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6.暗澹

入学式を終えた日の、家族での夕食の席でのこと。城ヶ崎英次郎は、娘の英梨奈の口から「別所くん」という名前が出たので、箸でつかんでいた若竹煮の筍を落としそうになった。

「でね、淳が急に手を払うもんだから、わたし、転びそうになっちゃって。それを助けてくれたのが、新入生代表の挨拶してた、別所くんだったの。近くで見たら、女の子みたいに本当に綺麗な顔で、びっくりしちゃった。でも、背が高くてね、声なんかは結構、男らしいのよ」

「まあ、そうなの。ずいぶん素敵な子じゃない……淳くんがなんだか不機嫌だったのは、そのせいかしら」

含み笑いをしている母に、どうしてそこで淳が出てくるの、と聞き返している娘を視界に入れながら、英次郎は、登壇した別所奈矢(だいや)の姿を思い起こす。

――梨奈。

もう10年以上も前、これ以上ないくらい酷い別れ方をした道ならぬ恋の相手、伴場(ばんば)梨奈。明るい栗色の髪、透けそうなほど白い肌、知性の輝きを奥に宿す暗灰色の瞳……別所奈矢のその姿は、まさに、梨奈に生き写しだった。別れて以降、一度も会っていない梨奈がそこに現れたのかと見紛うほどで、瞬間、カッと頭に血が上り、同時に手足が一気に冷えるような感覚に陥って、思わず椅子から立ち上がりそうになるのを抑えるのに必死だった。

「でもね、そんなはずはないんだけど……別所くんって、なんだか初めて会った気がしないのよね」

娘の台詞が、英次郎の回想をぶった切る。

「あらまぁ、英梨奈ったら。あなた、それは、一目ぼれってこと?ママも会ってみたかったわ、別所くん」

「ちょっともう、やめてよママ!違うの、そんなんじゃあないんだってば!」

少し面白がっている佐織に、顔を真っ赤にして反論している英梨奈。娘もいよいよそういう年ごろかという感慨以上に、かつて自分が惹かれた相手とそっくり同じ見た目の少年に、娘が惹かれているという符合が、英次郎の心胆をしんしんと冷やしていく。

入学式後に恐る恐る再確認した調書では、奈矢の同居家族は両親のみ。一級建築士で大手ゼネコン勤めの父と、専業主婦の母。名前はもちろん梨奈ではなく、年齢もまったく違う。居宅の住所には、住宅地として人気のエリアにあるマンションの、高層階が記されていた。天涯孤独だという梨奈の言葉に嘘はなかっただろうから、この別所家が親類縁者ということも考えづらい。奈矢の周囲に梨奈の気配は微塵もなく、要するに、他人の空似だ。しかし、「奈」の字を「だい」と読ませることは珍しいといえるし、単なる偶然で片付けるには、やはり姿が似すぎている……

「ねえ、パパ、聞いてる?」

英梨奈の、ちょっと咎めるような口調に我に返った英次郎は、

「ごめん、なんだい?」

と、慌てて意識を娘に戻した。

「もう、やっぱり聞いてなかったんだ」

ちょっとむくれている娘は、次の誕生日に何を買ってもらうかという話をしていたようで、別所奈矢の話題はとっくに終わっていたようだ。

「買い物は、どうせママと行くんだろう?パパはただのスポンサーだ」

と英次郎が返すと、

「いじけないでよ、パパ。連れて行ってあげてもいいけど、わたしたちの買い物が長いって、いっつも文句言うじゃない。ねぇ?」

英梨奈が母に目配せして、母娘でころころと笑う。

別所奈矢と梨奈に関係があろうとなかろうと、今、自分が守るべきものは、目の前にある。「まいったな、一本取られたよ」と穏やかに返しながら、英次郎は、あの日心に誓った決意を、改めて噛み締めていた。


◇


「叔父さんの別荘?」

日中の部活動の疲れがどっと出る中、クーラーのきいた自室で大量の宿題を粛々とこなしていた淳一郎が、耳に当てたスマートフォンに向かって言う。

「そう、ママの実家の近くに、去年の冬に買ったのよ。パパったら、急にがんばっちゃってどうしたのって感じだけど」

英梨奈の母方の実家は、老舗の、大きな温泉旅館だ。一族で押しかけても十分に宿泊できそうな家があるのに近くに別荘を購入するというのは、確かに少し、奇妙な話かもしれない。

