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4.再会

別所(べっしょ)孝大(たかひろ)は、この日、妻の彩(あや)とともに、期待と緊張がないまぜになった複雑な気持ちで、児童相談所を訪れていた。結婚以来、自然に任せていた時期、不妊治療に挑んだ時期を経て、里親登録をして早2年。「養育里親でもよいが、できれば特別養子縁組を」と希望していた自分たちに、初めてマッチングの話が来たのだ。

里親登録自体は孝大が本社勤めをしている時に済ませていたのだが、その手続きが終わって間もなく、地方の臨海工業地帯再開発のプロジェクトチームとして異動することになった。異動した先は、穏やかな潮風が吹く、温暖な町だった。会社で借り上げてもらった一軒家から、毎朝小さな軽自動車に乗って、錆の浮いたガードレールに囲まれた海岸線を走り、現場に向かう。本社にいたころは、駅に着くたびどうやって乗っていたのかという人数が吐き出される電車、回遊魚の群れのように流れていく人波、そんな通勤風景を「普通」だと感じていたのだから、自覚している以上に、都会に毒されていたのだなと思う。彩は、持ち前のコミュニケーション力であっという間に地域のコミュニティになじみ、「ご近所のおばあちゃんに教わって、魚がさばけるようになったのよ」と、料理の腕まで上げている。そんな穏やかな日々の中で、時々、微かに頭をよぎるのは、やはり里親委託のことだった。

転居してのち、この地方の管轄をしている児童相談所にも登録は済ませたのだが、都市部に比べれば、委託の数は明らかに少ないのだろうと覚悟は決めていた。あと数年後に本社に戻るまで、諦めるしかない。だが、そのころには、自分たちはいくつになっているのだろう。そんなぼんやりした不安を感じていた自分たち夫婦にとって、今回の話は、まさに降って湧いた僥倖だった。

「どうぞ、こちらです」

案内された面接室で、どういった境遇の子どもなのか、簡単に説明を受けた。余計な情報をそぎ落としたと思われる話でも、壮絶な人生を背負っている子だということがひしひしと伝わり、彩は、「まだ5歳なのに」と、目に涙を浮かべている。保育士として出会ってきた同じ年ごろの子どもたちと、重ねていたのかもしれない。

――里親は、親になりたい人のための制度ではありません。社会的養護の、子どもたちのための制度です。

里親研修を受けたときの、担当者の言葉がよみがえる。

なれるだろうか。こんなにも、重たいものを背負った子の親に。

「奈矢(だいや)くん、お客さんやで」

案内されたプレイルームで、職員と一緒にブロック遊びをしていた小さな男の子が振り返る。

色白で、癖のない明るい栗色の髪。目鼻立ちは恐ろしく整っていてまるで人形のようだったが、まつ毛の濃い瞳は、5歳とは思えないほど暗く、光を失っていた。

「伴場《ばんば》、奈矢です」

ご挨拶しようか、と促されると、少し考える素振りをしてから立ち上がり、そう言って、ぺこりと頭を下げる。

「こんにちは。わたしは、別所彩っていいます。この人は、わたしの旦那さんで、孝大さん。奈矢くん、わたしたちも、一緒に遊んでもいい?」

自然にかがんで目線を合わせ、すぐに対応する彩は、さすが元保育士だ。

「よろしくね、奈矢くん」

子どもと接した経験がほとんどない孝大も、彩に合わせて、奈矢の前にかがんだ。黙ってこっちを見て、微かにうなずいた奈矢と目が合うが、すぐに逸らされ、小さな体はまた床に座り込むと、黙々とブロックを組み立て始めた。近くで見ると、吸いこまれそうな暗灰色の瞳は、寒空の下でうねる海のように、深く、沈んでいた。孝大は、その色に圧倒されながら、直感的に感じていたことがある。

