3.断絶
開店前の夕間暮れ、8月の陽はまだ沈みきらずに明るさを残している。店の前で掃き掃除をしている梨奈の前に、ベージュ色のレースのロングタイトに同系色のパンプスを履いた足が立ち止まった。顔を上げた梨奈に向かって、「伴場梨奈さんね」と発した女性の顔は、強い西日が逆光になっているせいではっきりとはわからなかったが、その声音からは、固い決意と緊張が感じられる。
あぁ……来たんだ。
梨奈は、直感的に、自分の恋の終わりが始まったことを悟った。
近くのカフェまで出かけてくるという梨奈を引き留め、ママが店の奥の個室を開けてくれた。図らずも、ここは、いつも英次郎を接客している部屋だ。梨奈はそこで、城ヶ崎麗子と向かい合って座った。英次郎の母であると名乗られたが、確かに、上品そうな切れ長の目元が、よく似ている。
「わたしが、何をお話しに来たのか、おわかりかしら」
静かに、だが、威厳を持って、麗子が切り出す。
「はい。英次郎さんと別れろって、そういうことですよね」
自分のしたことは、決して世間から認められることではない。だが、英次郎に対する自分の気持ちを、恥じることはしたくない。梨奈は、まっすぐに顔を上げ、麗子を見つめ返した。
「わかっていただけているのなら、お話は早そうね」
そう言うと麗子は、膝に置いたハンドバッグからずっしりと分厚い封筒を取り出してテーブルに載せ、梨奈のほうに差し出した。
「迷惑料と、当座の生活費と、転居費用です。足りないことはないと思うけれど、確認していただけるかしら」
むしろ、こちらが慰謝料などの制裁金を求められるのだろうと思っていた梨奈は、予想外の展開に動揺する。
「頂けません、こんな……迷惑料なんて。こんなことしていただかなくても、わたしは」
潔く身を引くつもりです。その言葉は、実際口にしようとすると喉の奥でつかえてしまい、うまく出てこなかった。しかし、こんな生々しいものを受け取ってしまえば、英次郎への自分の想いが、汚されてしまう。だから絶対に受け取れないと、必死な思いで梨奈が押し返そうとした封筒を、麗子の手がはっしと抑えた。
「いいえ、受け取っていただくわ。その代わり、二度と、英次郎には関わらないでいただきたいの。わかっていただけるわね」
丁寧な口調で、抑えたトーンであったが、絶対に引かないという強い意志が込められている。だが、梨奈とて、初対面の相手にそう言われてあっさり承諾するほど、これまで軽い気持ちで過ごしてきたわけではない。
「英次郎さんは……英次郎さんは、なんて言っているんですか」
「あの子は、すべてわたしに任せると言っています」
梨奈の発言を、一縷の望みもなく跳ねのけるように言い切った麗子は、ふうっとひとつ息を吐くと、
「元はと言えば、妻子ある身で、あなたのようなお若い方に手を出した、あの子の責任です。こんな形でしか償えないのは、本当に申し訳ないと思いますけれど……あの子には、守らなくてはならないものがたくさんあるの。わかってあげてちょうだい」
と、続けた。麗子の気丈な声が、最後の一言を口にする際に微かに震えたのを、梨奈は聞き逃さなかった。と同時に、英次郎のスマートフォンの画面の中で、こちらを振り返りながら満面の笑みを浮かべている幼子の姿が脳裏をよぎる。英次郎は、あの笑顔を守ることに決めたのだ。親が不在であること、寄る辺のないことの寂しさを誰よりも知っている梨奈にとっては、それは何にも代えがたい、崇高な決断であると思えた。
「……わかりました。英次郎さんには、もう、会いません。お店も、辞めます」
俯きそうになる顔を必死に上げて、梨奈が言う。
「これを、頂いて……どこか遠くへ、引っ越します」
梨奈の手が、テーブルの上の封筒を掴んで自分の膝の上に載せ、そのまま、震えるほどに力いっぱい握り締めた。
愛人が手切れ金をもらって消える。世間には、掃いて捨てるほど、よくある話だ。英次郎のためには、自分がこうやってわかりやすく姿を消すのが一番だし、こうなることは、初めから覚悟の上だったじゃあないか。つまりは予定通りの筋書き、ただ、それだけのこと。それでも、全身全霊で、愛した気持ちに嘘はない。たとえほんの刹那の煌めきであったとしても、二人の、二人だけの時間は、確かに、存在した。それだけは、紛うことなき、真実なのだ。
