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5.受容

三人で梨奈を訪ねた日から程なくして児童相談所職員の家庭訪問があり、改めて別所家で暮らすことについての意見を聞かれた奈矢(だいや)は、「孝大さんと彩さんと、ずっと一緒におりたいです」と、はっきりと言うことができた。間もなく正式に別所夫妻に委託され、何度か園庭開放で訪れていた幼稚園へは、通称「別所奈矢」として通うことになった。年長クラスからの入園であり、「直近の集団生活経験は夜間の託児所であった」ことや、「一時保護所では、他の子どもたちにはあまり関わろうとせずに過ごしていた」ことを聞いていた別所夫妻は、ほんの少しだけ、奈矢が園に馴染めるかどうかを心配していたのだが、もちろんそれは杞憂に終わることになる。最初こそ少し遠慮がちなところは見られたものの、機転が利き、言葉が巧みで、外遊びでは何をやらせても誰よりもうまくこなせる奈矢は、たちまちクラスの中心として認められ、受け入れられた。

そして、そのまま地域の小学校に就学した奈矢が、5年生に上がる春のこと。

「奈矢。ちょっといいか」

春休みになって間もない、日曜日の朝。朝食を食べ終え、家族で協力しながら洗濯や掃除などの一通りの家事を終えたところで、声がかかる。

「なに?父さん」

目で座るようにという合図をする孝大さん――“父”に返事をしながら、奈矢がダイニングテーブルの椅子を引く。そこへ、彩さん――“母”もやってきて、三人それぞれ、いつもの自分の席に着いた。そこで父母は黙って目配せをし、頷いた父が、口火を切る。

「実はな、奈矢。父さん、この町でやっていた仕事が、もうじき終わることになったんだ。そうしたら、転勤になる。もともと住んでいたところに、戻ることになるんだ」

「……え?」

事態がすぐには飲み込めず、奈矢の思考が止まる。生まれ育ったこの町で、三人で暮らしていく。それがもう当たり前になりすぎていて、この先も、何の問題もなく続いていくものだと思い込んでいた。

「いきなりで、びっくりしてるでしょ?もっと早くから、伝えることも考えていたんだけど……いろんなことをきちんと決めてからにしようって、お父さんと話してね。驚かせちゃって、ごめんね」

母が言うのを聞いて、直近で児童相談所の人たちに会った時のことに思い至った。これまで、学校の長期休みなどに家庭訪問があっていたのだが、その日は相談所に出向くことになり、両親と職員だけの面接時間が、結構長く取られていた。

「奈矢、前に、お母さん……梨奈さんのお骨は、奈矢が大人になるまで代わりに預かっておくって言われた話、覚えてるだろ?」

「うん」

奈矢は、ひとつ深く頷く。まだ、今よりもずっと幼かったが、あの時のことは、はっきり覚えている。亡くなった母は、たった一人で、どこにいるんだろう。そんな不安から救ってくれたのが、今、目の前にいる二人だ。奈矢の実母、梨奈の遺骨が保管されている寺にはたびたび三人で訪れていて、間もなく来る奈矢の11回目の誕生日の報告にも、毎年恒例で行く予定のはずだ。

「奈矢が大人になるには、まだあと何年もかかる。でも、奈矢の代わりに、大事なことを決められる人……それを、親権者っていうんだけど、親権者がいれば、奈矢の代わりにできることがたくさんあるんだ。だから、父さんと母さんは、奈矢の親権者になりたいって、そう思ってる」

「親権者……」

カレンダーと一緒に壁に提げてあったメモ用紙を取ってきて、父がボールペンで書いていく文字を目で追う。耳慣れない言葉だが、何か、とても大事な、大きなことであるということが、その漢字からひしひしと伝わってきた。父さんと母さんが、親権者になる。それはつまり、どういうことなのだろうか。不安とも期待ともつかないざわめきが、奈矢の心を揺らす。

「そう。父さんと母さんが奈矢の親権者になる手続きのことを、養子縁組っていうんだ。その中でも、特別養子縁組というのを、したいと思ってる」

養子縁組、特別養子縁組。”親権者”の下に、新たに書き加えられた文字列を眺める。養子縁組は、なんとなくわかる。正式に親と子になる取り決め、みたいなことだろう。だが、特別とは……

