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8.包摂

「失礼します」

ゆっくりと3回ノックの音がしてドアが開き、校長室に入ってきたのが娘の英梨奈だったので、英次郎は軽く驚いた。

「どうしたんだ?おまえ、授業は」

書類を見るためにかけていた眼鏡を外し、問い返すと、

「保健室に行きたいって言って、抜けてきたわ。話があるの、パパ。でも、家だと、なかなか二人にはなれないから……ごめんなさい」

そう言って、ぺこりと頭を下げる英梨奈の様子から、英次郎は、ただならぬ何かを感じ取る。

「座りなさい」

とりあえず応接セットのソファを指し示し、英次郎も椅子から腰を浮かせたが、英梨奈は動かない。ほんの数秒、視線を床に落として何かに迷っているようなそぶりを見せたが、やがて意を決したように正面を向き、つかつかと、英次郎が立っている机の前へと歩を進めた。

「あのね、パパ。夏に行った別荘で、これを見つけたの」

そう言って、英梨奈は制服のジャケットの胸ポケットから生徒手帳を取り出し、カバーの裏から小さな紙片を抜き取って、机の上に置く。それが視界に入るや、英次郎は思わず目を見張った。

――梨奈。

梨奈が『La vie en rose』に初出勤した日の夜に、店のママから近所のゲームセンターまで連れて行かれて写真を撮ったんだと、恥ずかしそうに見せてくれた。いい写真じゃあないかと褒めて、じゃああげると言われ、受け取ったものだ。どこに仕舞ったのかさえ忘れてしまっていたが、それがよりにもよって娘の目に触れることになるなど、いったい、どんな悪夢だろうか。

「この人は、誰?」

静かでまっすぐな英梨奈の質問が、部屋の空気をピンと震わせる。

「……この人は、」

人生で、これほどの窮地はそうそうないだろうという場面に追い込まれていながら、英次郎の気持ちは、不思議と凪いでいた。いつか、こういう日が来るかもしれないこと、その時には決して醜い言い訳はするまいと、どこかで、覚悟はできていたのかもしれない。

「パパが、昔、愛した女性だよ」

放った言葉と同じように、まっすぐに返ってきた言葉に打たれ、英梨奈の肩がびくっと揺れた。

「じゃあ……別所くんのことも、知ってたのね」

別所くん……別所奈矢(だいや)。梨奈に生き写しの、あの少年。彼のことを「知ってた」というのは、一体どういう意味だろうか。英次郎の心中は、ここで、大きく波立った。

「別所くんって、1年生の別所奈矢くんか?知ってたって、どう」

「この人!別所くんのお母さんだって、別所くん本人に、聞いたのよ!」

英次郎の質問を聞き終わらないうちに、英梨奈が写真を指さしながら、鋭く返してくる。別所奈矢は、やはり、梨奈の子だというのか。英梨奈との歳の差を考えると、自分と別れた時、梨奈は、既に身籠っていた可能性がある。つまり、父親は自分で間違いはないということなのか。絶句している英次郎を、涙を浮かべた瞳で鋭く見返していた英梨奈が、

「ママを裏切って……酷いわ、パパ」

と、震える声で言う。

「わたしも、もう生まれていたのよね?どうして、こんな……パパのこと、大好きだった。信じてたのに」

英梨奈の台詞がすべて過去形になっているという事実が、英次郎の心を深く抉っていく。しかし、何を言い返すこともできない。兄へのコンプレックスや、家名の重圧、そんなことが理由になるはずもない。どんな言い訳も通じないほどのことをして、家族を裏切った。その事実に、変わりはないのだから。ただ……

「英梨奈。おまえがパパを許せないと思うのは、もっともだと思う。おまえとママに酷いことをしたんだ、弁解のしようがないことは、わかってる。ただ、別所くんのことは……子どもが生まれたなんて話は、本当に、知らなかった。今、彼が一緒に暮らしているのは、実の両親ではないということか……」

最後の方はほとんど独白のように呟く英次郎を、何かを見透かすように眺めていた英梨奈は、ひとつ深呼吸をして荒ぶる感情を抑え、ゆっくりと口を開いた。

「別所くんの実のお母さんは、もう何年も前に、亡くなったんだって。そのあと今の両親に引き取られて、養子縁組をしたんだって……そう、言ってたわ」

娘のその淡々とした、穏やかとさえいえる口調が、既に瀕死の状態である英次郎の精神を、完膚なきまでに激しく打ちのめす。

梨奈が……死んだ……?

