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2.共鳴

英次郎と奈矢の邂逅から、時をさかのぼること、17年前。

高校を卒業した伴場(ばんば)梨奈(りな)は、山がちな景色に囲まれた地元を遠く離れ、小さな印刷会社に就職した。

梨奈の母は、今の地元とはまったく異なる街で、主に在日米軍兵士を客とする水商売をしていた。アルコール依存気味で金遣いが荒く、困窮すると相手を選ばず体を許し、いくばくかの金銭を得るということを繰り返していたから、梨奈の父親を特定することはできなかった。そして母は、一度も病院を受診しないまま駆け込みで梨奈を産み、その病院に梨奈を置いたまま、姿を消す。だから梨奈は、自立までずっと、施設で生活することを余儀なくされた。梨奈が子どもだった当時は今ほど里親制度も充実しておらず、大舎制の施設に入所することが当たり前であったから、「大勢の子どもの中の一人」として埋もれるしかない生活だった。子どもたちの中には、家族に引き取られたり、あるいは問題を起こして別の場所に移されたりして、ある日突然にいなくなる子もいた。残っている子どもたちにしても、折々に家族や親族から手紙やプレゼントが届き、定期的に外出や外泊に出かける子が大半だったが、梨奈には、電話の一本をかけてくれる人さえ、いなかった。さらに、大好きだった職員の退職に何度か立ち会ううちに、これ以上傷つくことがないようにと、梨奈は無意識のうちに特定の誰かに思いを寄せることを諦め、目立たぬように、誰にも注目されぬように、息を殺しながら大人になった。

梨奈の母は大層美しい女性だったらしいが、梨奈もまた、とても美しい少女だった。恐らく父親譲りの明るい栗色の髪、濃いまつ毛に縁どられた暗灰色の瞳にすっきり通った鼻筋。抜けるように色が白く、海外モデルのような八頭身にも恵まれていた。しかし、高校を卒業するまで、施設から自転車で30分圏内という狭いコミュニティで生活をしていたことで、その美貌は「見慣れた、当たり前のもの」として周囲から扱われており、目立たず大人しく暮らすことしか頭になかった梨奈自身も、自分の容姿について強く意識することはなかった。初めて出た外の世界では、否が応でも男性からの注目を集めることになったのだが、梨奈には何が起きているのか、まったくわからなかった。その結果、誰かの恋人や想い人を取った取られたというトラブルに何度も巻き込まれ、何ひとつうまく対処できなかったことで、職場中の女性社員から不興を買うことになってしまった。さらに、一人暮らしで「自分だけの空間が持てる」ことに心躍っていたはずが、いざ一人になってみると、「部屋に誰の気配もない」ということがとてつもなく恐ろしく、不安で仕方がなかった。施設での集団生活は、どこにいても誰かがいて、「梨奈」「梨奈ちゃん」「梨奈姉ちゃん」と、いつも誰かが、自分の名を呼んでいた。それが煩わしくて仕方がないと思っていたはずなのに、今となっては、あの声たちが恋しくて仕方がない。都会に出て、通勤の間は様々な音を浴び、雑踏を潜り抜けるようにしているから、家に帰ってからの静けさがより際立って、寂しさに拍車をかけていたのかもしれなかった。

針の筵に座るようにして仕事を終え、誰もいない真っ暗な部屋の扉を開ける。そこに足を踏み入れたら、そのまま闇に呑み込まれそうな気さえした。職場でも、家に帰っても、気が休まるということがない。へとへとに疲れているはずなのにうまく眠れなくなり、長い長い夜を一人で過ごすことに耐えられなくなった梨奈は、やがて給料の大半を、夜の街で使うようになっていった。

