第2章 第101話 白いヴェローチェ
ヴェローチェを買ってから三日後。
悠斗は朝から、カイが働いている整備工場の前に立っていた。
目の前には、まだダークグリーンのままの《アーデン・ヴェローチェ》。
買った直後は、この色のまま少しくらい乗ってみてもいいかと思った。
けれど実際に自分の車として乗り始めると、駐車場へ停めた時も、信号待ちでボンネットの端が目に入った時も、頭の中では白い姿ばかり浮かんでしまう。
「やっぱ白にすんの?」
工場から出てきたカイが、ヴェローチェを眺めながら聞いた。
「する」
「そこは迷わないんだな」
「色だけは最初から決まってるから」
「2,200ドル飛ぶぞ」
「……それも分かってる」
今回は、カイが働く工場と付き合いのある塗装工場へ頼むことになっていた。
普通の白で、外から見える部分も含めて違和感が出ないよう綺麗に仕上げてもらう。
見積もりは2,200ドル。
決して安くはない。
それでも、何度も頭の中で思い描いてきた姿へ変えられると思えば、今回は払う気になれた。
「ちょうど向こうの塗装ブース空いてるらしいから、順調なら二日くらいでいけるって」
「そんなに早いんだ」
「タイミング良かったな。混んでたらもっと待つぞ」
「じゃあ、お願い」
悠斗がキーを差し出す。
受け取ったカイが、ふと思い出したように聞いた。
「ホイールは?」
「まだ」
「足は?」
「まだ」
「ブレーキ」
「それもまだ」
「偉いじゃん」
「何その褒め方」
「買った勢いで全部やるかと思った」
「そんなことしたら金が足りないよ」
「ローンもあるよ?」
カイが、いかにも親切な提案でもしているような顔で言った。
「借金してまで弄らないから」
「えー、いい客になってくれると思ったのに」
「人の財布で遊ばないでよ」
「残念」
カイは笑いながらヴェローチェへ目を向ける。
「ちなみに、この車ならフルカスで27,500ドルくらいかな」
「……そんなにするの?」
「するする。ホイールだけじゃないからな。足回り、ブレーキ、エンジン、駆動系まで一通りちゃんとやったら、そのくらいは見といた方がいい」
「無理」
「即答じゃん」
「今そんなの払ったら、本当に何もできなくなるよ」
「だからローンが――」
「組まないから」
「はいはい」
カイが楽しそうに笑う。
27,500ドル。
今の悠斗には、とても出せる金額ではない。
車体を買い、塗装代まで払えば、手元に残る金はかなり少なくなる。
それでも、いつか余裕ができたら、ホイールを変えて、足回りを弄って、ブレーキも強化して。
最後には全部仕上げてみたい。
そんな目標が一つ増えた。
「じゃあ預かっとく」
「お願い」
カイがヴェローチェを工場の奥へ動かしていく。
買ってまだ数日しか経っていないのに、自分の車が見えなくなると妙な物足りなさがあった。
「そんな顔すんなって」
「どんな顔?」
「飼い犬預けたみたいな」
「そこまでじゃないよ」
「似たようなもんだろ」
「違うから」
否定したものの、自信はなかった。
◇
それから二日。
悠斗は久しぶりに、自分の車がない生活をしていた。
必要ならテンペストもある。
仲間に乗せてもらうこともできる。
この日も、悠斗は蓮の青いレイザーの助手席に座っていた。
「やっぱ車ないと不便?」
ハンドルを握る蓮が聞いてくる。
「ちょっと」
「二日だけじゃん」
「自分の車ある生活に慣れたんだと思う」
「贅沢になったなあ」
「蓮に言われたくない」
「俺はレイザーを愛してるだけだから」
「足回りに金かけたばっかなんだぞ、って言ってたもんね」
「そう。だからしばらく大人しくする」
「罰金もあったし」
「それは忘れろ」
蓮が露骨に嫌そうな顔をした。
悠斗は笑いながら窓の外へ目を向ける。
少し前まで、誰かの車の助手席へ座ること自体が特別だった。
今では蓮の車へ乗り込み、くだらない話をしながら街を移動することが普通になっている。
それをいちいち特別だと思わなくなっている自分に気づくと、少しだけ嬉しかった。
「そういやナナは?」
「アキラとバイク見に行ってるって」
「まだ探してんの?」
「結構本気っぽい」
「買うのかな」
「どうだろ」
信号が赤になり、レイザーが停まる。
蓮がスマートフォンへ手を伸ばしかけた。
「あとで見ればいいだろ」
「まだ何もしてねえよ」
「この前止められたばっかじゃん」
「今赤信号――」
その瞬間、信号が青へ変わった。