いつ。どこで。どうして。様々な疑問詞が冬の嵐のように吹き荒れ、事実を突き止めようとするかのように、無意識に一歩踏み出した英次郎は、ぐらりとよろけて机に片手をついた。どの質問も、投げかけるべき相手はここにはいないし、そもそも、それを誰かに尋ねる資格は、自分にはない。再び絶句するしかない英次郎を、その驚愕と絶望の表情を、やはり無言で見つめていた英梨奈は、どうやら父が今見せている有様は、偽りではないようだと考える。

もし、これが全部、演技なんだとしたら……主演男優賞ものだわ、パパ。

「別所くんのことは、本当に、何も知らないのね」

ああ、と、呻くように頷く英次郎に、英梨奈は、最後の一言を放つことを決めた。

「わかったわ。それは信じてあげる。でも、この伝言は、伝えておきます。別所くんは、自分の家族は、今の両親と産みのお母さんだけだって、そう言ってた。パパからは、何も……謝罪も、何も、必要ないって。わたしも、この部屋を出たら、今の話は二度としない。でも、言っておくけど、パパのためじゃあないわ。わたしは、ママを、守りたいの」

英梨奈の指が、机の上の写真を、ぐいと英次郎の方に押しやる。

「この写真は、パパに返してあげる。さよなら……パパ」

言い終えると同時に踵を返し、静かに部屋を出ていく娘の背中を、英次郎はただその場に立ち尽くし、見送るほかなかった。


校長室での決別から、1週間ほど経ったある日。英次郎が遠方での会合のため、1泊家を空けることになった、その夜のこと。

「英梨奈。ちょっとドライブに行かない?」

夕飯を食べ終えたところで、佐織が言う。

「え、今から?」

「そう、今から。明日はお休みだし、パパもいないしね。ちょっと女子だけで、羽を伸ばしましょう」

そう言って微笑む佐織に促され、英梨奈は、まったく気乗りしないままに、SUV車の助手席に乗り込んだ。ごく小さな音で流れているカーラジオ、その音楽に乗せるように窓外を流れていく光の筋を、英梨奈は、ぼんやりと眺める。やがて車は、街中を巡る高速道路へと上がっていった。

通勤ラッシュの時間はとっくに過ぎているせいか、道はそれほど混んでおらず、小気味の良いスピードで、車は進んでいく。時々現れるカーブを優雅にかわしながら、

「ねぇ、英梨奈。パパと、ケンカしたんでしょう?」

と、おもむろに佐織が切り出す。

「え」

不意打ちに驚いて母の方に顔を向けた英梨奈を、佐織は、顔を正面に向けたまま、ちらりと視線を流して見やる。

「意地悪な聞き方だったわ……ケンカじゃあないわよね。ごめんなさいね、英梨奈。あなたを巻き込んでしまって」

母の言葉に、英梨奈は大きく目を見開いた後、ぎゅっと強く、口を結んだ。母が、まさか“あのこと”を知っている……?動揺が走るのと同時に、父への怒りがふつふつと湧いてくる。あのような酷い秘密を、母に打ち明けたというのか。聞かされる側の気持ちも考えずに、さらに言うなら、母のために胸に仕舞おうと誓った娘の気持ちも考えずに、いったいどこまで、自分勝手なのだろう。そんな英梨奈の感情を見透かしたかのように、

「ママが、パパに詰め寄って、強引に聞き出したのよ。でも、そうね……聞き出したというのとは、少し違うかしら」

穏やかな口調で、佐織は言う。

「ママは、本当は全部、知っていたの。パパに聞く前から、全部、ね」

佐織を見つめている英梨奈の、その黒目がちな大きな瞳が、再び大きく見開かれる。

全部、知っていた……?