あてもなく夜の街を彷徨っているときに、キャッチされるがまま入店したホストクラブ。見たこともないような煌びやかな内装、自分を「姫」と呼んでほめそやし、ちやほやと構ってくれる男たち。その時間だけは、いろんな不安や寂しさも忘れられるような気がしたが、しかし、高卒の事務員の給料では、そんな夜遊びはそうそう持続できるわけもなかった。入社から僅か10か月で印刷会社を退職した梨奈は、売掛金を肩代わりしている担当ホストに勧められるまま、自ら夜の蝶として働くことを選んだ。紹介された店は、表向きはキャバクラだが内情は性風俗店という違法店舗であったのだが、名前が似ていたことで、間違えてその店の扉を開けてしまった。それが、梨奈の今の勤め先である『La vie en rose』だった。

「ねぇ……あんたが探してたのって、もしかして『Love Rose』って店じゃない?あそこ、警察からもマークされてる危ない店よ。あんた、騙されてるのよ。大方、借金を返し終わったら一緒に暮らそう、結婚しようなんて、言われたんでしょ?」というママの言葉が図星過ぎて、絶句する梨奈。そんな梨奈を見て、ママは大きなため息をひとつ。

「あんたが間違えてここに来たっていうのも、きっと何かのめぐりあわせでしょ。同じ借金を返すなら、わたしに返しなさいな。こき使ってあげるから」

そうして梨奈をキャストとして迎え入れ、売掛金を肩代わりして性悪なホストと早々に縁を切ってくれたママのために、梨奈は、懸命に働いた。人目を引く容姿であるばかりでなく、機転が利き、勉強熱心だったことも幸いして、梨奈の接客技術はみるみる上達した。その結果、街の中心部からはやや外れた場所にある店ではあったものの、SNSの口コミで一時期話題になるなどし、半年もしないうちに、それなりの収入を得ることができるようになった。梨奈のスペックであれば、より都会に出ればもっと稼ぐ方法はあったかもしれず、実際、熱心なスカウトにあったことも一度や二度ではなかった。しかし、変わり者で世間知らずの自分を受け入れてくれたママや、気の合う同僚たちとの関係を手放したくなかった梨奈は、1年半後に借金をすべて返し終わったあとも、そのまま在籍を続けていた。

そんなある日、見慣れない客がふらりと現れた。

年齢は30歳そこそこに見える。一瞥でブランドを見抜くことはできない梨奈が見ても、明らかに仕立てがよさそうだとわかるスーツを着ていた。きりっと形の良い眉に、切れ長の一重の目元、小ぶりな鼻と口元。すっきりとした美男子といってよい顔立ちだが、どこか疲れたような、影が差していた。連れはなく、一人きり。街の中心部からやや外れているということもあり、新規の客は常連が知り合いを連れてくるか、SNSの情報に惹かれて物見遊山的にやってくるグループが大半だ。だから、知らない客が一人で訪れるというのは、珍しかった。エリートサラリーマンが出張先で気まぐれな息抜きをしている……そんなところだろうか。

席につき、源氏名の書かれた名刺を差し出しながら、

「咲良(さくら)です。よろしくお願いします」

と、梨奈が微笑むと、

「あぁ、よろしく」

と、あっさりした返事が返ってくる。初めてつく客の大半は、梨奈の容姿にぼうっと見惚れるか、興奮して大げさな賛辞を送ってくるものだが、この客は、そのどちらでもない。意外な反応だったが、見た目だけで判断されていないという感覚は久しぶりで、新鮮だった。

「お客さまは、初めてのご来店ですよね。お名前、伺ってもいいですか?」

「……城ヶ崎、だよ」

有名企業勤めの客の中には、このタイミングで、これ見よがしに名刺を差し出してくるものも少なくない。この客も、間違いなくその類の職に就いていると見えるのに、自分の名前を名乗るまでの一瞬の間と、どこか自嘲気味な響きがあったのが意外だった。何か名乗りたくない理由があるのか、あるいは偽名かもしれない。でも、それはこの場では、お互い様だ。