口を真一文字に結び、涙をこぼさないように懸命に耐え、叶わぬ想いを、相手の幸せのために諦めようともがいている梨奈。その、哀しくも気高い表情を、麗子は、しばらく無言で見つめた。自分がまだ少女だったころ、同じように苦しんだ身であったというシンパシーが胸を締め付けたが、どんな慰めの言葉も、梨奈に引導を渡しに来た自分に、言う資格はない。
「感謝いたします」
麗子は、そう言うと深々と頭を下げ、席を立った。
――ごめんなさいね。
去り際にそっとつぶやいた麗子の言葉は梨奈には届かずに、ドアが閉まる微かな音に紛れて、消えた。
梨奈から事情を聴いたママは、今まで見たこともないような悲しそうな笑顔で頷き、「よくがんばったわね」と一言だけ返して、抱きしめてくれた。そうして、堰を切ったように、幼子のように声を上げて泣きじゃくる梨奈の背を、梨奈の涙が枯れるまでずっと、撫でていてくれた。
これまでの給料と退職金ということで、ママからもまとまった金額を受け取った梨奈は、初めての自分の城だった狭いワンルームを引き払い、今より少し南のほうへと居を移した。失恋して北へ行く、なんてことはしたくなかったし、今度は海の見える町で暮らしたい、そんな思いがあったからだ。
麗子から受け取ったものと、ママからの退職金、そしてこれまでに自分で貯めた金額を合わせると、梨奈の通帳には8桁に近い数字が並ぶことになったのだが、極力使わずに、残しておくつもりだった。英次郎と別れる直前にぼんやりとした予感はあったのだが、引っ越し後に受診した病院で、妊娠が確定したからだ。間違いなく、英次郎と自分の子。それは、一生、誰にも……父親である英次郎にさえ、告げられることはない事実であったが、それでも構わなかった。愛する人との子を産んで、家族が持てる。そのことだけで、十分幸せだと思えた。
しかし、未婚で身寄りのない妊婦に対して、世間の風は、予想以上に冷たかった。工場や小売店、飲食店など、手当たり次第に就職の面接を受けたが、梨奈が妊娠中だと告げると、どこからも渋い顔をされた。今雇っても、1年も経たないうちに産休となり、復帰したとて、シングルであれば、子どものことで休むことが多くなる。それはつまり、戦力外ということなのだ。
梨奈は、仕方なく正規職員としての就職をいったん諦め、当面、アルバイトで繋ぐことにした。立ちっぱなしの慣れないレジ打ち、酷いつわりなど、身体的には辛いことも多かったが、健診に行くたびに着々と姿を変えていく胎児のエコー写真はただただ愛おしく、この子のためならどんなことでも乗り越えられると、心からそう思えた。
そうして、年が明け、冬が終わり、満開の桜が咲き誇るころ、梨奈に待望の第一子が誕生した。
この子の名前は、奈矢。
産婦人科で出産予定日を聞いた時から、気持ちは決まっていた。なぜか初めから男の子が生まれると確信していた梨奈には、他の名前は考えられなかった。
心から愛した人との子。それは、天涯孤独であった自分の人生に舞い降りた宝物だ。4月の誕生石のように、磨き方次第でどんな輝き方もできる。そんな無限の可能性をその両の手に握って、生まれてきたに違いない。そんなかけがえのない存在だから、輝かしい未来へと、まっすぐに突き進んでほしい。そのためだったら、わたしは、きっとどんな努力も惜しまないだろう。
だから、この子の名前は、奈矢。
病院からの帰り道、奈矢を抱いてタクシーから降りた梨奈の目の前を強い海風が通り抜け、無数の桜の花弁が舞う。これからも、誕生日がくるたびに、何度も何度も、奈矢と桜を見よう。その思いが届かなくなる日が、予想外に早く訪れるということなどは、この時の梨奈には、まったく思いもよらなかった。
初めての、たった一人での育児は戸惑いの連続だったが、梨奈は精いっぱいの愛情を注いで、懸命に奈矢を育てた。相変わらず正規職員にはなれずにいたから、奈矢を保育園に預けることもできず、託児所を利用すれば、その日稼いだ分がほぼ消えてしまうというような、自転車操業の状態だった。奈矢は少し気管支が弱く、風邪を引くと重くなりやすかったから、病院へ行く機会が多かったことも災いした。医療費自体は自治体の補助で無料だったが、仕事を休んだ分は確実に収入が減り、少し遠方の総合病院へのタクシー代も、決して馬鹿にはならなかった。だんだんと目減りしていく預金残高が元の半分になってしまったことに焦りを感じた梨奈は、奈矢が3歳を過ぎたころ、夜の仕事に復帰した。出勤と同時に夜間の託児所に奈矢を預け、仕事終わりに寝ている奈矢を引き取って帰る。昼間のアルバイトよりははるかに稼げたが、同伴やアフターができない状態では、以前のようには稼ぐことはできなかった。そして何より、奈矢を夜型にしてしまうわけにはいかないという思いから、疲れた体に鞭打って、奈矢を公園に連れ出したり、買い物に連れて出たりしていたから、精神的にも肉体的にも、梨奈にはぎりぎりの状態が続いていた。