「はい、前」
「分かってるって!」
レイザーがゆっくり交差点へ入った。
◇
昼過ぎ。
五人がいつものダイナーへ集まると、ナナは席へ着くなりスマートフォンをテーブルへ置いた。
「これ」
画面には黒いバイクが映っている。
「また変わってるじゃん」
悠斗が言う。
「実物見たら違ったの」
「何が?」
「思ったより大きかった」
隣のアキラが笑う。
「またがった瞬間、ちょっと固まってた」
「言わなくていいから」
「で、買うの?」
蓮が聞く。
「まだ買うって言ってない」
「悠斗と同じこと言ってる」
「悠斗はもう買ったでしょ」
「確かに」
ナナは画面を指で横へ送る。
「もう少し軽いのも見ようかなって。街の中走るなら、その方が扱いやすそうだし」
「二輪の免許は?」
悠斗が聞く。
「まだ。これから取る」
「じゃあ先に免許か」
「そう。だからまだ買わないよ」
「そこはちゃんとしてるな」
蓮が言うと、ナナが眉を寄せる。
「普通だから」
料理を食べていたシオンが、短く口を挟んだ。
「転ぶなよ」
「まだ乗ってもないよ」
「乗った後の話」
「……気をつけます」
ナナが素直に答えたので、アキラが吹き出した。
そのまま話題は、どの形のバイクが似合うだの、蓮なら絶対に余計なカスタムを勧めるだの、どうでもいい方向へ流れていった。
犯罪の話は出ない。
次の仕事を決めるわけでもない。
ただ昼飯を食べながら、車とバイクの話をする。
そんな時間が、今では五人の間に普通に存在している。
食事を終えかけたところで、悠斗のスマートフォンが震えた。
カイからだった。
『できたぞ』
短いメッセージと一枚の写真。
悠斗はすぐに画像を開いた。
「お」
隣から覗き込んだアキラが声を上げる。
「何?」
ナナも身を乗り出した。
画面に映っていたのは、二日前とはまるで印象の違うヴェローチェ。
白いボディ。
黒い窓周り。
その奥に見える黒いレザー内装。
悠斗が思い描いていた姿に、かなり近い。
「……いいじゃん」
蓮が言った。
「うん」
「その返事だけでめっちゃ気に入ってるの分かる」
ナナが笑う。
悠斗はもう一度写真を見る。
「……かなりいい」
◇
食事を終えた五人は、そのまま整備工場へ向かった。
工場の前に停まっているヴェローチェを見つけた瞬間、悠斗は思わず足を止める。
写真で見るのとは違った。
夕方前の日差しを受けた白いボディが柔らかく光を返し、ダークグリーンだった時よりも車体のラインがはっきり見える。
長めのボンネット。
低く構えたフロント。
4ドアながら後方へ流れるようなシルエット。
窓の向こうには黒いレザーシート。
白と黒の組み合わせは、想像していた以上に似合っていた。
「お前、分かりやすいな」
工場から出てきたカイが笑った。
「何が?」
「顔」
「そんな変わってる?」
「ダークグリーンの時よりな」
蓮が車の周囲を一周する。
「白の方がいいな、これ」
「だろ?」
「最初から悠斗が正しかったの悔しいけど」
「なんで悔しいんだよ」
アキラも後ろへ回り込む。
「結構印象変わるな。黒い内装も合ってる」
ナナは窓から車内を覗いた。
「これは白にしたかったの分かるかも」
最後にシオンが車体を見て、
「いいな」
とだけ言った。
「ありがと」
悠斗は自然にそう返した。
カイからキーを受け取る。
「予定通り2,200ドルな」
「うん」
「あと、塗ったばっかだから、しばらく雑に扱うなよ」
「分かってる」
そこでカイが、何かを思いついたようにヴェローチェの後ろへ回った。
「そうだ。納車記念にステッカー作ってやろうか」
「ステッカー?」
「うちで作れるから。でかいのじゃなくて、リアガラスの端とかに貼る感じのやつ」
悠斗も車の後ろへ回り込む。
「店の名前?」
「それでもいいけど、せっかくならお前用に作る。好きな文字とか名前ある?」
悠斗は少しだけ考えた。
「じゃあ……Placeholderって名前を、かっこよく作ってほしい」
「Placeholder?」
「うん。英字で、あんまり大きくなくて。車に合う感じがいい」
「なるほどな」
カイは白いボディとリアガラスを交互に眺める。
「文字だけでもいいけど、ちょっとロゴっぽくした方が映えそうだな」
「そこはカイに任せる」
「急に責任重くなったぞ」
「変なのは嫌だからね」
「ヴェローチェに貼るんだろ? 俺だって変なの作りたくねえよ」
カイが笑った。