この悲しみの海から、この子を引き上げてやりたい。

これが、三人の物語の、始まりだった。


奈矢が児童相談所の一時保護所に連れてこられた日、まず驚いたのは、いろいろな年齢の子どもたちが入り混じって一緒にいる、ということだった。直近まで預けられていた夜間の託児所には、自分と同じくらいかもっと小さな子どもしかいなかったが、ここには奈矢から見ればほとんど大人ではないかと思えるような、10代後半の子どもたちもいた。次に驚いたのは、遊べるものの数だった。かなりの大作が作れそうなほどの大量のブロック、何種類もあるボードゲーム、小さなウサギや犬の人形と家や学校などのセット、床一面に敷きつめられそうなレールと電車。職員室のドアの横は壁一面が本棚になっていて、絵本やコミック本がびっしり並んでいるのも壮観だった。グラウンドには、ジャングルジムや滑り台、鉄棒、砂場があって、ボールや自転車、一輪車で遊ぶこともできた。職員はみな優しかったし、ここしばらくコンビニ食や菓子パンしか食べていなかった奈矢にとっては、手作りの温かい食事が食べられるというのは本当にありがたかった。

子どもたちは、基本的には保護所の中で過ごし、時々「面接」や「面会」に呼ばれて、相談室のあるフロアへ出ていく。そこから泣き腫らした目で戻ってくる子や、ドアにかかっているプレートが落ちそうなほどに荒々しく戻ってくる子、うきうきした様子で戻ってくる子など、さまざまだった。

だが、自分には、会いに来てくれる人も、帰る場所もない。

相談室のフロアへ出ていき、二度と戻ってこない子がいると気づいてからは、奈矢は、「ここにはいつまでいられるのだろうか」ということだけを考えていた。母の死を悼み、喪の作業をする余裕など、どこにもなかった。

そんなある日、担当の職員から、奈矢の次の生活の場所を考えていること、そのために会ってほしい人がいると伝えられる。何を言われても、奈矢は黙って頷いた。自分に何かを選ぶ権利があるとは思えない。だから、与えられた場所に、黙って行くしかない。ここからどこかへ出て行くには、そうする以外に、方法はないのだから。

相談室のフロアにある、普段は入らないプレイルームで職員と遊んでいると、背の高い男性と、小柄な女性が入ってくる。誰だろう、新しい先生だろうか。一緒に遊んでもいいかと聞かれて遊んだから、やっぱり先生なんだろう。その時は、ただ、そう思っていた。

「孝大さんと彩さん」は、それからもたびたび会いに来てくれた。はじめは職員も一緒に、そのうち三人だけでプレイルームで遊ぶようになり、「次は、お外にお散歩に行っておいで」と言われ、そのうち、ショッピングモールに出かけて食事をして戻る、孝大さんたちの家で半日過ごして戻る、というようなことも始まった。「この人たちと暮らすってことなんかな」と、ぼんやりと感じ始めたころ、担当職員から、「今日から孝大さんたちのお家にお泊りに行って、2回寝たら戻ってくるんよ」と言われた。戻ってきたら、またお話聞かせてね、と、見送られる。

二人が暮らす家は和風建築の平屋の家で、決して新しくはなかったが、きれいに片付いていて清潔感のある匂いがした。孝大さんも、彩さんも、はじめの印象の通り優しくて、いい人たちだ。彩さんの作る食事はどれも美味しかったし、孝大さんはブロックや工作がとても上手で、遊びに行くたび、奈矢も夢中になった。

「今日はここで、みんなで寝ようね」

リビングの奥の広い和室に、布団が延べられ始める。孝大さんが敷布団を下ろし、彩さんが広げているところに奈矢が枕やシーツを運ぶと、「ありがとう」と彩さんが笑顔になる。

「奈矢くんは、本当にお手伝いが上手だね。ぼくらが何も言わなくても、何でもやってくれる」

3枚目の敷布団を運び終わった孝大さんが感心したようにそう言ったとき、奈矢の脳裏にいくつかの映像が明滅した。

買い物の際、袋詰めしている母の横で使い終わったレジかごやカートを戻しに行き、家に着いたら、手がふさがった母の代わりに玄関ドアのカギを開ける。食事が終わった食器はすぐに下げ、テーブルを拭く。少し背が伸びると、小さな踏み台に乗って部屋干しの洗濯物をピンチから外し、タオルをたたむこともできるようになった。どれも、母がやれと言ったことはなかったが、見よう見まねでやって見せると、「ありがとう、奈矢」と母が笑ってくれるのが嬉しかった。奈矢がいろんなことを自主的に手伝うようになると、母がやり方を教えてくれることも増え、いつしか、奈矢は年齢以上のことができるようになっていった。それはもちろん、奈矢がもともと聡い子どもだったからではあったのだが、梨奈が懸命に、奈矢と二人で生きようとしていたこと、そのことも大きかった。