そんな生活が2年ほど続いたころ。いよいよ限界が近づきつつあった、そんなある日のことだった。いつものように奈矢を託児所に預け、美容院で髪をセットしていた梨奈は、とある雑誌の記事に、意外な人物を見つけた。そこに写っていたのは、忘れもしない、城ヶ崎英次郎の姿……そして、彼の妻と、娘の英梨奈だった。
ビジネス誌で、各分野の30代以下の若手経営者や実力者などを取り上げている特集記事。英次郎は、新進気鋭の若手教育者として取り上げられているようだった。写真の中で、美しい妻に寄り添いながら、柔和な笑顔を英梨奈に向けている英次郎。そして、背中に真新しいランドセルを背負い、セーラー服調の制服に身を包んで、無邪気な笑顔で両親を見上げている英梨奈。背景に写っているのは、重厚なつくりの校門、その向こうに続く桜並木と、白亜の学舎。三人が立っている側には、「入学式」と書かれた立て看板がある。そんな幸せな家族の風景を見ると、英次郎のもとから去ることを決めた自分の選択、そして、家族を守ることを決めた英次郎の選択は、やはり間違いではなかったと思えた。しかし、それと同時に、胸の中に冷たい風が吹き抜け、体が芯から凍りついていくような感覚にとらわれる。奈矢もまた、まぎれもない英次郎の息子であるのに、この違いは何だろうか。この写真に写っているのは、なぜ、自分と奈矢ではないのだろうか。生まれた場所が、出会った順番が違っていたら、何かが変わっていたのだろうか。しかし、いくら強く望んだとしても、どれだけ努力したとしても、自分にはコントロールしようがないものに、これ以上、どう抗えばよいのだろう。
運命の最後のひと押しというものは、予測不可能なタイミングでふいに現れ、それでいてあっけないものなのかもしれない。耐え難い負の感情が竜巻のように渦を巻き、崖っぷちでどうにか踏ん張っていた梨奈の背中を、とん、と突く。そして梨奈は、為す術なく、真っ暗な奈落へと落ちていった。
その後、奈矢の生活は、みるみるうちに、荒れた。母が仕事に出る回数は減っていったが、出かけるときに奈矢が託児所に預けられることはなくなった。母は決まった店での出勤をやめ、もっと割のいい仕事――よくわからない名目で、著名人だか名士だかと得体のしれない連中が集まるパーティーの『コンパニオン』など――を受け始めたのだが、そのためには遠くの繁華な街まで移動する必要があり、結果として帰りが朝になることが増え、託児所が閉まるまでに奈矢を迎えに行くことが難しくなってしまったのだ。そのため奈矢は、一晩の留守番を言いつけられるようになった。
5歳を迎えていた奈矢は、たった一人で、夜を超えて、母の帰りを待った。煌々と明かりがついていても、与えられたタブレットでいくらでも好きなアニメを見ることができても、寂しさも怖さも、紛れることはなかった。それでも、帰ってきた母が、「奈矢、何にもなかった?いい子にしててくれてありがとうね」と抱きしめてくれると、すべての悪いものが浄化されていくように思えた。だからいつも、「置いて行かんといて」とすがりたい気持ちを抑え込み、「いってらっしゃい」と見送った。いつもがんばってくれる母のために、自分も母の助けになりたい。ただ、それだけだった。