「養子縁組はね、戸籍という書類の上で、親子だと認めてもらうってこと。奈矢は、わたしたちの養子です、って、書いてもらうのよ。でも、特別養子縁組というのはね、奈矢。あなたをわたしたちの本当の子どもとして扱ってください、という手続きなの。だから、戸籍の上でのあなたの母親は、梨奈さんではなくて、わたしっていうことになるの」

奈矢は、こんなに真剣な目で話す母を見たことがなかった。母が、彩さんに変わる。現実的なことを言えば、今と何ひとつ変わらない。だが、書類が書き換わったあと、あの寺で小さな箱に眠っている母は、いったいどうなるのだろう。奈矢の胸に明らかな不安の風が吹き抜けたが、その答えを、父は、ちゃんと用意してくれていた。

「父さんたちは、奈矢と、戸籍という書類の上でも、正式に親子になりたいと思ってる。そして、奈矢と親子になるってことは、奈矢の生みのお母さんである梨奈さんとも、家族になることだって思ってるんだ。だから、引っ越すときには、梨奈さんも一緒だ。奈矢がいつでも会いに行けるように、家から近い納骨堂を探してある。父さんたちが入る予定のお墓には、今は梨奈さんが知らない人たちしかいないから、父さんか母さんが入る時に、一緒に行くことにしようと思う。いろんな人たちと相談して、そう決めたんだ」

まだ当分先にはなっちゃいそうだけど。そう言って笑う父。この時の奈矢には想像もつかなかったのだが、血縁者でも姻族でもない、ましてや世間的には受け入れがたい形で亡くなった女性の納骨を引き受けるということは、生半可なことではない。これは、奈矢を委託された直後から、父母が親族と何度も話し合い、ようやく手繰り寄せた結論だった。

「梨奈さんのお骨のことで、今、伝えられるのはここまでなんだけど」

父が、再び真剣な声音で言う。

「まず第一に考えなくちゃあいけないのは、養子縁組をするのかどうか、特別養子縁組をするのかどうかってことだ。これについて、一番大事なのは、奈矢の気持ちだと思ってる。今、急に『どうだ』と言われても困るだろうから、返事はあとでいいよ。納得できるまで、ゆっくり考えてほしい。もし、ぼくたちには言いづらい気持ちがあったら、それは、相談所の先生たちがちゃんと聞いてくれるから」

「戸籍がどうとかは関係なく、お母さんたちは奈矢を大切に思っているし、一緒にいたいと思ってる。養子縁組をするかどうかで、それが変わることはないわ。だから何も心配せずに、自分がどうしたいか、それを一番に考えてね」

父母は、それぞれ言い終わると、優しいまなざしで奈矢を見つめた。

これまでの数年間で、奈矢は、自分が愛されていることを何度も実感してきた。たくさん叱られたが、その何倍も褒めてもらった。楽しいときに思い切り一緒に笑ったこと、悲しいときに寄り添ってもらったこと、心から励ましてもらったこと、時には共に涙してくれたこと。もちろんいいときばかりではなく、派手なケンカをしたこともあったが、自分への愛情を根底から疑ったり、「本当の親ではないから」などと思ったことは、一度もなかった。そうしていつか、持ち帰りの仕事でパソコンに向かっている父と、その向かいに座って小さなブロックを無心に組み立てている奈矢とが「同じ顔してる」と母が笑うようになり、近所のおじさんおばさんには、「笑い方がお母さんにそっくりやなぁ」と言われるようになった。そんな時間の積み重ね、その支えがあったからこそ、実母との突然の別れも、ここまで抱えてくることができたのだ。