「ママのお手伝いしてたから」

思わずぽつりと言葉が漏れ、しまった、と、奈矢は息を呑む。孝大さんたちは、母のことを聞いているかもしれない。だとしたら、悪い薬を飲みすぎて死んでしまった母のことをどう思っているだろう。もし何も知らなかったら、母のことを聞かれるかもしれない。そうしたら、いったい、何と答えたらいいのだろうか。

緊張で体を強張らせる奈矢の耳に、

「そうなのか。えらいなぁ、奈矢くん」

と、孝大さんの穏やかな声が届く。そして、

「ほんとに。ママが上手に、いろんなこと教えてくれたのね」

と、彩さんが微笑んだ。

そうしてそれ以上、二人とも、奈矢に何を尋ねてくることもなかったのだった。


翌朝は、ふわっといい香りがして目が覚めた。

部屋はまだぼんやりと薄暗いが、両サイドの布団には、すでに、彩さんも孝大さんもいない。

起き上がって隣のリビングに出ていくと、

「あら、おはよう、奈矢くん。起きたのね」

と、キッチンのカウンターの向こうで彩さんが言い、ちょうど洗面所から出てきた孝大さんが、

「おはよう。よく眠れた?」

と聞いてくる。

こくりと首肯しながら、奈矢は、そういえば、昨日は夢を見なかったな……と思う。母と別れてから、毎晩のように悪夢を見ているが、驚いて目を覚ますと同時に内容は消えてしまって、よく思い出せない。ただ、「怖かった」という印象と、ばくばく鳴る心臓の音で、しばらく眠れなくなることも少なくなかったのだが、今日は朝になるまで、一度も起きなかった。

「孝大さんは、今日はお仕事だから、今からご飯なの。奈矢くんはどうする?まだ朝早いし、眠かったら、あとでもいいよ」

と、彩さん。

「ううん。ぼくも、食べる」

「そう?じゃあ、ご飯を食べたらお洗濯とお掃除も早めに終わらせて、公園行こうか」

味噌汁をよそいながら、彩さんがそう言うのに頷きながら、奈矢は孝大さんと入れ違いに洗面所に入った。

「奈矢くんと公園か、いいなあ。あー、今日が休みだったらなぁ」

味噌汁が入った椀をテーブルに運びながら残念そうに孝大さんが言い、何言ってるの、夏休みが終わった子どもみたい、と、彩さんが笑っているのが聞こえる。

自分のために洗面所に置かれた踏み台(奈矢の身長に合わせた孝大さんの手作りだった)に乗った奈矢は、止まらなくなった涙を隠すために、何度も何度も水をかけ、顔を洗う。

――お洗濯もの干しちゃったら、公園行こうね。

母の声が、彩さんの言葉と重なって蘇り、心臓がぎゅっと縮んだ気がした。そしてさっき、本当は「ぼくも一緒に食べたい」と言いたかったのに、うまく言えなかったもどかしさ。彩さんと、そして孝大さんも一緒に公園に行きたかったと、自分も思ってしまった気恥ずかしさ。だが、こういった気持ちになるのは、自分が母のことを忘れようとしているからではないか、そして、本当に忘れてしまうのではないかという、恐怖と自責。さらには、こっそりと母を想いながら、優しい孝大さんと彩さんに世話になるということに対する罪悪感。いろいろな感情が押し寄せて、奈矢の小さな胸は、今にもつぶされてしまいそうだった。