「じゃあ一回デザイン作って見せる。気に入ったら貼ろうぜ」
「お願い」
横で聞いていた蓮が、すぐに口を挟む。
「出来よかったら俺も欲しい」
「まだ影も形もねえぞ」
「だから出来よかったらって言ってんじゃん」
アキラもリアガラスを眺めながら頷いた。
「でもPlaceholderって、普通にステッカー映えしそうじゃない?」
「私も見てみたい」
ナナまで興味を示す。
シオンは何も言わなかったが、カイへ視線だけを向けた。
それに気づいたカイが笑った。
「なんだよ。もしかして全員欲しくなるやつ?」
「まだ分かんないって」
蓮が答える。
「とりあえず悠斗の見てから」
「はいはい。じゃあまず一枚作るわ」
今のところは、ただの納車記念だ。
もし出来上がったものを四人も気に入れば、その時に追加で頼めばいい。
悠斗自身も、この時は白くなったヴェローチェに少しだけ自分らしい印が増える、その程度にしか考えていなかった。
「今日飛ばすの禁止な」
話が落ち着いたところで、蓮が思い出したように言った。
「お前が言う?」
「今日は新しい車みたいなもんだろ」
「それはちょっと分かる」
「だろ?」
悠斗は笑いながら運転席へ乗り込んだ。
黒いレザーシートも、メーターも、ステアリングも何も変わっていない。
それなのに、フロントガラスの向こうに見えるボンネットが白くなっただけで、まるで別の車のように感じた。
エンジンをかける。
低い音が車内へ響いた。
「どっか行く?」
窓の外からアキラが聞いてくる。
「どこ?」
「海とか」
「また海?」
「じゃあ山」
「なんでその二択なの」
蓮がレイザーのキーを手に笑った。
「走れればどこでもいいだろ」
ナナが肩をすくめる。
「結局それなんだ」
目的地は決まらなかった。
それでも三台は工場を出た。
先頭は悠斗の白いヴェローチェ。
その後ろに青いレイザーとアキラの黒いクーペが続く。
夕方のレイヴンシティを流していると、赤信号で三台が縦に並んだ。
悠斗はルームミラーを見る。
青いレイザー。
その後ろに黒いクーペ。
白いボンネットの先には、夕日に染まり始めた街。
一瞬だけ、昔画面越しに眺めていた光景が頭をよぎった。
けれど今は、すぐ後ろに本物の仲間がいる。
隣の車線へ並んだ蓮が窓を下げた。
「悠斗!」
「何?」
「その車、白くなったら余計レースしたくなるな!」
「……まあ、ちょっと分かるかも」
「だろ?」
「でも今はやめとく」
「今はな!」
蓮が楽しそうに笑う。
後ろからアキラの黒いクーペも近づき、何の話か分からないまま笑っているのが見えた。
悠斗もつられて笑った。
信号が青へ変わり、三台が再び走り出す。
ヴェローチェはまだほとんど純正だ。
ホイールも。
足回りも。
ブレーキも。
弄りたいところはいくらでもある。
さらにエンジンや駆動系まで仕上げるなら、カイが言っていた27,500ドルが必要になる。
今の悠斗には、とても出せない。
けれど、それでいい。
金を稼ぎ、余裕ができた時に一つずつ手を入れていけばいい。
ヴェローチェを完成させることも、これから先の楽しみになった。
しばらく街を流していると、悠斗のスマートフォンが着信を知らせた。
表示された名前を見て、自然と表情が引き締まる。
早乙女カナメ。
悠斗はハンズフリーへ切り替え、通話を取った。
「はい」
『神谷か』
「はい」
『明日、五人で動けるか』
悠斗はルームミラーを見る。
後ろには蓮とアキラの車。
ナナとシオンも一緒にいる。
「たぶん大丈夫です。何か仕事ですか?」
『詳しい話は来てからする。人手が欲しい』
「分かりました」
『夕方、いつもの場所へ来い』
「はい」
通話は短く終わった。
次の信号で、蓮が横へ並ぶ。
「誰?」
「NOX」
その一言で、蓮の表情が少し変わった。
「仕事?」
「たぶん。明日、五人で来てほしいって」
「了解」
後ろからアキラの黒いクーペも近づいてくる。
今日は車の話だけで一日が終わると思っていた。
白くなったヴェローチェを眺めて、目的もなく街を走る。
そんな日があってもいい。
けれど、明日はまた違う一日になるらしい。
悠斗は白いボンネットの向こうへ視線を戻した。
信号が青へ変わる。
アクセルを踏むと、ヴェローチェは仲間の車を後ろへ連れたまま、夕方の街を滑るように走り出した。
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