「城ヶ崎さんって、すごくかっこいい名前。お客さまの雰囲気にぴったり」

瞬間的に頭によぎったいろいろな思いをさて置いて、梨奈は、素直な感想を口にした。すると、相手は少し驚いたような顔で梨奈を見た後、ふっと頬を緩めて、

「ありがとう」

と笑った。それは、先ほどまでの雰囲気とは打って変わった、まるで少年のような、明るい笑顔だった。

――この人の、こんな笑顔を、もっとたくさん見たい。

そう、強く願ったこの瞬間、梨奈は、生まれて初めての本気の恋に落ちていた。


「英次郎さんって、学校の先生なんだ。いいな、生徒がうらやましい。わたしの時にも、こんな素敵で優しい先生がいてくれたらよかったのに」

水割りのグラスに浮いた水滴をぬぐいながら、梨奈が言う。英次郎が『La vie en rose』を再び訪れたのは、初来店からわずか3日後のこと。それからは、ほとんど週1回のペースで足繁く通っていた。2回目の来店時に「城ヶ崎さんって、呼ぶのに長いから、ニックネームつけちゃってもいい?」と梨奈が提案したのに対し、英次郎が自分のファーストネームを名乗り、それ以降、二人の会話は心地よいリズムで進んでいた。

1回の来店時間は1時間程度と決して長くはない。初めのうちは趣味や食事の好みなど、当たり障りのない話題に終始していたが、初対面から1か月が過ぎたころには、英次郎のほうから、プライベートな話にも触れるようになっていた。

「どうだろうな……いい先生かどうか、自分ではわからないよ。誠実に向き合おうとは、思ってるけど」

苦笑してグラスを傾ける英次郎の膝に、梨奈が思わずといった様子で手を置いて、

「そうやって考えてる時点で、絶対にいい先生でしょ?間違いないよ」

と笑いかける。

「そうかな。そう言ってもらえると、救われるよ」

笑い返す英次郎の胸元で、スマートフォンのバイブが鳴る。

「出なくていいの?」

「いや、ただの通知だったよ」

画面を確認して、再びスマートフォンをポケットにしまおうとした英次郎の手元を、梨奈が目ざとく確認し、

「ねぇ、その待ち受けって、英次郎さんの子どもさん?」

と聞く。

「あぁ……うん。もうじき1歳になるんだ。少し歩けるようになったからさ、危なっかしくて、目が離せないよ」

改めて画面を眺める英次郎の顔は、優しい、父親の顔だ。そんな英次郎を見つめる梨奈の心の奥がチクリと疼いたが、気づかないふりをして体を前に乗り出すと、

「ね、お名前はなんていうの?」

と、尋ねた。

「えりな、だよ」

「えりなちゃんかぁ、可愛い名前。どんな字で書くの?」

「英語の英、果物の梨に、奈良の奈」

テーブルに指で書きながら英次郎が説明すると、

「わたしと同じ……」

と、梨奈がつぶやく。そして、怪訝そうな顔で自分を見ている英次郎に気づくと、梨奈は慌てて顔の前で手をひらひらとさせながら、

「わたし、ここでは咲良だけど、本名は、梨奈っていうの。梨に、奈良の奈で、梨奈」

と言った後、

「英梨奈ちゃんって、なんだか、英次郎さんとわたしの子どもみたいだなーなんて、ね」

と、小さな声で付け加え、あはは、と冗談めかして笑って見せたが、頬はみるみる赤く染まり、顔を上げることができなくなった。

「……そうだね」

静かな声で、英次郎が相槌を打つ。さぁ、この話はもうおしまい。これ以上、英次郎を困らせてはいけない。早く次の話題を探さなくては。頭の中は忙しなく回転しているのに、どんな言葉も、なぜか喉の奥でつかえて出て来ない。そんな梨奈の耳に、意外な言葉が飛び込んでくる。

「おれが帰る家に、きみが待っていてくれる……もし、本当にそうだったら、こんな幸せなことはないだろうな」

今度は梨奈が、はっとした顔で英次郎を見遣る。

英次郎さん、今、なんて……?