一気に混乱に落とされた英梨奈は、呆然と、母の横顔を見つめる。全部……全部って、どういうことだろうか。知っていたって、いつからだろうか。すべてのことがのみ込めず、二の句が継げない。

「ママは、別所くんのことも、知っていたの。正確には、『パパがお付き合いしていた人に、子どもが生まれたらしい』ってところまで……遠くの町で、ひっそりと産んだらしいって、そこまでだったけど」

「どういう……こと……ママ、何を……」

母は、父に愛人がいたこと、その愛人が子どもを産んだこと、その両方を知っていた。知ったうえで、父にも、そして自分にも、黙っていたというのか。父の母である祖母にしたって、不倫のことを知っていて、ずっと隠していたのだ。自分の周囲の大人のうち、いったい誰が、どこまで、本当のことを言っているのだろう。今まで自分が見てきた家族は、すべて偽り……騙しあいの上に成り立っていたということか。英梨奈は、自分の足元が、突然グラグラと揺れ始めるのを感じた。

「あなたを傷つけたくはなかったから、一生、ママだけの秘密にして、黙っておくつもりだった。でも、知ってしまったんだものね。だから、話すわ。あなたには理解できない、つらい話かもしれない。それでも、今のあなたにとっては、変にごまかされる方が、つらいでしょう?」

まっすぐに進行方向を見つめながら語る佐織の言葉には、嘘はないと感じられた。英梨奈もまた、母を守るために、沈黙を守ろうと心に誓ったばかりだったから、自分を守るために沈黙を選んだ母の気持ちも、少し、わかるような気がした。

「……大丈夫よ、ママ。わたし、ちゃんと、全部聞くわ」

娘の言葉に優しい笑みで返すと、佐織は、ゆっくりと語り始めた。


夫の最初の変化は、言語化が難しいレベルの、ごく些細なものだったと思う。話によく聞くような、帰りが遅い日が増えるだとか、使途不明な大金が消えていくだとか、そんなことが起きたわけではない。ただ、何となく、心ここにあらずという空気がうすぼんやりと漂い始めた……そんな、「気のせい」と言ってしまえばそれで済んでしまいそうな、そういった類の変化だった。しかし、それが、ある日を境にぱったりと止んだ。なぜかはわからなかったが、なんとなく、義母が手を回したのではないかと、そういう予感があった。

この人は、いつまで、城ヶ崎のお坊ちゃんなのだろう。

情けない気分になるのと同時に、変な意地が働いた。よくいえば気持ちの優しい、より的確にいうなら甘ちゃんの英次郎は、遊びの恋愛を楽しめるようなタイプではない。だとしたら、学生時代から引く手あまただった自分と、あんなに可愛がっている愛娘を差し置いてまで深入りした相手は、いったいどんな女性なのだろうか。妻とは正反対の、何も持たないような人……そんな気の毒な女性に同情し、思わず手を差し伸べてしまったという線は、いかにも英次郎らしく、あり得そうだ。しかし逆に、百戦錬磨の“本職”の手管にかかって、見事絡めとられたという可能性も、捨てきれない気がする。いずれにしろ、ああ、これなら、「一時の気の迷い」で間違いないのだと、だからこそ早々にこちらに戻ってきたのだと、それを確認して留飲を下げてやろう。そんな気持ちで、佐織は、こっそりと興信所に調査を依頼した。

間もなく報告書が届き、添付された写真には、日本人離れした美しい女性が写っていた。ずいぶんと若そうに見えたため一瞬ぎょっとしたが、さすがに、未成年ではなかったことにほっとする。天涯孤独の身の上であり、すでに勤めていた夜の店も辞め、かなり遠方に越している。そして、その土地では産婦人科に通院しており、どうやら妊娠しているらしいとのことだった。英次郎の様子を見るに、相手の妊娠のことは、恐らく知らないのだろう。知っていれば、英次郎の性格的に、こんなにまっすぐに、英梨奈や自分の顔は見られないはずだ。

実際、この一件後の英次郎は、名実ともに、良き夫であり、良き父親だった。佐織が不審を抱くようなことは二度となく、誠実だった。実家の旅館を継ぐ予定の兄夫婦に子どもが望めないかもしれないとわかって以降、急にこちらに対する圧が強まった実家とも、衝突しないようにうまく付き合ってくれたし、仕事にも一層前向きになり、「人を教え導く」ということに生きがいを見出しているように見えた。そんな穏やかで、安定した日々が過ぎていき、英梨奈の二度目の誕生日が近づいたある日。佐織は一度だけ、家族に内緒の外出をした。夫の不義の子を身ごもっていた女性が、無事に出産したのかどうか。認知の件などで夫に迫ってくるようなことはないのか。それを、確かめるためだった。

報告書に記されていた場所、『La vie en rose』と書かれたプレートがかかっているドアには、鍵はかかっていなかった。体が通るくらいに開き、ぼんやりと薄暗い店内に「ごめんください」と声をかける。間もなく店の奥から出てきた女性は、佐織よりはかなり年嵩に見えたが、美しく整えられた髪や爪は手入れが行き届いていて、想像していた印象より、ずっと上品だった。

