第2章 第100話 欲しい車
翌朝。
悠斗はベッドの上でスマートフォンを眺めていた。
画面に表示されているのは、昨日見つけた《アーデン・ヴェローチェ》。
価格は39,800ドル。
深いダークグリーンのボディに、黒いレザー内装を備えた4ドア4人乗りの高級GTだ。
昨夜から何度この販売ページを開いたのか、自分でも分からない。
買う金そのものはある。
ただ、39,800ドルを払えば手元の余裕はかなり減る。しかも買ったら白へ塗装したいし、ホイールや足回りにも手を入れたくなる気がしている。
銀色のセダンを下取りに出せば多少は足しになるだろう。
それでも、一台の車へ使う金としては大きい。
悠斗はしばらく画面を眺めたあと、連絡先を開いた。
朝倉カイ。
通話ボタンの上で指が一瞬止まる。
それでも、そのまま押した。
三回ほど呼び出し音が鳴る。
『もしもし?』
「あ、カイ。今大丈夫?」
『大丈夫だけど。どうした? 珍しいな、お前から電話なんて』
「そんなに珍しい?」
『メッセージで済ませること多いだろ』
「まあ……そうだけど」
カイの気軽な声を聞くと、わずかに入っていた肩の力が抜けた。
「中古車で、ちょっと気になるの見つけて」
『へえ。何?』
「アーデン・ヴェローチェ」
『ヴェローチェ?』
カイの声が少し変わる。
『急にいい車見始めたな』
「そんなに?」
『新車なら120,000ドルくらいするGTだぞ。中古でも程度いいのはそれなりにする』
「それが39,800ドル」
『……安くね?』
昨日の蓮とほとんど同じ反応だった。
悠斗は販売ページを見ながら、年式や走行距離を伝える。
『まあ、その年式と距離なら値段が落ちるのは分かるけど……現物は見た?』
「昨日見た。結構綺麗だった」
『乗った?』
「座っただけ」
『なら、一回乗った方がいいな。見た目が綺麗でも、走らせないと分からないことあるし』
「カイ、今日仕事?」
『夕方までは』
「終わってから、一緒に見てもらってもいい?」
『いいぞ。俺もヴェローチェ見たい』
「ありがとう」
頼み事をしたはずなのに、返事は驚くほどあっさりしていた。
◇
夕方。
悠斗は銀色のセダンで、カイが働いている整備工場へ向かった。
仕事を終えたカイが作業着姿のまま助手席へ乗り込む。
「で、買うの?」
「まだ決めてない」
「昨日見て、今日俺まで呼んで?」
「だから迷ってるんだって」
「はいはい」
カイはからかうように笑いながら車内を見回した。
「これ買い替えるなら、今のセダンどうすんの?」
「下取りかな」
「残さないの?」
「2台も持てない……」
「まあ、そうだよな」
カイはダッシュボードを軽く指先で叩く。
「でも、これも結構乗っただろ」
「うん。気に入ってる」
「じゃあ、そこでも迷ってんのか」
「そう」
欲しい車ができたからといって、今まで乗ってきた車が嫌いになるわけではない。
むしろ買い替えを意識したせいで、今まで気にも留めていなかった部分まで目に入るようになっていた。
見慣れたメーター。
いつものシート。
仲間を何度も乗せた車内。
それらを手放すことまで含めて考えなければならない。
◇
中古車販売店へ到着すると、悠斗は真っ先に高級車が並ぶ区画へ目を向けた。
ダークグリーンのヴェローチェは、昨日と同じ場所にまだ残っている。
その姿を見つけただけで、胸の奥が少し軽くなった。
「これ」
「おお……」
カイが近づく。
「渋い色じゃん」
「俺はあんまり好きじゃない」
「そうなの?」
「白にしたい」
「もう塗る前提じゃん」
「蓮にも言われた」
「そりゃ言われるわ」
カイは笑いながら車の周囲をゆっくり見ていく。
外装を確認し、タイヤやホイールへ目を向け、ガラス越しに車内を見る。
やがて昨日の店員が二人に気づいて歩いてきた。
「あ、昨日のお客様」
「こんにちは」
「やっぱり気になりました?」
「……はい。今日は友達にも見てもらおうと思って」
カイが軽く頭を下げる。
「メカニックやってます」
「なるほど。それなら心強いですね」
店員から許可をもらい、カイはボンネットを開けた。
悠斗には何を確認しているのか分からない部分も多い。
カイはエンジンルームを覗き込み、いくつか確認したあとでキーを受け取った。
エンジンが始動する。
低く落ち着いた音が展示場に響いた。
しばらく音を聞き、表示類も確認してからカイがエンジンを止める。
「どう?」
悠斗が聞く。
「ちゃんと見るなら工場に入れたいけど、今見た範囲じゃ変な感じはしないな」
「本当?」
「年式と距離はそれなり。でも39,800ドルなら悪くないと思う」