孝大さんたちの家での3回目の宿泊は、かなりの長期だった。児童相談所を出るときは、「たくさんお泊りしておいで」と見送られ、別所家の中に、自分のための衣類や食器が増えていることで、歓迎されていること、居場所が確保されていることが感じられた。平日は、朝、孝大さんを仕事に見送り、一通りの家事が終わったら、彩さんと公園やコミュニティセンター、図書館、時には地域の幼稚園の園庭開放へ行くなどして過ごし、日々の買い物をして帰る。洗濯物の片づけや夕飯の支度を手伝い、孝大さんが早く帰れる日は三人で、遅くなる日は彩さんと二人で食べる。休日は、孝大さんと一日工作をしたり、海岸に遊びに行ったり、三人で少し遠くのショッピングモールに出かけたりした。そんな穏やかな日々が過ぎていき、もしかしたら、もう一時保護所には戻らないのではないかと思い始めたころ、「今度の金曜日に、児童相談所に行くよ」と、孝大さんに告げられた。

これまで通り、児童相談所に戻って、また数日したらお泊りになるのだろうか。それとも、もう一緒に暮らせないからと、保護所に戻されてしまうのだろうか。そんな不安が顔に出てしまっていたのか、

「大丈夫、きっと、すぐ終わるわ。お話がありますって、言われただけだから」

と、彩さんが背中をとんとんと撫でてくれる。

「そうだ、お話が終わったら、帰りに、奈矢くんの好きなグラタン食べに行こうか。どう?」

と、孝大さんが言うと、

「いいじゃない、そうしましょ。ちょうどドライブしたいと思ってたし、ね」

と、彩さんが賛同する。

……よかった、ここに戻ってこれるんや。

大きな安堵の気持ちの片隅で、ほんのちょっと、痛む場所がある。

白くて房の付いた、見たことのない形をした箱。「奈矢くんのママは、お空に昇ったから、ママのお骨だけ、ここに入れてあるんよ。奈矢くんが大きくなるまでは、大人の人たちで、代わりに預かっておくからね」と、説明された、その記憶が仕舞われている場所だ。

ママは、一人ぼっちで、どこにおるんやろう。

尋ねたい気持ちはあったが、口にしてはいけないことのようにも思える。なにより、母を忘れずにいることを、孝大さんたちに知られてしまうのが一番怖かった。

もしかしたら明日、児童相談所で、「母と、孝大さんと彩さん」の、どちらを選ぶのかということ、そのことを聞かれるのではないか。そうだ、そうに違いないと半ば確信した奈矢は、お腹のあたりがずっしりと重たくなるのを感じ、明日のタイムスケジュールを確認している二人に気づかれないよう、そっと、両手で押さえた。


翌日、天気は快晴だったが、車窓から入り込んでくる日差しは、この時期らしく、少し霞みがかったような柔らかさがある。児童相談所に着くと、「孝大さんたちと先生たちのお話が終わるまで、待っててね」と言われ、相談室フロアにあるプレイルームに連れていかれた。一時保護所にいる間はしょっちゅう会っていた男の先生と遊んだが、なんだか久しぶりで、「懐かしい」とさえ思える。

「奈矢くん、別所さんのお家は楽しい?」

ブロックで奈矢はロボット、先生は飛行機を作りながら、最近どうした、何があった……という話をし、やがて、先生がそう言う。

「うん。楽しいよ」

引き続きブロックを扱いながら、奈矢が答える。やっぱり今から、どっちにするかって聞かれるんかな。緊張で手が震えてブロックがうまくはまらず、弾き飛ばしてしまう。

「何か、困ることとかはない?」

飛んでしまったブロックを拾ってくれながら、先生がさらに問うてくる。

「うん……ない」

と答えたが、奈矢の気持ちは曇る一方だった。

孝大さんと彩さんの存在が自分の中でだんだん大きくなり、二人の側にいたいと望む気持ちが膨らんでいくと、「自分だけ幸せになっていいのだろうか」という気持ちもまた、白い布に落ちた墨汁の染みのように、じわじわと大きくなっていたからだ。

「どうしたん、奈矢くん、今日ちょっと元気ないな。何か心配なことあったら、どんなことでも、言うてくれてええよ」

先生がちょっと心配そうに、こちらを眺めている。もしかして、孝大さんたちのお家を嫌がっていると思われているんだろうか。嫌やったら、行かんかってええよ。そう言われて、一時保護所に戻されてしまうんだろうか。