「まだ、開店時間じゃあないんだけど……お客には見えないし、キャストの面接を受けに来たってわけでも、なさそうね」

こういう声を、「酒焼けしている」というのだろうか、ハスキーな低めの声で、女性が言う。

「突然申し訳ございません。以前、こちらにいらっしゃった伴場梨奈さんのことで、お話が伺いたくて参りました」

梨奈の名前を聞くと、きれいな弓なりに引かれた女性の眉が、くっと持ち上がった。そして、大きなため息をひとつ。

「あの子に用がある人って、どうしてこう、いつもこの時間に、突然来るのかしらね」

どうぞ、と促されて、店の奥に入る。照明は元からこのくらい暗いのか、開店していないからなのかはわからなかったが、内装は全体的に落ち着いていて、すっきりしている。勧められるままソファに座って、女性と向き合った。

「梨奈ちゃんのことが聞きたいって?あなた、もしかして、城ヶ崎さんの奥様かしら」

女性の口から城ヶ崎の名が出るのを聞き、かつて、確かに夫はこの店に通っていたのだと、突きつけられる。その緊張が顔に出てしまったか、

「でも、もうご存じだと思うけれど」

と、女性の少し険のある声が、畳みかけてくる。

「あの子は、とっくにおたくの旦那さんとは別れて、姿を消したの。わたしですら、もう連絡も取ってないのよ。どこにいるのかもわからない。今さら蒸し返して、慰謝料請求かしら?お止めになった方がいいと思うわ。そうでないと、ことが表に出ないようにって、わざわざご足労いただいて骨を折られた大奥様の立つ瀬が、なくなるんじゃあなくって?」

やっぱり、義母がここに来ていたのか。あまりにも予想通りの展開に、場違いにも、笑ってしまいそうになる。

「いいえ、今さら蒸し返して何かをしようなんて、そんなつもりはございません。ただ、梨奈さんは身寄りのない方だったと聞いて……お腹のお子さんのことを、お一人でどうされるおつもりだったのか、聞いておられないかと思ったもので」

半分は言葉通り、半分は鎌をかけるつもりで、佐織はそう言った。きれいに足を組み、少しのけぞるような姿勢で座っていた女性は、佐織の言葉を聞いてぽかんと口を開け、次いで、テーブルに両手をついて身を乗り出す。

「ちょっと待って……あなた、何を言い出すの?梨奈ちゃんが、妊娠してた……?」

「えぇ。とある筋からの情報で、確かなことです。ご存じなかったのですか」

待って、そんな、嘘よ……記憶を探るように、きょろきょろと視線を彷徨わせながら呟く女性を見て、梨奈が妊娠のことを誰にも告げずに姿を消したのだろうということは、確信してよいように思えた。

「……あなたが、どこまで調べているかは知らないけどね」

やっと気持ちを取り戻したらしい女性が、毅然と言う。

「あの子が妊娠していたっていうのが本当だったとしたら、きっと、産んで育てていると思うわ。あの子、誰よりも、家族を欲しがっていたから。身寄りがなくて、独りぼっちだったからこそ、家族の大切さは身に染みてた。城ヶ崎さんとの関係を潔く清算したのも、『娘さんからパパを奪いたくない』って、そう言って……だから、もう、ほうっておいてやってくれないかしら。奥様としては、納得できないことかもしれないけれど、お怒りなら、うちに帰って、ご自分の旦那にぶつけてちょうだい。今さら、あなたたちに迷惑をかけるようなこと、あの子が、するはずがないんだから」

まっすぐに自分を見据えながらそう言い切る女性を見ていると、伴場梨奈という人物がどれほどこの人に信頼され、可愛がられていたのかがわかる気がした。

天涯孤独の身で、家族を持つことに強く憧れていながら、妻子ある男性を愛した。やがて身籠るも、相手の家庭を壊さぬよう黙って身を引いて、誰にも何も伝えず、一人で産み育てる決心をする。恵まれた境遇とは言い難い人生だが、それでも、与えられた場所で、その時々を、懸命に、自分の持てる力で生き抜いてきた。伴場梨奈という人が、そういう人物だったからこそ得られた、信頼と愛情なのだろう。