カイはもう一度車体を見る。
「少なくとも俺なら、見た瞬間にやめとけとは言わない」
「そっか……」
安心した。
同時に困った。
何か致命的な問題でも見つかれば諦める理由になったのに、それがなくなってしまった。
「試乗されます?」
店員が尋ねた。
悠斗はヴェローチェへ目を向ける。
「……お願いします」
◇
運転席へ座り、シートを合わせる。
黒いレザーが身体を包み、ドアを閉めると外の音が少し遠くなった。
助手席には店員。
カイは後部座席へ乗り込む。
「後ろも思ったより広いな」
カイが座席へ背中を預けた。
「4人なら普通に乗れる」
「そこもいいんだよね」
悠斗はミラーを調整する。
五人全員では乗れない。
それでも4人乗れるなら、見た目だけの車ではない。
仲間との移動にも普通に使える。
「店の周りを一周してもらって大丈夫です。少し大通りにも出られますよ」
店員が言う。
「分かりました」
悠斗は慎重にアクセルを踏んだ。
展示場を出て道路へ入る。
すぐに、銀色のセダンとはまったく違う感触が伝わってきた。
車体には落ち着いた重さがある。
けれど鈍くはない。
ステアリングを切れば素直についてきて、アクセルへ少し力を加えるだけで余裕を残したまま前へ出る。
「……おお」
思わず声が漏れた。
「踏みすぎんなよ」
後ろからカイが笑う。
「分かってる」
「顔が分かってない」
「そんな顔してる?」
「してる」
店員も笑った。
「踏めばもっと出ますけど、今日はほどほどでお願いしますね」
「はい」
大通りへ出る。
速い。
ただ、それだけではなかった。
車内は落ち着いているのに、アクセルを踏めばすぐに応えてくれる。
派手なスーパーカーのような尖った雰囲気ではない。
それでも、必要なら十分速い。
悠斗が欲しかったのは、むしろこういう車なのかもしれなかった。
信号で止まり、ハンドルへ置いた自分の手を見る。
ふと、頭の中に別の姿が浮かぶ。
ダークグリーンではない。
白いボディ。
黒いレザー内装。
前世で何度も画面越しに見ていた、白をギャングカラーにしていた組織。
その仲間たちの車列へ混じっていた、よく似た高級GT。
何かの仕事へ向かう時も。
夜の街をただ走っている時も。
悠斗はその光景を何度も見ていた。
画面の外から。
自分もあんなふうに仲間と車を走らせてみたいと思いながら。
青信号へ変わる。
悠斗は静かにアクセルを踏んだ。
◇
試乗を終えて店へ戻る。
ヴェローチェを降りると、カイがすぐに聞いてきた。
「どうだった?」
「……乗る前より欲しくなった」
「だろうな」
「なんでそんな嬉しそうなの」
「人が車買うの見るの楽しいから」
「自分の金じゃないもんな」
「そういうこと」
悠斗は苦笑しながら、もう一度ヴェローチェへ目を向ける。
車そのものについては、もうほとんど迷っていなかった。
「白にしたいんだっけ?」
カイが聞く。
「うん」
「なんで白?」
悠斗は少し考えてから答える。
「昔、よく見てた車が白だったんだ。これとちょっと似てて」
「憧れみたいな?」
「……そんな感じ」
それ以上は説明しなかった。
カイも深くは聞いてこない。
「白に黒革なら似合うだろうな」
「だよね」
悠斗はヴェローチェのボディを見ながら、ふと思い出した。
「ちなみにさ」
「ん?」
「これ、白に塗るならいくらくらい?」
「全部?」
「全部」
カイは車体を一度眺める。
「普通の白でちゃんと綺麗にやるなら、2,000ドルちょいくらいじゃね。塗料とか、どこまでやるかでも変わるけど」
「2,000ドルか……」
「車体に比べりゃそこまでじゃない」
「思ってたよりは安いかも」
「ただし」
カイが悠斗を見る。
「お前、塗装だけで終わる?」
「……」
「ホイール」
「変えたい」
「足回り」
「ちょっと気になる」
「ブレーキ」
「今すぐじゃなくても、そのうち」
「ほら」
「だから迷ってるんだって」
カイが笑った。
「もう買うかじゃなくて、買ったあと何するか考えてんじゃん」
「まだ買ってない」
「言ってることと顔が合ってないぞ」
悠斗も笑いながら、店員へ向き直る。
「あの、下取りの査定もお願いできます?」
「もちろんですよ」
「じゃあ、お願いします」
カイが横から口を挟む。
「完全に買う流れだな」
「査定だけだから」
「はいはい」
◇
しばらくして、査定結果が出た。
悠斗は提示された金額を見たあと、駐車場に停まっている銀色のセダンへ視線を向けた。
高額ではない。
ヴェローチェの39,800ドルが一気に安くなるほどでもない。