「おれ、それでいいよ。それが、いい」

自然と口をついて出た奈矢の言葉に、両親が驚いたように目を見張る。

「奈矢……それがいい、って……?」

「おれ、父さんと母さんの子になる。特別養子縁組して、親子になりたい」

聞き返してきた父をまっすぐに見返し、メモに書かれた文字を指さしてそう言うと、奈矢は、次に母の方を見る。そして、

「おれには母さんが二人おる。産んでくれた母さんも本当の母さんやけど、今の母さんも、本当やって思ってる。そやさけ、戸籍っていう書類も、そうなったら嬉しい」

と、はっきり言い切った。

大事にしていいと言われた自分の気持ち。その気持ちのまま、奈矢は言葉を紡いだ。これから先、今の両親以外の人と暮らすなんてことは考えられなかったが、児童相談所が対象としている年齢が17歳までだと知ってからは、漠然と、ある不安があった。自分が18歳になって、大人になれば、いずれ、二人の側から離れなければいけないのではないか。いつまでも一緒にいたいと願うことは制度上許されず、迷惑になるのではないか。だが、そうじゃあない。この二人は、これからもずっと、自分の帰る場所なのだ。そしてそこには、実の母も含まれるという。こんなに嬉しいことが、こんなに幸せなことが、他にあるだろうか。

奈矢の言葉を聞き終わった母の目にみるみる涙がたまって、次々にこぼれ落ちる。

「奈矢……」

顔を覆って、嗚咽を漏らす母の背を、隣の父がそっと撫でる。その父の目にも、涙が光っていた。

「おいで、奈矢」

涙目のまま立ち上がって両手を広げた母の胸に、小さい頃いつもそうしていたように、奈矢は、勢いよく飛び込んだ。

……ママ。もう、ママも、おれも、一人ぼっちやないんや。

自分を包む母と、優しく背に置かれた父の手のひらの温かさを感じながら、奈矢は、心からの安堵の涙を流していた。


奈矢が小5の夏を迎えるころ、別所夫妻と奈矢との特別養子縁組が成立した。1学期の終業式の日、クラスメイトに別れを告げ、引っ越しの準備は佳境に入る。そして、草いきれと蝉時雨にむせ返るような8月上旬のある日、大きなトラックが次々と別所家の荷物を飲み込んで、ゆらゆらと左右に揺れながら家の前の緩やかな坂を下り、大通りへと出て行った。近所の人たちと涙のお別れをしている母の隣で、奈矢もまた、集まってくれたクラスメイトと名残を惜しむ。後ろ髪を引かれながら、ようやくタクシーに乗り込み、目を真っ赤にしている奈矢の膝には、桜色の風呂敷に包まれた桐箱が、大事そうに抱えられていた。

新居は、もともと別所夫妻が住んでいた家の近くに、新たに見つけた物件だった。幹線道路からは道一本分離れた住宅街にある、3LDKのマンション。ベランダに出ても、見えるのは同じようなマンションやビルだけで、下を覗くと、15階という高さに、少し足が竦む。海の景色、空の景色、木々の景色に馴染んでいた奈矢には、何もかもが未知のもので、わくわくするというよりは、緊張を強いられる感じがした。既に本社での仕事が始まっている父が日中は不在であるため、荷解きや片付けは主に母と奈矢で行い、その合間合間に、通う予定の小学校を訪問したり、学用品の買い足しをしたりした。そうやって、満を持して始まった新しい学校での2学期だったが、奈矢にとっては、過酷なスタートが待っていた。

以前に通っていた小学校は、幼稚園から一緒に過ごした仲間が多かったこともあって、奈矢の容姿についても、ごく自然に受け入れられていた。しかし今回は、転校生というだけで注目が集まるところに目が覚めるような美少年が現れたことで、クラスの子どもたちは激しく動揺した。彼らがもっと幼ければ、あるいはもっと成熟していれば、驚きながらも仲間として受け入れる柔軟性があっただろう。しかし、大半の子が思春期に差し掛かっていて、自我の微妙なバランスをぎりぎりで保っているという状況下では、奈矢の類まれなる美しさは、どんなに求めても手に入らないものの象徴として、彼らの目に映った。そしてそれは憧れの対象ではなく、排除すべき異物と受け取られたのだ。奈矢が話す言葉が、一般的によく知られている「関西弁」とは、少し違うイントネーションだったことも災いした。そして何より、自分の容姿の破壊的な影響力について奈矢がまったく理解していなかったこと、それが「すかした態度」と受け取られ、事態を一層悪化させた。もちろん、初めからクラス全員がそうだったわけではない。奈矢に話しかけてくれ、仲良くなろうとするクラスメイトもいたのだが、そうすると、その子も一緒に、クラスの輪から外されてしまう。それを理解してからは、奈矢は、誰とも関わることをしなくなった。担任教諭は、あからさまなこの事態に当然気づいていたはずだが、一切、何も言わなかった。母とそれほど年齢は変わらないように見える女性教諭は、絵に描いたような事なかれ主義で、奈矢が平気そうにしていることに、全面的に甘えることを決めたようだった。