「冬休みは、パパだけが様子を見に行ったんだけど、雪がすごくって、結構大変だったみたい。ちょっと山手の方だから、夏の方が涼しくていいんじゃあないかって話なの。それでママがね、里帰りのついでに送ってあげるから、淳も誘ったらどうかって。たぶん、1泊か2泊くらいしかできないけど、どう?」

電話の向こうで、英梨奈が言う。そういえば今年の正月、父と酒を飲んでいた叔父が、「向こうは、やっぱりまだ子どもができないらしくてさ。いずれは、自分たちの手元に戻したいって、たぶん、そういう気持ちがあるんだよ。まあ、それでも、おれが現役の間は、大丈夫じゃあないかと思うけど」と、珍しく愚痴めいた話をしていたのをたまたま耳にした。当時は何の話だろうと思ったくらいで流してしまっていたが、恐らく別荘購入直後の会話だったのだと思いあたると、何ともいえない気持ちになる。とはいえ、山の別荘の魅力は、それとは別問題だ。

「いつ行くの?」

「お互い部活もあるし、大会もあるでしょ。わたしは夏期講習もあるから、全部が休みになるお盆の期間しかないわ。何か予定ある?」

お盆には、毎年恒例で親族の集まりがあるが、その予定は英梨奈も同じだ。それ以外の予定として決まっているものはなかったが、淳一郎の脳裏に、奈矢の顔が浮かんだ。屋内のプールで練習している奈矢と、屋外のテニスコートを走り回っている淳一郎は、夏休みに入ってから、めっきり学校で会わなくなってしまった。メッセージアプリで連絡は取っていたものの、強化選手に選ばれている奈矢も疲れているのだろう、画面上のやり取りも、ごく短時間で終わるのが常になっていた。

「淳と泊まるなんて、いつぶりかしら。ずうっと前にキャンプに行ったときは、せっかくだから子どもたちはテント張って寝ようってなったのに、淳ったら、お母さんがいないとヤダって泣きだしちゃって」

電話の向こうで、英梨奈が思い出し笑いをしている気配が伝わってくる。幼いころの黒歴史を掘り起こされそうになった淳一郎は慌てて、

「そんなことよりさ、ぼくら以外には誰が行くの。佐織叔母さんと、英次郎叔父さん?」

と、無難な質問を繰り出した。英梨奈は、あぁ、それがね、と、回想から戻ってきて、

「パパは、付き合いのゴルフかなんかがあって、都合がつかなそうだって言ってたわ。だからたぶん、わたしと淳と、ママだけ。あ、でも、ママはもしかしたら実家に泊まるかもだから、そしたら、夜は淳とわたしだけかもね」

と、さらりと言う。その英梨奈の何気ない一言に、淳一郎の心臓が、ドクンとひとつ、大きく拍を打った。

英梨奈姉さんと、別荘で、二人きり……?

「キャンプの時は、結局、淳が万里伯母さんたちのロッジに戻っちゃったけど、今回は、さすがに大丈夫でしょ?」

おかしそうに笑いながら茶化してくる英梨奈に、当たり前だよ、と強めに言い返す淳一郎の心の中で、別荘側の天秤の皿が、ガタンと大きく下がる。ここ最近遠ざかっていた、浮足立つような感覚。英梨奈が中学に上がったあたりから共通の予定が減っていき、だんだんと個別の予定で忙しくなって、「一緒に何かをする」機会はめっきり減っていた。そして、年を追うごとに、少女から女性へと如実に変化していく年上の従姉は、淳一郎にとって、近くて遠い憧れの存在だ。そんな英梨奈と二人で過ごす夜に、久しぶりに何をしようか、せっかくだからデジタルではなく、ボードゲームやカードゲームを持って行こうか……と、気が逸る。

――ごめん、奈矢。夏休みが終わったら、また会おう。

しかし、淳一郎は後々、この時の選択を、酷く後悔することになるのだった。


8月中旬のその日、佐織が運転するプラチナゴールドのSUV車は、普段であればやっと子どもたちが起き出す時間に、自宅を出発した。屈託なく姉ポジションをとっている英梨奈と、弟ポジションに甘んじながらも軽いざわつきを抱えている淳一郎を乗せ、行程を進む。子どもたちは、佐織の実家には帰りに顔を出すことにして、まずは別荘へと向かう算段だ。時間とともに交通量が増え、昼食時に立ち寄ったパーキングエリアはかなり混雑していたが、佐織が用意していた自家製ハーブチキンのサンドイッチ(これは淳一郎の好物だった)のおかげで、食事には困らなかった。やがて窓外に山の景色が広がるインターを降り、別荘に向かう手前の町で、食材を買い込む。といっても、休みの都合で結局1泊しかできないことになったため、レトルトカレーやパックご飯、個包装のパンやペットボトルの飲み物くらいだ。