……そんな人だったから、あなたも惹かれたのね。英次郎さん。

「承知いたしました。突然押しかけて、不躾な話をしてしまい、申し訳ございませんでした。伴場梨奈さんには、今後一切、関わりません。お約束いたします」

深々と礼をして、佐織は、店を後にした。


『La vie en rose』から戻ってすぐ、義両親とともに少し遠方の幼児向けのテーマパークへ出かけている英梨奈が帰ってくる前に、佐織は、キッチンで報告書のすべてを燃やした。梨奈は、たった一人ですべてを抱えて英次郎の元を去った。ならば、すべてをのみ込んで英次郎の側にいることが、妻の矜持ではないか。そう覚悟を決めれば、いろんなことを冷静に俯瞰することができた。夫の英次郎と娘の英梨奈、それぞれが成熟・成長していく姿を側で見守り、日々を重ねるなかで、「かつてそんなこともあった」と穏やかな気持ちで思い起こせるところまで、ようやく漕ぎつけていたというのに。まさか娘の英梨奈を通して、夫の道ならぬ恋の落とし子に向き合うことになるなどとは、考えてもみなかった。

夏に別荘に行った後、英梨奈の様子がおかしくなったことには、すぐに気がついた。何かを懸命に隠そうとしているように見えたから、不用意に探ることはせずに、いつも以上に気を配って見守っていた。あまりに続くようなら、英次郎にも相談しようか。そう考えていた矢先、夫の様子までが、明らかにおかしくなったのだ。思春期の娘と父親の確執……そんな、「よくあること」としては片づけられないものを感じ、佐織は、英梨奈と何かあったのかと、英次郎に詰め寄った。

「本当に、何でもないんだ」

英梨奈はすっかり眠ってしまった、深夜のリビング。自分の向かいに座って、頑なに認めない英次郎を陥落させるために、佐織は、もしかしたらと感じていたことを口にする。

「別所奈矢くんのこと、なんでしょう?」

その名を聞くや否や、夫の顔色がみるみる変わる。やはり、そうなのだ。

少し前、佐織が外出先から家に帰ると、通常であればまだ学校にいるはずの娘のものと、あと2足、学校指定のローファーが玄関にあった。程なくして2階から、三人の足音が階段を下りてくる。

「あっ、ママ」

「叔母さん、こんにちは」

玄関前のホールで声をかけると、驚いた様子の英梨奈の横で、淳一郎が笑顔で挨拶を返してくる。そしてもう一人。その少年の顔を見た瞬間、佐織の脳裏に、かつて興信所の報告書で見た梨奈の顔が、はっきりと蘇った。

「あなたたち、どうしたの?こんな時間に、珍しいわね」

佐織が返すと、英梨奈と淳一郎は思わずといった様子で顔を見合わせたが、

「お邪魔しています。1年の別所といいます。もうすぐ生徒会の改選があるので、立候補について城ヶ崎先輩に相談したいと、クラスメイトの淳一郎くんにお願いしたんです」

と、もう一人の少年が、すっと半歩前に出て、そう言った。

「まぁ、あなたが、別所くん」

入学式の日、英梨奈が気にしていた男の子。ついに来た娘の初恋かと、少し面映ゆい気持ちで話を聞いていた。まさか、その彼が、梨奈の顔で、目の前に現れるとは。

「お噂はかねがね、英梨奈から聞いているわ」

心の波立ちを一切感じさせない、凪の笑顔で佐織がそう言うと、

「ちょっと、ママ、余計なこと言わないで」

と、英梨奈が焦ったように言い、

「噂?噂って何さ、英梨奈姉さん。奈矢のこと、家で何か話してるの?」

と、わざとらしいくらいに調子よく、淳一郎が言う。別所少年は少し困ったような顔で、胸元のネクタイを、シャツの襟ごとぐいと引っ張る仕草をしたが、それが英次郎の癖にそっくりで、佐織は戦慄した。

そのことを伝えると、観念したように、英次郎は深いため息をついた。

「すまない、佐織。英梨奈まで、巻き込んでしまって……」

英次郎から、娘との確執の顛末を聞き終えた佐織は、やれやれ……と微笑む。

「ねえ、英次郎さん。あなた、もしかしたら、写真を持っていたことすら、忘れていたんじゃあない?」

図星をつかれたという驚きの表情で自分を見ている英次郎。やっぱりそうなのね、と笑って、佐織は、本当はいろんなことを知った上で、全部のみ込んでいたのだということを、英次郎に告白した。