そんな日が続くうち、母は、自分でまっすぐ歩けないほど泥酔し、見知らぬ男(毎回、違う人物に見えた)に連れられて帰ってくることも増え、昼間は、だるそうに横になっていることが多くなった。奈矢と一緒に買い物に行ったり、公園に行ったりすることもなくなってしまい、食事は奈矢がコンビニに買いに行くかフードデリバリーかで、適当な菓子パンなどを食べて済ませることもあった。そういった食事が続いても、親としての最後の矜持だったのか、何とか容器だけは母が洗ってごみ袋に入れていたのだが、肝心のごみ捨てに行くタイミングを逃し続け、部屋は積み重なったごみ袋に圧迫されるようになっていった。そんな生活の中でも、母が変わらずよく聞いていたのが、『Chariot』の曲だった。普段、奈矢が好きな童謡やアニメソング、流行りの曲などはスマートフォンで聞かせてくれたが、なぜだか、これだけはCDのアルバムだった。物心ついたころ、いや、恐らくは生まれる前からずっと耳にしてきた曲だったからだろうか、安物のプレーヤーから流れ出す曲に合わせて、ある日、奈矢の口が勝手に動いた。耳だけで聴きとった歌詞、つたない音程で歌う奈矢を、母は驚いたように見つめたあと、体全体で包み込むように、抱きしめてくれた。
「すごいね奈矢。とっても上手」
奈矢がその時に見た母の笑顔は、一緒に公園に行ってくれて、奈矢のために好物を作ってくれていた、元気なころの姿を彷彿とさせた。だから奈矢は、一生懸命、何度も何度も、歌った。母の膝に抱かれ、背中にその体温を感じながら一緒に歌を口ずさむ。ささやかだが、幸せな、母との時間。それが再び持てるようになったことが、本当に嬉しかった。しかし、そんな時期はあまり長くは続かず、まもなくプレーヤーには薄い埃が積もり始め、母が起き上がっている時間は、ますます短くなっていった。
今から思えば、このころの母は泥酔していたのではなく、何らかの薬物を摂取していたのだろうと思う。アルコールではない、甘ったるいような焦げ臭いような、そんな不快極まりない香りをまとって帰ってくることが、加速度的に増えていた。合法ドラッグ、脱法ハーブ……名称はどうあれ、体にいいわけがない代物たち。そんなものが普通に飛び交うような集まり。母は、いつの間にか、そんなところにまで行きついてしまっていた。
気づけば年が変わって、そこからまだ間もない、ある日のこと。
いつもより早く、深夜過ぎに母が帰ってきた。送ってきた男は、今日は一人ではなかったようで、焦ったように言い合う声と、ガタガタと何かものが倒れるような音がしたあと、しんと静かになった。母からは、「絶対に、ママが来るまでお部屋から出ないでね」と言いつけられていたから、いつものように奥の部屋で待っていた奈矢は、ふらつきながら、あるいは這うようにして部屋までやってくるはずの母がなかなか現れないのを不審に思って、部屋からそっと、玄関先を覗いた。薄暗い玄関に、奈矢が細く開けた扉から光の筋が伸び、その先の床で、倒れている母が浮かび上がる。
「ママ、起きて!お部屋で寝やんと風邪ひくで」
慌てて近寄り、そう言って掴んだ母の手があまりにも冷たく、奈矢はぎょっとする。
「……ママ?」
仰向けに倒れている母の顔を、恐る恐るのぞき込む。真っ白に血の気が引いて、目は開いているが焦点が合わないその表情は、幼い奈矢にも、普通でないことがはっきりとわかった。
「ママ、大丈夫?なぁ……ママってば!」
恐慌に襲われた奈矢は、必死で母を呼びながら、その体を揺する。
「奈矢……ごめんね、奈矢……」
うつろに呟く母が、中空に手を伸ばす。奈矢はその腕にしがみつき、
「ママ!ママ!」
と、必死で呼び続けた。
ママ、ぼくはここにおるよ。ママ、こっち見て、ママ……
伸ばしていた母の腕からだらりと力が抜け、何事かつぶやいているが、まったく聴き取れなくなった。
そんな母の様子を見て、奈矢が最初に考えたのは、救急車を呼ぶことだった。町で救急車とすれ違った際、「大変な病気とかケガの人を、急いで病院まで運んでくれる車」だと、母が教えてくれたのだ。呼ぶ方法も教わっていた奈矢は、「病気とケガは119」と繰り返し呟きながら、母のスマートフォンを探した。バッグの中には入っていない……が、あたりを見渡すと、バッグか母の手から落ちたらしいスマートフォンが、玄関のたたきに転がっているのが見えた。慌てて掴んだが、どのボタンを押しても、ひびの入った画面には何も映らない。
どうしよう……どうしよう。このままやったら、ママが……
母を助けたい一心で考えを巡らせていた奈矢の脳裏に、ある記憶がよみがえる。
母とよく行っていた公園、その先にあるバス停からバスに乗り、停留所をふたつ越えたところに、役所と交番があった。ある時、母の用事についていった時だったろうか、手をつないで交番の前を歩いた時に、