「お風呂上りにアイス食べたいけど……今買っても、着くまでに溶けちゃうわね」

残念そうに言う英梨奈に、「こっちのイチゴオレとか、おいしそうだよ」と勧めながら、「風呂上り」という単語に、淳一郎の心拍はやや早くなる。お互い一人っ子で、家もそう遠くなかったことから姉弟のように育った二人であり、淳一郎とて、本当の意味で英梨奈を異性として意識しているわけではない。が、この年代に差し掛かったことで、「英梨奈姉さんと一緒に歩いていたら、人からはどう見えるのかな」などと、やはり多少は考えてしまう。しかし、英梨奈だけでなく佐織の中でも、淳一郎はいまだに「可愛い淳くん」のまま、更新されていないのだ。

そんなちょっとちぐはぐな関係性の認知を絡ませながら、三人がたどり着いた城ヶ崎英次郎家の別荘は、木々の緑に映える白い壁と重厚な木枠が印象的な建物だった。

「すごーい!素敵!」

車を降り、キラキラした目で建物に駆け寄っていく英梨奈の後を、敢えてゆっくり追いながら、淳一郎も気持ちが上がっていくのを感じる。こんな、ドラマにでも出てきそうな美しい森の別荘で、星風学園のマドンナである英梨奈と過ごしたと話したら、クラスメイト達はいったいどんな反応をするだろう。

「これって暖炉よね?今度は冬にも来てみたいわ。ね、ママ」

家中のドアを開けて部屋を見て回りながら、英梨奈がはしゃいだ声で言う。

「そうね、その時はパパも来られるといいわね」

穏やかにそう返しながら、エアコンや冷蔵庫の稼働状況、キッチン・浴室・トイレといった水回りのチェックをしていた佐織は、

「特に問題なく使えそうだわ。じゃあ、わたしはおばあさまのところに行ってくるけど、お夕飯はあなたたちだけで大丈夫ね?」

と、娘と甥の顔を交互に見た。

「もちろん平気よ。ママは、おばあさまたちと、ゆっくりしたらいいわ」

「叔母さん、運転ありがとうございました。それと、サンドイッチも美味しかったです」

そう、よかった、と微笑んだ佐織は、暖炉の前のソファの上に置いていたハンドバッグを取り上げる。そして、「戸締りには十分気を付ける」こと、「万が一トラブルがあれば別荘地の管理棟に電話をかけて、管理人に伝える」こと、「トラブルではなくても、何かあればすぐに戻るので、速やかに連絡する」ことについて、二人に改めて念押しし、車で30分ほどの距離にある実家へ向けて、別荘を後にした。

残った英梨奈と淳一郎は、それぞれに今日自分が眠る部屋を決め、荷物を運びこむ。高い天井と窓一面に見える鮮やかな緑は非日常感に溢れていて、それだけでわくわくした。その勢いに任せて別荘の周囲を散策した二人は、いつもより酸素が濃く清涼な空気に触れ、都会ではあまり聞かない種類の蝉の声に聞き入り、木々の間を優雅に飛ぶ大きなアゲハ蝶に驚く。そんなことをしている間にすぐに夕方になり、食事をすることになったが、普段、あまりキッチンに立たない淳一郎でもパックご飯をレンジで温めることはできたし、鍋の湯で英梨奈が温めてくれたレトルトカレーは、いつもの何倍も美味しい気がした。そうして、楽しい夜が更けていく……はずであったのだが、陽が落ちてしまうと窓の外は漆黒の闇となり、息の音さえも気を遣ってしまいそうな静寂があたりを満たしてくると、なぜだか妙に、不安な気持ちになる。

「ねえ、淳。何か音楽でも聴かない?」

入浴後、淡い藤色のパイル地のタンクトップとショートパンツのセットアップに着替え、薄手のパーカーを羽織って部屋から出てきた英梨奈が、同じように静けさを持て余したのか、そう言った。確かに、暖炉のあるリビングスペースには、立派なオーディオセットが据えてある。