店内の騒めきも、BGMも、すべての音が、梨奈の聴覚から消えた。今、耳に届いた言葉は、夢ではないだろうか。もしも夢であるならば、どうかこのまま、覚めないでほしい。そう願いながら英次郎を見つめる梨奈の視線をまっすぐに英次郎が受け止めて、二人の視線が静かに、熱く、交錯する。

自分の手に重なった英次郎の手に、梨奈がそっと指を絡めると、そのまま、固く握りあわされる。

未来には決して繋がらない、繋げてはいけない気持ちであることは、お互い、重々承知している。

だが、もう、止めることも、後戻りすることもできない。

そのことも、同時に、強く確信していた。


城ヶ崎英次郎は、星風学園創立者一族の本家当主・城ヶ崎秀國(ひでくに)の次男であり、大学卒業後から学園の中等部で数学教師として勤めていて、今年で7年目になる。8歳違いの兄、紘太郎(こうたろう)は、異例の抜擢で副理事長になったばかりで、当然のごとく、いずれは現理事長である父の跡を継ぐと目されている。

兄が乳がんで実母を亡くしたのは、まだ小学校に上がる前だったと聞いている。幼い我が子を残して逝かなければならなかった母親の気持ちは、昨年娘を授かった身には、つまされる。兄のためにと父が再婚を決意し、そうして生まれたのが自分だ。母は、父とは10歳の年の差があり、元は父の恩師の娘という間柄。母が中学校を卒業するころに父が最初の結婚をし、同時に母の初恋ははかなく砕け散ることになる。そしてその想いは、幼き日の切ない思い出として胸の奥に仕舞われたのだったが、前妻が他界したと聞いたことで、烈火の勢いで再燃したのだ。大学を卒業し、働き始めたばかりの大手銀行の総合職……それなりの、いや、当時であれば相当の努力をして手に入れたであろうその地位を何の躊躇もなく投げうって、ほぼ押しかけるような形で父のもとへ嫁いだのだと、母方の祖母から聞かされたことがある。

物心がついた頃にはすでに中学に上がる直前だった紘太郎は、何につけても優秀で、弟である自分にも優しく、自慢の兄だったことを覚えている。父は、兄弟を分け隔てするようなこともなく、むしろ、どちらに対してもあまり干渉してこなかった。子どものことに関しては母に一任されている状況だったが、母と兄の関係も、親子として申し分なかっただろうと思う。だが、自分が、母が出会った頃の兄の年齢を超えたあたりから、何かにつけて「紘太郎お兄さまがあなたくらいの頃には」と諭されることが増えていき、暗に「兄に負けるな」と言われているようで、息が詰まった。そして高校から大学への進路選択の際、これまであまり口を出してこなかった父から、教職課程を取るように言われたことで、城ヶ崎家の中の自分の立ち位置が確定したことを理解した。既に大学の経営学部を卒業し、事務局や財務部で経験を積んでいる兄、紘太郎こそが、この学校法人の後継者であり、自分はその補佐役に過ぎないということなのだ。

紘太郎は28歳の時、4つ下の女性と見合い結婚をしたが、子宝には長い間恵まれなかった。一方英次郎は、有名な温泉地にある老舗旅館の娘で、大学内で「百年に一人の美女」と噂されるほどだった後輩を数多のライバルを退けて射止め、彼女の卒業を待って、20代半ばで結婚。間もなく、娘の英梨奈を授かった。

自分の実家も妻の実家も裕福で、教育者という崇高な使命を持つ職に就き、超一流といってよい学園に勤め、家に帰れば、牡丹か芍薬かというほど美しい妻と、まさに目に入れても痛くない、可愛い娘が迎えてくれる。傍から見れば、絵に描いたような、順風満帆な人生に見えることだろう。英次郎自身、ある程度レールを敷かれた職業選択だったとはいえ、得意な数学の道を究めることは楽しかったし、生徒たちと関わることも案外楽しめる自分に気づいて、充実した気持ちでいた。定職に就き、家庭を持ち、そして何より、子を生すことに関しては、完全に兄に先んじたのだ。もうこれ以上、誰から何を言われることもないはずだった。しかし、先日。妻の佐織(さおり)が、学生時代の友人らしき相手との電話で、「確かに、卒業してすぐの結婚だったし、もう子どもも生まれたから、皆みたいに遊べないけど……でも、城ヶ崎家の次男との縁談よ。これ以上の条件なんてないし、断る理由なんて、ないでしょう」と話しているのを聞いてしまった。自分の価値は、やはり「城ヶ崎」というブランド抜きでは語ることができず、もしもそれを失ったとしたなら、今手にしているすべてが霧消するに違いない。そのことを、改めて実感させられた。

