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8話 初めまして②

 

 ガチャガチャ……カチャン


 カフェ紅亞の裏口を楓杜君が持っていた合鍵で開け、中へと入る。


 休憩室にそれぞれ持ってきていた荷物を置き、二人は私服からこのカフェ紅亞の制服に着替える。


 白のカッターシャツに黒色のズボン。莉恋ちゃんは自身のミディアムヘアーを後ろで一つに括り、楓杜君は少し長い長い前髪を耳へと流し小豆色をしたキャスケットを被る。


 最後に紅葉色のストライプが斜めに三本入っている珈琲色の腰エプロンを付け終われば、ホールへと繋がるドアを開ければそこには昨日とは違う雰囲気の空間が広がっていた。


 店内の照明は全て付けられ、カウンター席から二人席、四人席の机にも等しく暖かな橙の光が照らされていた。


 要所要所にある青々とした観葉植物や、可愛らしい小物、装飾が施された壁。


 全てがマッチし、オシャレなカフェ空間がそこにはあった。


 店内に流れる大きくもなく小さくもない程よい音量の軽快なジャズも、その意識を加速させる一つの要因だろう。


「おはよーございまーす」

「おはようございまーす!」

「お、おはようございます!」

「あら、ふふ。朝から元気ね。皆おはよ〜」


 ホールに存在するカウンターキッチンで、莉恋ちゃんと楓杜君と同じ制服に身を包んだ茉莉奈さんがこちらに気付き手を振る。


 手にはバインダーとペンを片手にそれぞれの器具を指差し確認していた。


 どうやら今は開店前の備品チェック中のようだ。


「よし、じゃ、楓ちゃんはこのカウンター席で座っとってね」

「………え!?」


 そう言って二人は休憩室から掃除道具を取り出してくれば、早々にこのホールの朝の掃除を開始した。


 流石に茉莉奈さんがお店の備品チェックをし、二人が掃除をしている中、一人で悠々とカウンター席に座るというのは些か居心地が悪い。


 流石にそれはと思い、先程の莉恋ちゃん達の行動を真似し休憩室に掃除道具を取りに行こうとした…………がそれは楓杜君の大胆な通せんぼにより阻止された。


「ダメダメ。楓ちゃんはまだ働いてはいけません」

「そうです。貴方は本来休んでいないといけないのですよ」

「えぇ?」


 二人が何を言っているか分からずに首を傾げる。


 確かに、正式にこのカフェでパート社員として働くのであれば、諸々の書類手続きがまだ終わっていないと思われるためホールで調理や接客をする事はまだ不可能というのは分かる。


 しかし、まだ開店していないこの状況でこれから先働くカフェの掃除をしてはいけないというのはどういうことだろう。


「そうよ楓ちゃん」


 備品チェックを一通り終えたのか、茉莉奈さんがバインダーを元の位置に直しこちらへとやってくる。


 すると、私の両肩を持ち、くるりと回れ右をさせられカウンター席へと半強制的に連れて行かれる。


「さぁ、座って?」

「え、あのでも」

「良いから。お掃除は莉恋ちゃんと楓杜君だけでも大丈夫よ。ねぇ?」

「もちのろん!」

「お任せ」


 大丈夫かどうかを確認する為二人へとウィンクを投げる茉莉奈さんに、二人は元気よく返事をし掃除器具を持っていない方の手で勢い良くグッジョブサインを返す。


 そう言われてしまえばしょうがないと思い、私も大人しく茉莉奈さんに促されたカウンターの一番端の席へ座る。


 すると、コルクコースターの上に幾つかの氷と薄黄色の液体が入ったコップを乗せる。


「瀬戸内レモンを使ったはちみつレモンよ」

「ありがとうございます」


 赤のコスモスの模様が描かれた可愛らしいコップに透き通るようなはちみつレモンの黄色が映えてとても綺麗だ。


「本当はね、楓ちゃんには私働いて欲しくないのよ?」

「え?働いて欲しくない?」


 茉莉奈さんから告げられた思いもよらない言葉に、驚きと共に一匙の不安が降り積もる。


「あ、違うのよ!いけない、言葉が足りなかったわね」


 そう言って、手元の作業の手を止め茉莉奈さんは一度深呼吸をする。


 次に向けられた私への視線は、真剣味を帯びた優しい眼差しだった。


「昨日ね、貴方の事情を莉恋ちゃんから聞いた感じ……これは私の予想なのだけど多分楓ちゃん、病院とかには行っていなかったでしょう?」

「はい、そうですね」


 あの時の私は、忙しさにかまけて、風邪をひいた訳でも、どこかを怪我した訳でもなかった為、特に病院へは行っていなかった。


 勿論、常にある倦怠感や失われた味覚をの原因を探ってもらおうと病院に行こうと言う意思も持っていなかった。


「楓ちゃんはね、病名こそ貰ってないけど多分うつ病になりかけてたんじゃないかなぁって私は思うの」

「…………うつ病……」


 茉莉奈さんから告げられたのは、私には程遠いと思っていた病気の名前だった。


「だって、病気の後遺症でもないのに味感じなくなるなんてある??ほら味覚って心身的ストレスによってもなるじゃない」

「はい、莉恋ちゃんからもそれ言われました」

「でしょう?」


 てことはあれか、私は前職の会社で無意識に心が追い詰められ自覚が無いまま心を病み、うつ病になりかけていたのに気づかず日々の生活を送っていたのか??