「ちゃうねん、ぼく……」

孝大さんと彩さんと、ずっとおりたい。そう言いたかったが、言葉がうまく出てこなかった。それを口にしてしまったら、母を思い出すことができなくなってしまう。だからどうしても、言えなかった。

黙り込んでしまった奈矢を見て、

「奈矢くん、もしかして、児童相談所に戻っておいでって言われるかもしれんって、心配してた?」

と、先生が尋ねてくる。奈矢は俯いたまま、少しだけ、首を縦に振る。

「そうか、今日何のお話するか、ちゃんと言うてなかったよな。心配させてもうて、ごめんな、奈矢くん。あんな、今日は、別所さんのお家で奈矢くんがこれからも暮らせるようにって、そのお話するために、来てもらったんよ」

「……そう、なん?」

先生の言葉は、まったく予想外だった。これからも、孝大さんたちの家にいていいと、決めてもらえるということなのだろうか。母のことはまったく聞かれないが、それで、いいのだろうか。

再び黙ってしまった奈矢をしばらく見つめていた先生は、

「奈矢くんがな、別所さんのお家におりたいなって思うんやったら、それが一番ええなって、先生たちは思ってる。奈矢くんに、これからいっぱい幸せになってもらいたいなって、それにはどうしたらええかなって、みんなで一生懸命考えてるとこなんよ。せやからな、奈矢くんが思ってること、何でも聞きたいなって思ってるんよ」

そう言って、奈矢と目が合うと、にっこり微笑んだ。

思ってること、言うてもええんかな。いっぱい幸せに……なってもええんかな。

「……ぼくな、」

喉の奥に引っ掛かってずっと言葉を堰き止めていた何かが、少しずつ、解れていくような気がした。

「彩さんのお手伝いとか、孝大さんと工作するの……好きや」

奈矢の言葉を聞くと、そうか、そらよかった、と、先生は嬉しそうに、奈矢の肩をポンポンと叩く。

「よーし、そしたら、どっちが早くブロック完成させるか競争や」

負けへんで、と、先生がブロックを次々にはめ出したので、奈矢も慌てて後に続く。

「できた!」

奈矢がブロックのロボットを両手で持ち上げると、あかん、負けたー、と、先生が大げさにのけぞる。

「そしたらな、孝大さんたちのお話、そろそろ終わりそうか聞いてくるし、ちょっとだけ待っといてな。すぐ戻るから」

そう言って出て行った先生は、奈矢がブロックをすべて元通りに分解し、床に散らばっていた分もすべて集めて箱に入れ終わったところで、戻ってきた。

「お待たせ、奈矢くん。わぁ、えらいきれいに片づけてくれてるやん」と、驚きの声を上げている先生の後ろに、孝大さんと彩さんが立っているのが見える。奈矢は、靴を履くのももどかしく、二人に駆け寄った。

「さすが奈矢くん、片付け上手だ」

孝大さんが頭を撫でてくれる。孝大さんが褒めてくれるときはいつもこうしてくれるのだが、今日はなぜだか、心底ほっとした。

「じゃあ、帰ろっか」

明るい彩さんの声に頷いて、奈矢がくるりと踵を返し、

「お邪魔しました。さようなら」

と頭を下げたので、「挨拶も上手やなぁ」と、再び大賛辞を送られることになった。


児童相談所からの帰り道、約束通りグラタンを食べに行き、お腹いっぱいで車に乗り込んだところで、

「よし、じゃあ今日は、もう少し遠出するよ」

孝大さんがそう宣言した。車は、海岸沿いの道をひた走り、20分ほど行ったところで左にそれて、少し山手に入っていき、緩やかな坂道を登っていく。

「無事に到着ー。お疲れさま」

スマートフォンを眺めながら、後部座席からナビをしていた彩さんの声で、ジュニアシートから彩さんにもたれかかってうとうとしていた奈矢は、目を覚ました。

なんやろう、ここ……お寺?

