シオンが二人を見る。
「聞こえてる」
「ごめん」
「悪かったって」
ほんの一瞬だけ、緊張が緩んだ。
その直後、外から交渉担当の声が響く。
『話を続けてもいいか?』
アキラがすぐに表情を戻した。
「大丈夫だ!」
◇
交渉は思っていたよりゆっくり進んだ。
一度に全部が決まるわけではない。
こちらが話す。
向こうが確認する。
少し待つ。
また返事が来る。
その繰り返しだった。
悠斗は途中から、アキラの横でほとんど口を挟まなかった。
アキラの方が向いている。
自分は人質の様子と外を見ながら、必要な時だけ判断すればいい。
『こちらとしても、全員が無事に終わる形にしたい』
交渉担当が言う。
「こっちも同じだ!」
『なら、焦らず話そう』
アキラが悠斗へ顔を向ける。
「焦らずって言われてもな」
「警察増えてるしね」
「それ」
ナナからも、少し前にまた警察車両が増えたと報告が来ている。
ただし、それだけだ。
見えていないものまで勝手に想像する必要はない。
外には警察。
中には人質。
足元には現金の入ったバッグ。
金は取った。
次は出なければならない。
問題は、そのための話がまだ終わっていないことだった。
『では、次の確認をしたい』
交渉担当の声が響く。
アキラが小さく息を吸う。
「このまま聞くぞ」
「うん」
「変だったら止めて」
「分かった」
アキラは一歩前へ出た。
悠斗はその隣に残る。
少し離れた場所では、シオンが戻ってきた年配の女性を席へ座らせていた。
今のところ、誰も怪我をしていない。
交渉も続いている。
予定通りではないことはいくつも起きた。
それでも、まだ壊れてはいない。
悠斗はガラスの向こうに並ぶ警察車両を見る。
最初から全部、自分たちの思い通りになるとは考えていなかった。
だから今は、目の前で起きていることを一つずつ見ればいい。
アキラが外へ声を上げる。
「聞いてる!」
少し間を置いて、交渉担当が次の言葉を返した。
銀行へ入ってから、どれくらい時間が経ったのか。
悠斗には、もうよく分からなかった。
ただ一つ分かるのは、金を奪うより、その後の方がずっと長いということだった。
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