 でも、それを言われれば全ての事柄に納得も行く。


 味覚を失った半年前から継続的に続いていたこの、体の倦怠感と精神の落ち込み具合。


 え?私………え??


「…………自覚が無かったのねぇ……」


 相当私の表情が困惑に満ち、百面相していたのだろう。


 茉莉奈さんが頬に手を当てこりゃ困ったと言うように眉根を下げ苦笑する。


「ね!?やっぱりヤバい状態だったじゃろ!?」

「やばい状態だったんじゃねぇ」


 一通り机を拭き終わった莉恋ちゃんは正面入口付近にあるレジスターへと向かい、お釣り用の棒金を解しながらこちらの会話に入ってくる。


 ジャラジャラと言う小銭の音が店内に響けば、今度は種類ごとに小銭を分け始める。


「じゃけぇ、本来はね心を病んじゃった人はしばらくお休みするのが一番なのよ?」

「…………成程」

「茉莉奈ねーちゃん。その返事だと楓ちゃん納得してねーよ」

「ぎく」


 モップで床の拭き掃除をしていた楓杜君に心内を勝手に暴かれ、体が固まる。


 うん。確かに心を病んでしまった人が直ぐに社会復帰できない場合が多いというのは情報として知っている。


 がしかし、私は今日この瞬間まで前の会社マジで嫌だったな〜辞めて正解。としか思っていなかった為まさか、自分自身がその分類に分けられるだろうと思ってもいなかったのだ。


 それに加え、恐らく仮に、私が心を病みうつ病になりかけていたのだとしても、なんの奇跡か、それともただの馬鹿なのか。


 意外とその環境下から離れてしまった今では、割と引き摺ることなく清々しい心持ちだと言うのが今の本音だ。


 これも一重に、知らない土地を彷徨っていた私を偶然見つけ、素敵な勤め先とマイホームを提供してくれた莉恋ちゃんと楓杜君に出会ったことも影響しているのだろう。


 出会ってほんの少しの時間しか生活を共にしていないけれど、それでもこの短期間でも私の警戒心を解くほどの人懐っこさと私のツボに刺さる二人のやり取り。


 これだけでも私の荒んでいたであろう心はもう既に癒され始めていた。


「んん〜〜〜…………まぁ、じゃあ分かったわ!」


 何か良い事を閃いたと言うように茉莉奈さんが手を叩き、私に昨日渡したマニュアルを持ってきているかを問いかけてくる。


 昨夜茉莉奈さんからいただいたこのカフェで働くにおいての作業マニュアル。


 アパートにあるだけでは意味が無いと思い、現在はショルダーカバンの中に入れ休憩室で待機中なのだ。


「取り敢えず、まだ正式に働く為には手続きが終わっていないから、それまではこの席でマニュアルを読んだりお店の雰囲気を楽しんで莉恋ちゃんと楓杜君の接客業でも観察していて!」


「観察……この特等席でですか?」


 この位置は、キッチンカウンターの一番端。


 いわば、店内の一番奥の壁側であるからして、前を見れば当然ながらキッチン。


 左から右にある壁までを振り返れば、百八十度このカフェ紅亞の店内全てを見渡せれる為、二人がどこでお客さんにどのように対応していのかが見えるのだ。


「おぉ、職場見学みたい」

「そう、正にそれよ」

「………なるほど」


「うーん………あ、じゃあ分かったわ」


 またもやもう一つ何かを思い出したように茉莉奈さんが表情を明るくさせ頷く。


「楓ちゃん、こっちに引っ越してきて色々手続きがあるじゃない?今の時代スマホでできることも多いからそれをやっちゃいなさい!」

「! 確かに………」


 そうだ。私はこの広島の土地に単身やって来た。


 そして、住むべき住所を私は現在無くしている。


 私は今、紛うことなき住所不定の無職。


 ………なんかこのワード凄いやだな。


 兎に角、私はまずはこの土地に住むならば、住所を確定しなければならない。となれば諸々の手続きを早々に行わなければならない事が山積みなのだ。


 それに、住所を移す時は十四日以内迄には住民票の手続きをし無ければ法令違反となってしまう。


 これは非常に不味い!!