「あなたが、城ヶ崎という家名に縛られて苦しんでいたのと同じように……わたしも、自分はお飾りなのではないかって、ずいぶん、悩んでいたのよ」

佐織が出会った当時、城ヶ崎英次郎は、その家柄を抜きにしても魅力あふれる人物だった。すっきりと整った容姿であり、聞き上手で人当たりがよく、若さゆえの頼りなさはあるものの、何事にも真面目に取り組む熱意があることが、何より、佐織には好ましく思えた。そんな英次郎に見初められ、結婚し、娘も生まれた。まさに順風満帆、前途洋々。しかし、そんな日々において、ことあるごとに、「これで、もう何も言われずに済むはずだ」「兄さんと比べられずに済む」と口にする英次郎を見ていると、妻の自分ですら、兄より優位に立つための「トロフィーワイフ」なのではないかという不安が、拭いきれなくなった。だからあの日、学生時代の友人との会話で、「わたしだって、打算をもって城ヶ崎家に嫁いだのだ」というポーズをとって、強がってしまった。まったく本心ではない、本当にたまたまのその会話を英次郎に聞かれていたとは、なんという皮肉だろうか。

「そうだったのか……」

苦悶の表情で俯く英次郎。今また新たな後悔が、彼を責め苛んでいるに違いない。

「でも、今は違うわ」

佐織は、慈母の微笑みを湛えながら、言う。

「あなたがまっすぐに、わたしと英梨奈を愛してくれていることを、心から信じているから。そう信じさせてくれたのは、英次郎さん。あなたに、他ならないのよ」

少し俯いて、黙って佐織の言葉に聞き入る英次郎の、強く引き結んだ唇が震えた。

「そして、別所くんには、別所くんの家族がいる。これまでには、きっと大変なこともたくさんあったと思うけれど、今、家族と幸せに暮らしているのなら、あなたが気に病むことは、何もないと思うわ。第一、別所くん本人が、それを望んでいないんでしょう?」

雲間からまっすぐに伸びる光芒のように、佐織の言葉が、英次郎に降り注ぐ。

「血の繋がりだけが、大切なわけじゃあない。一緒に積み重ねた時間と、お互いを想う気持ちが、家族を作っていく。そしてその形は、きっと、ひとつではないのよ。そのことを、別所くんと、梨奈さん……そして、あなたに、教えてもらったわ」

「……ありがとう」

テーブルの上に両の手のひらをつき、ぐっと頭を下げるようにしてそう呟く英次郎の瞳から、パタ、パタと微かな音を立てて、テーブルに雫が落ちる。

優しさと弱さは、背中合わせなのかもしれない。でも、その弱さから逃げずに向かい合うことができれば、それはきっと、もう、弱さではない。

この人と、これから、もっともっと、家族でいよう。佐織は、テーブルの上で強く握りしめられた英次郎の拳に、そっと両手を重ねた。


佐織が話し終えると、しばらく、車の中には沈黙が満ちた。抑えたボリュームのカーラジオくらいでは制しきれないほどの、密度の濃い沈黙だった。やがて、英梨奈が鼻を啜って、引っ張ったパーカーの袖口で涙を拭っているのが、佐織の目の端に映った。

「……ママって、すごい人ね。尊敬する」

俯いたまま、涙声で、英梨奈が言う。

「まだ……いろんなことに、正直、気持ちが追いつかない。でも……ママが、パパを許しているんだったら、わたしも、そうしたい。少し、時間はかかるかもだけど……」

訥々と、ひとつひとつ置くように、英梨奈は言葉を紡いでいく。

「それで、いいと思うわ」

出口が近づいたことを示す標識をとらえ、左車線に移動しながら、佐織が明るい声で言葉を返す。

「パパには少し、お灸を据えてやらなくちゃ。そんなにすぐに許しちゃったら、もったいないわ」

フフフ、と不敵に笑いながら、ちらっとだけ助手席に投げた佐織の視線と、その横顔を助手席から見上げていた英梨奈の視線が合った。オレンジ色の高速道路の明かりが断続的に通り過ぎる、その強かな美しさを湛えた母の顔を見つめながら、英梨奈は考える。

まだまだわたしは、ママにはかなわない。そしてパパは……きっと、一生かなわない。

それは、これまでに知ったどんな事実よりも、絶対に間違いないことだと思えたのだった。

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