「お巡りさんはね、正義の味方。困ったときに、助けてくれるんよ。奈矢にも、そんなふうに、誰かを助けられる人になってほしいな」
と、母が笑顔を向けてくれたのだ。
そうや、交番や。交番に行ったら、きっとお巡りさんがおる。
奈矢は、急いで靴を履き、玄関の重たいドアを押し開けて、外に出た。あたりは思った以上に真っ暗で、しんと静まり返っている。吐く息は白い煙となり、冷たい海風が一瞬で体を凍らせたが、それを感じ取る余裕はなかった。背後で閉まったドアの音がいつも以上に大きく聞こえ、心臓がばくばくと脈打つ。アパートは3階だったから、建物の隙間から、いつも行くコンビニの先にあるバス通りを見ることができた。そこには車の明かりが疎らに行き交っているのがわかったが、その向こう側に見えるはずの海は漆黒の闇と混ざり合って、境が分からなくなっていた。いつもなら奈矢の足でも数分程度のその距離が、とてつもなく遠く感じられる。そして交番は、コンビニよりもちょっとだけ先の公園から、さらにずっとずっと、遠くにあるのだ。道順は難しくはない。バスに乗った時の記憶では、海沿いの道をひたすらまっすぐ走っていた。だから、公園の先のバス停さえ見つけられたら、あとは海沿いの道を、まっすぐに進めばいい。しかし、たった一人で、しかも自分の足だけで、たどり着けるだろうか。
……怖い。
足が竦み、なかなか前に出てくれない。廊下の先の階段、その先は闇に溶け込んでいて、降りていけば、そのまま吞み込まれそうに思えた。しかし、こうしている間にも、母が、もっと悪い状態になって……死んでしまうかもしれない。その恐怖は、他のどんな感情よりも、何倍も、何十倍も、強かった。
ママを助けられるのは、お巡りさんを呼びに行けるのは、ぼくしかおらん。
奈矢は、大きく息を吸いこみ、それを吐き出す勢いのまま、全速力で、闇の中に駆け出した。
そのあとの記憶は、実は曖昧だ。
どこをどう走ったのかは、ほとんど思い出せない。我ながらよく事故に遭わなかったものだと思うが、深夜帯で交通量が減っていたのが幸いしたのだろうと思う。
交番の丸くて赤い明りを見たときに、走り始めてから初めて泣きそうになったこと、そこに飛び込んで、「助けて、はよ、ママが死んでしまう」と叫んだこと、慌てた様子の警察官に「ぼく、お家の場所はわかるか?」と聞かれて頷いたことは、覚えている。それ以外は、ばらまいた写真のようにいろんな場面が頭の中に散り散りになっていて、うまくつなぎ合わせることができない。
救急車のサイレンの音。赤色灯で赤く染まったアパートの壁。母が載せられたストレッチャー。アパートの前に次々にやってくるパトカーと、大勢の大人たちの怒号。それらを、最初に乗ってきたパトカーの後部座席で、ぼんやりと眺めている自分。
次にはっきり記憶しているのは、病院の待合室だ。非常灯だけがついた薄暗い待合室で、誰かが貸してくれたらしいマフラーで包まれ、買ってもらったまま一口も飲んでいないジュースの紙パックを握りながら、若い女性警官に付き添われて座っている奈矢のところに、白衣を着た男性と、制服姿の警官が近づいてくる。
「奈矢くん、お母さんはね……よくないお薬をたくさん飲んでしまって、それで……心臓が、止まってしまったんだ」
眼鏡をかけた男性医師は、ソファに座っている奈矢の前でしゃがんで、とても言いづらそうにしながら、そう説明してくれた。幼い奈矢にもわかるようにと、最大限の配慮をしながら、伝えてくれたのだろう。そのあと病室で母と対面したが、頬がうっすらとこけ、閉じた目は落ちくぼみ、作り物のような風情で横たわる母は、輝くような笑顔を自分に向ける美しかった母とはまったく別人のようで、実感はほとんど湧かなかった。母がアパートから運び出された際、バッグの中から違法な薬物が見つかり、それをきっかけに幾人かの大人が捕まったらしい。そのことはかなり後になってから知ったのだが、周囲の大人たちの緊迫した空気や、自分を憐れんでいる様子、なにより、「正義の味方」のお巡りさんが、厳しい顔をしながら自分に話を聞きに来たことなどから、母が何かしらの「悪いこと」に関わっていたのだろうということは、察しがついていた。
急性薬物中毒。この言葉に世間がルビを振るとしたら、きっと、「ジゴウジトク」だろう。梨奈から尊厳を奪い、奈矢からたった一人の家族を奪ったのは、そんな病だった。