「うん、いいよ。あれって、ブルートゥース対応なのかな」

同じく入浴を済ませ、ライトグレーのスウェットTシャツとハーフパンツ姿でソファに座り、スマートフォンを触っていた淳一郎が立ち上がると、

「違うわよ。せっかくだから、あれを聴いてみましょ」

と、英梨奈が、オーディオセットと90度の壁にある棚を目で示す。ガラスの扉が照明を反射しているのではっきりは見えないが、棚の中には、30センチほどの高さで厚みの薄いケースがぎっしり並んでいるようだ。

「レコードかあ。ちょっと面白そうだね」

二人で棚のガラス扉を開け、中を覗く。誰でも聞いたことがあるような有名どころからちょっとマニアックな曲まで含めたクラシック、中学生にはまったくわからないジャズ曲などのレコードばかりでやや鼻白んだ二人だったが、下段の方には、CDが並んでいることに気がついた。

「あっ、ねぇ、これって」

「Chariotじゃん」

二人がほぼ同時に見つけたアルバムCDは、棚の隅の方に並んでいた。彼らが生まれる前にデビューして短期で解散してしまったバンドであったが、英次郎の趣味から英梨奈がはまり、その影響で淳一郎も好きになった。その結果、淳一郎と奈矢の間を取り持ってくれた存在でもある。

「これにしましょ」

英梨奈が取り出したケースを淳一郎に手渡しながら言う。受け取った淳一郎がオーディオセットの電源を入れ、CDをセットすると、木製の洒落たスピーカーから、やわらかい音質で曲が流れ始めた。

「こんなふうに聞くと、Cherry Blossomもなんだか新鮮ね」

ソファに深く身を預けながら、どこか満足そうに英梨奈が言う。ほんとだね、と同意しながら、眺めていた歌詞カードをケースに戻そうとした淳一郎の手元から、ひらりと小さな紙切れが舞う。どうやら、ケースのカバー裏の部分に挟まっていたものが落ちたようだった。

「なんだこれ」

床に落ちた紙を拾った淳一郎の動きが、ぴたっと止まる。証明写真よりやや大きめの、プリントシール機で撮られたと思しき写真。一目で夜の世界で働く人だとわかるような、煌びやかな衣装を着た若い女性が少し照れたように笑っていて、彼女が逃げないようにだろうか、背後に隠れて肩あたりを掴んでいる別の女性の、華やかなネイルで飾られた手が写っている。

「ねえってば、どうしたのよ、淳」

立ち尽くしたまま、何度呼び掛けても反応がないことを訝った英梨奈が近づいてきて、淳一郎の手元を覗く。

「え……っ、別所くん……?」

写真を見た英梨奈の口から、思わずといった調子で言葉がこぼれる。

抜けるように白い肌、明るい栗色の髪、長い睫毛に縁どられた、切れ長の暗灰色の瞳。派手な化粧で彩られてはいるものの、写っている女性は、別所奈矢にそっくりだった。

どうしてこんなものがここに。誰だろうこの人は。なぜこのCDのケースから。どの疑問についても、突き詰めるととんでもない何かに触れてしまいそうな恐ろしい予感が押し寄せ、思考を進めることができない。二人とも、何も言えず、動けなかった。

どのくらいそうしていたのか、

「淳」

と、自分を呼ぶ従姉の、今までに聞いたことがないような悲壮な声音に、淳一郎はやっと我に返った。スピーカーから流れる曲は、いつの間にかずいぶん先のものに変わってしまっている。

「その写真、わたしに預からせて。それと、このことは……誰にも言わないで。ママにも、伯父さまたちにも。お願い」

黙って頷いて、淳一郎は写真を英梨奈に手渡した。小さな声で「ありがとう」と言う英梨奈は酷く弱々しく見え、淳一郎の胸はぎゅっと潰されそうになる。どうして、CDを聴くことにしてしまったのだろう。どうして、歌詞カードなんて触ってしまったのだろう。どうして、別荘についてこようなんて思ってしまったのだろう。自分の決断のひとつひとつが、ただただ、恨めしい。英梨奈との「二人だけの秘密」が、まさか、こんな重苦しいものになろうとは、この旅の初めには想像すらできなかった。しかし、非情な現実は勝手に進んでいき、もう、後戻りはできないのだ。

淳一郎は、窓の外に広がる闇よりももっともっと暗い帳が、自分の周囲を覆いつくしていくのを感じていた。

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