 幸い、住所を移すために解約することは全て無気力ながらもやっていた為後は、必要な契約をまた結び直すだけなのだ。


「という事で楓ちゃん!貴方は一週間後から正式雇用します。それと、これは個人的なお願いなんだけれど、働き初めからの一ヶ月は週二勤務にしてくれないかしら?」

「週二?」


「本当は一ヶ月は休んで欲しいのよ?でも、それはそれで楓ちゃんが居心地が悪いっていうのは何となく察しちゃったから、ね?」


 これくらいのお節介は焼かせて欲しいのよとお願いするように茉莉奈さんは私に優しく問いかける。


 その様子を見ていた、楓杜君も首がもげるのではないかと言うぐらいにコクコクと頷き、同様に莉恋ちゃんもザッツライトとあらぬ方向を指さしていた。


 ここまで私の心の状態を危惧し、私の心身の健康を重んじ無理の無いスケジュールを提案してくれる。


 そんな真摯な態度で優しくされてしまえば断ることなどできない。


 それに、何度も言うが私自身が自覚していないだけで、心身共に非常に弱っている可能性も捨てきれない。


 もしそうなっていたとすれば、急激な環境の変化に心と体がついて行かずに体調を崩してしまってもそれはそれで茉莉奈さんにも莉恋ちゃん、楓杜くんにも迷惑をかけてしまう。


 そんなことが起こるかもしれない可能性があるならば、ここは茉莉奈さんの言うようにそのご厚意に甘えてそうさせて頂くこととしよう。


 幸いに、私の貯金はネカフェ生活をすることも無かった為、まだまだ貯金残高は潤沢だ。


 しばらくの間の週二勤務でも同居する家賃や水道光熱費、食費や交通費等の諸々の折半分は問題無いだろう。


「あ、勿論その間のお昼ご飯も私が負担するからね」

「…………はい??」


 まさかの茉莉奈さんの言葉に耳を疑い、目をかっぴらく。


 マニュアルに書いてあったこのお店でのルール。


 本来の飲食店で働く従業員には、そのお店が定めた時間帯に賄いを振る舞う。


 このカフェ紅亞ではその賄いの代わりとなるのがその日のお昼ご飯なのだ。


 それを対して働きもしない私に???


「いやいやいや、そんなの、無理ですよ」

「無理じゃないです。私がお願いして週二勤務にしてもらうんだから当たり前です!」

「そーだそーだ!」

「大人しくしとけ〜」


 さっきから背後の左右から開店準備をしている莉恋ちゃんと楓杜君の口から飛んで来る野次が止まらない。


 私を思って、気軽に肯定させるための配慮だとは分かっているのだが。それを通り越して有り余る程の高待遇。


 もはや怖いよ。


「楓ちゃんは、もっと心と体が健康になってから。万全な状態になるまで程よい勤務にしてください」

「………はい。ありがとうございます」

「うんうん。じゃあそれまでは大人しく住所変更の手続きとかやっときなね」


 そう言ってまた、パチリとウィンクをかました茉莉奈さんは、背後にある食器棚に手を伸ばし整理整頓をする。


 その様子をじっと眺めながら、手元にあったコップを手に取りはちみつレモンをチビチビと飲み込む。


 少し乾いていた喉に水分が行き渡り口内全体が潤うのが分かる。


 このレモンとほのかな蜂蜜の甘さを舌で感じたいなと願うものの、それはやはり届かぬ想いなのだった。


「ん〜じゃあやっぱ暫くの間は楓ちゃんは何も払わんでな」

「………なっ、」


 莉恋ちゃんは至極当然と言うような声のトーンで、恐ろしい事を言い始める。


 しかしその内容は、楓杜君も潔く同意し勝手にその様に話が進んでいく。


 先程も言ったが、私の銀行口座にはまだまだ潤沢に資金がある。


 茉莉奈さんの配慮によりこの先数ヶ月週二勤務をしたとしても、豪遊などをしない限りは多少の無理は利く。


 流石にそれはダメだと口を出そうにも、私が断ると踏んでなのか、わざと私に口を出させないように付け入る隙を与えられなかった。


 そうだ。そう言えば、この双子は私よりも即断即決で、私よりも強引なのだった。


「ね?楓ちゃんは大人しくしとってな??」

「安静安静」


 じっとこちらを見つめてくる二人のその眼差しは、何の圧もないように見えて、意外と有無を言わさないようなそんな感覚がした。


 なんか、全部私流されてない???


 良いように言いくるめられているような気がしなくもないが、これ以上反論するのも皆の厚意を無下にするようで申し訳ないのでこの提案を有難く受けることとした。


「あ、茉莉奈ねーちゃんもうみっちゃんさん来ちゃったよ〜」

「あらあら、開店五分前……いつも通りじゃね」


 既に開店準備の全てを終えていた皆は、カフェの正面入口でその扉が開くのを待っているお客さんを出迎える為に身だしなみを整える。


 莉恋ちゃんと茉莉奈さんの口調からして、このカフェの常連さんのようだ。


「んじゃ開けるね〜」


 ドアベルが付けられた正面入口の扉を開けて行った莉恋ちゃんは、表に飾られたCLOSEと書かれた看板をひっくり返す。


「みっちゃんさんいらっしゃいませ!」


 溌剌とした声で出迎えた莉恋ちゃんに続き、定位置に付いていた楓杜君と茉莉奈さんも続いてお客様に対応し始める。


 そうして、私は今日このカウンター席の隅っこでカフェ紅亞の一日を名目上のお客として二人の勇姿をしかと目に焼き付ける事となる。

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