程なく息子の異変を感じた両親は、学校に話をしに行くこと、それでも状況が好転しないのであれば転校も視野に入れることを提案したが、奈矢は、頑として聞かなかった。

「心配かけて、ごめん。でも、先生との話し合いはいらんよ。そんなんしても、たぶん、何もならんし……第一おれは、別にいじめられているわけやない。おれ自身が、そう思ってないんやから、大丈夫や。こんなくだらんことしてくるやつらには絶対負けやんし、最初っから、勝負にもなってないんやって」

そう言って毎日素知らぬ顔で登校する奈矢に、間もなく父母から新たな提案がなされた。

「ただ転校するというと逃げたようで、負けたくないおまえが納得いかないっていうのも、理解できるよ。だけど、こんな状態で学校に通っているおまえを、親として、放ってはおけない。今の学校での話し合いは無駄だと思っているなら、試験を受けて、この学校へ行かないか。3学期からの編入試験の募集が出てるんだ。急な話だけど、おまえの学力なら、十分に合格できると思う。チャレンジしてみないか」

「そうよ、何ならしばらく学校を休んで、受験勉強をしたっていいんだから」

テーブルの上に置かれた学校案内のパンフレット。奈矢はそれを手に取って、1ページずつ、ゆっくりと目を通した。そしておもむろに顔を上げると、

「ここ、受けてみる。でも、中学受験にしたい。それまでは、今の学校にこのまま通わせて。もし、もうあかんって思ったときは、ちゃんと相談するって約束するから」

そう言って、自信に満ちた笑顔を見せる。そんな息子を見て、顔を見合わせた両親は、やれやれ、とため息をつく。

「ほんと、奈矢は言い出したら聞かないわね。わかったわ、お母さんも、覚悟を決めることにする。奈矢は何も間違っていないんだから、あなたらしく、堂々としていればいいわ。何かあったら、お母さんが、どこへでも乗り込んでいってやるから」

ほら、奈矢の気の強さは、やっぱり母さん譲りだ……と父は笑い、

「わかったよ、奈矢。ただ、やるなら徹底的にやるんだ。途中で引くんじゃあないぞ。大丈夫、おまえならやれるさ」

と言って、奈矢の頭をくしゃくしゃと撫でた。


両親の後ろ盾を得た奈矢は、今まで以上に堂々と、学校へ通った。勉強も、運動も、一切手を抜かず、多くの「一番」を獲得した。母について美容室へ行くようになり、毎朝しっかりと髪に櫛を入れた。ボタンが面倒で買ってもらったきり着ていなかったシャツなどを引っ張り出して、服装にも気を配る。外で話すときの一人称は「ぼく」に変え、話す言葉からは、あっという間に関西なまりが消えた。そして、もともと背は高い方だったがさらにぐっと成長した奈矢は、いろんな意味で、もう「小学5年生」には見えなくなった。

そうして、クラス中から遠巻きにされていても意に介さず、誰よりも抜きんでていながら飄々と過ごし続ける奈矢を見ているうちに、だんだんと、今の状況が馬鹿馬鹿しくなってくるクラスメイトが現れ始めた。「別所くんが、いったい何をしたっていうんだろう?」という、そもそもの疑問の答えに気づく子どもたちが、一人、また一人と増えていき、6年生が始まるころには、奈矢を外していた中心メンバーの方がクラスで浮いている状態になり、完全に、立場が逆転した。

そうなっても、奈矢は、彼らに特に何をすることもなかった。積極的に無視することも、攻撃することもせず、さらに言うなら、何事もなかったかのように自分に接してくるクラスメイト全員に対して、嫌ったり仲良くなったりという感情を一切動かさずに付き合い、淡々と過ごした。そうして、誰にも告げずに難関校「星風学園」の中学受験を易々と突破すると、卒業式には参加しないまま、クラスメイトと担任の前から、風のように姿を消したのだった。

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