それでも、確実に足しにはなる。
少なくとも白への塗装代や、その先のカスタム費用の一部は浮かせられる。
「どうする?」
カイが尋ねる。
悠斗はヴェローチェを見る。
次に、銀色のセダンを見る。
「……今日は」
帰る。
そう言いかけた。
けれど、言葉が途中で止まる。
昨日もここで迷った。
今日も朝から販売ページを何度も見た。
わざわざカイへ電話し、一緒に店まで来てもらった。
実際に状態を見てもらった。
試乗した。
下取りの金額まで出してもらった。
それでもまだ迷っている理由は何なのか。
金ではない。
ヴェローチェが欲しいかどうかでもない。
答えなら、もう出ている。
悠斗は銀色のセダンへ歩いた。
運転席側まで来て、足を止める。
初めてこの車へ乗った時のこと。
街を走ったこと。
仲間を乗せたこと。
逃げたこと。
笑ったこと。
ナナが運転して迎えに来てくれた昨夜のことまで、いくつもの場面が浮かぶ。
「……ありがとな」
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
たかが車だ。
それでも、自分にとってはただの鉄の箱ではなかった。
悠斗はセダンの屋根を一度だけ撫でる。
それから振り返った。
夕方の光を受けて、ダークグリーンのヴェローチェが停まっている。
今はまだ、自分の好きな色ではない。
ホイールもそのまま。
足回りもブレーキも、これからだ。
だからこそ、少しずつ自分の車にしていけばいい。
悠斗は店員のところまで戻った。
「すみません」
「はい?」
一度だけ息を吐く。
「やっぱり、これ買います」
店員が笑顔になる。
「ありがとうございます」
横にいたカイも笑った。
「結局買ったじゃん」
「……うん」
「長かったな」
「まだ二日だよ」
「二日間ずっと悩んでただろ」
「それは否定できない」
◇
契約と支払いを済ませる頃には、外はすっかり夕方になっていた。
銀色のセダンは店に残る。
代わりに、悠斗の手にはヴェローチェのキーがあった。
小さなキーを掌の上で眺める。
39,800ドル。
そこから銀色のセダンの下取り分を差し引いた金額を支払った。
決して安い買い物ではない。
手元の金も減った。
それなのに、不思議と後悔はなかった。
「乗らないの?」
カイに言われて、悠斗は顔を上げる。
「乗る」
「さっきからキー見すぎ」
「自分のになったんだなって」
「車買った奴、大体一回それやる」
「カイも?」
「俺は三回くらいやった」
「やってるじゃん」
二人で笑う。
悠斗はヴェローチェの運転席へ乗り込んだ。
黒いレザーシート。
少し低い視界。
試乗した時と何も変わっていない。
ただ一つ。
今はもう、店の車ではない。
自分の車だ。
助手席へ乗ったカイがシートベルトを締める。
「で?」
「何?」
「最初に何する?」
悠斗は少し考えるふりをした。
「白にする」
「即答かよ」
「そこは昨日から決まってる」
「じゃあ塗装終わったらホイール?」
「それは金見てから」
「成長したじゃん」
「まだ買ったばっかだからね」
悠斗は笑いながらエンジンをかけた。
低い音が車内へ響く。
ゆっくりと駐車場を出る。
バックミラーの向こうに、銀色のセダンが小さくなっていった。
少し寂しい。
それでも前を向く。
ボンネットの先に見えるのは、まだダークグリーンの車体。
好みの色ではない。
欲しいホイールもまだない。
カスタムも何一つしていない。
それでよかった。
これから自分の好きな形にしていけばいい。
信号待ちでスマートフォンが震えた。
ナナからメッセージが届いている。
『このバイク、結構よくない?』
昨日見ていたものとは別の中古バイクだった。
悠斗は思わず笑う。
「ナナ?」
カイが聞く。
「うん。まだバイク探してる」
「次はそっちの買い物か」
「買うかは知らないけど」
「お前も昨日までそう言ってたぞ」
「……確かに」
信号が青へ変わる。
悠斗はスマートフォンを置き、アクセルを踏んだ。
ヴェローチェが静かに前へ出る。
前世では、似た車が仲間たちと街を走っている姿を画面越しに眺めていた。
今は違う。
まだダークグリーンだけれど。
まだ何も弄っていないけれど。
この日、悠斗は初めて――本当に欲しいと思った車を、自分の金で手に入れた。
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そして本日はここまで明日も5話投稿します。
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