駐車場で車を降りると、急角度の石の階段が見え、その向こうに、木々に囲まれたお堂のような建物がちらりと見えている。

孝大さんを先頭に階段を上がり、境内に入る。門の両側には立派な桜の木があって、薄紅色の花弁に包まれていた。孝大さんが受付のようなところに声をかけに行くと、着物のような、忍者のような服(あとで、「作務衣」というのだと教わった)を着た人が出てきて、敷地の奥の方に案内される。そこには、周囲の雰囲気にはちょっと合わないような、白い壁の四角い小さな建物と、それに寄り添うように立っている、一本の若い桜の木があった。

作務衣の人がカギを開け、引き戸の扉を開ける。等間隔で並んだサッシ窓から差し込む陽光でぼんやりと明るい室内には、スチール製の棚がいくつか置いてあって、小さな木箱が等間隔に並んでいる。

「どうぞ、こちらです」

手元のノートを確認して、作務衣の人が、ひとつの棚に向けて手を差し出した。

「こちらの、128番のお箱が、伴場梨奈さんです」

思わぬところで母の名を聞いた奈矢が、はっと息を呑んで固まる。

「お線香はあちらにございます。終わられたら、また事務所にお声掛けください」

作務衣の人は合掌して一礼すると、建物を出て行った。

孝大さんと彩さんは、線香台のところへ行き、ろうそくに火を点してから線香に火をつけ、合掌する。その間も、奈矢は、息をするのも忘れて、立ち尽くしていた。

「奈矢くんもおいで」

孝大さんの声に、ようやく我に返る。

ママ……こんなところにおったんか。

彩さんが、そっと背中に手を添えるようにして促すのに従って、奈矢は孝大さんが立っている「128番」の箱の前に立った。その奈矢の隣に、彩さんも並ぶ。

「奈矢くんのお母さん、初めまして。別所孝大と言います。こちらは妻の彩です」

孝大さんがそう言うと、二人は深々と頭を下げた。

「ぼくたちは、これから、奈矢くんと暮らしていきたいと思っています。お母さんがこれまでに奈矢くんに注いでこられた愛情を、しっかり受け継いでいきたいと思っています。お母さんにはかなわないこともたくさんあると思いますが、ぼくたちの精一杯で、奈矢くんを大切に育てていくつもりです」

孝大さんはそこまで言うと、彩さんの方を見て、頷いた。

「お母さん、奈矢くんを、こんなにいい子に育ててくださって、本当にありがとうございます。そしてどうかこれからも、奈矢くんを見守っていてください。よろしくお願いします」

孝大さんの後を引き継いで彩さんが言い、そのあと二人は長い間、目をつぶって合掌していた。

やがて目を開けた二人が自分に向き直るまで、奈矢は、ただただ目を見張って、母の遺骨が納められている桐箱を眺めていた。

「今日、児童相談所の人に相談して、奈矢くんとここに来てもいいよって、言ってもらったんだ。これからは、お母さんに会いたくなったら、いつでもここに来られるよ。ぼくらも、奈矢くんのお母さんに挨拶ができて、ほんとによかった」

孝大さんが笑顔でそう言うと、

「奈矢くんがね、ママのことを全然お話しないし、もしかしたら、忘れなくちゃってがんばってるんじゃあないかって、少し前から児童相談所の先生が心配してたの。でもね、ママのことは、無理に忘れなくっていいのよ、奈矢くん。わたしたちは奈矢くんが大好きだから、奈矢くんを大事に育ててくれたママのことも、大好きよ。だからママのお話がしたくなったら、いつでも聞かせてね」

彩さんが奈矢の顔をのぞき込むようにして、にっこり笑った。彩さんの目を見つめ返し、もう一度桐箱に視線を移した奈矢の唇が、何か言おうとするように開きかけて、大きく震える。

「……ママ」

ようやくその言葉を口にした奈矢の目から、大粒の涙が次々に溢れ、こぼれ落ちた。

「……ママ……ママ!ママぁぁぁ」

絶叫のような奈矢の呼び声は、やがて嗚咽にかき消される。棒立ちのまま、天を仰いで泣きじゃくる奈矢を彩さんが膝をついて抱きしめ、その二人を包むように、孝大さんが腕を回した。

窓から差し込んでくるうららかな日差しが、三人の涙をキラキラと光らせる。窓外には、ひらひらと舞い散る桜の花弁。

また、この季節が巡ってきたのだ。出会いと別れと、そして始まりの、春。奈矢の誕生日は、もうすぐそこだ。

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