定期考査前のある日。その日はいつもよりほんの少し早く学校を出られたのだが、なんとなくまっすぐ家に帰る気になれなかった英次郎は、いつも電車を乗り換えるターミナル駅の少し手前の駅に降り立った。そして、ブラブラとあてもなく、高架下のアーケードを歩く。梅雨時期らしい雨模様の平日だったこともあってか、人影はまばらだ。閉店している雑貨店や衣料品店、煌々と明かりやネオンをつけて営業中の飲食店が混在して並んでいるアーケードの切れ目の路地に、ぼんやりとした明かりに照らされたドアがあった。なんとなく近づいてみると、『La vie en rose』と、金属を曲げて作った筆記体で書かれたプレートがかけてあるのが見えた。La vie en rose――薔薇色の人生。英次郎は、引き込まれるようにそのドアを開け、そしてそこで、梨奈に出会った。

梨奈(もらった名刺には「咲良」と書かれていた)は、まだ20歳そこそこのように見え、日本人離れした目鼻立ちに無邪気そうな笑顔はいかにも営業っぽいという感じではなかったが、当初は、だからどうした……という気分だった。名前を尋ねられた時には、一瞬偽名でも騙ろうかと思ったが、やめた。どうせ、自分の価値は、そこにしかないのだから。

だが、英次郎が名乗ったのを聞いた梨奈の反応は、意外なものだった。

社会人となって以降、出会う人物の多くは、「城ヶ崎って、あの?」と、目の奥をギラギラさせながら聞き返してきたが、梨奈はただ、「かっこいい名前」だと褒めて、「お客さんにピッタリ」だと笑ってくれたのだ。恐らく、「城ヶ崎」が一体何者なのかを知らない、ただ、それだけのことだったのだろう。だが、純粋に目の前にいる自分に向き合ってくれているのだということがひしひしと伝わり、「城ヶ崎の名に相応しくあるべき」ではなく、「城ヶ崎はあなたに相応しい」と認められたような気がして、英次郎は、身の内が大きく震えたような感覚に陥った。

週に1回、1時間、一緒に酒を飲むだけ。これが、英次郎が自分自身に課した、梨奈に会う条件だった。教職についている身であり、何よりも既婚者で、娘もいる。梨奈だって、自分が金を使って飲みに来ている客だから、愛想よく、丁寧に応対してくれているのだ。それなりに人生経験も積んできた30代目前のこの年で、年若い夜の嬢に入れあげて我を忘れるほど、浅はかではない。そうだろう?と、自分自身に何度も言い聞かせた。

だから初めは、当たり障りのない世間話を楽しんでいたのだ。しかし、そんなたわいもない会話の中で梨奈が垣間見せる鋭い洞察や達観は、英次郎に彼女の頭の良さや経験知を感じさせた。一見すると、ただの世間知らずのお嬢ちゃんなのだが、ここまで、いったいどんな人生を歩んできたのだろう。もっと知りたい、いろんなことをもっとよく話してみたい、そして、自分のことも聞いてほしい。そんな気持ちを、話せば話すほどに、搔き立てられた。そうして英次郎が少しずつ、自分のプライベートなことを話すようになると、梨奈もまた、少しずつ、自分のことを話してくれるようになった。両親とは生まれてすぐに生き別れて記憶がないこと、施設育ちで身寄りがないこと。だからこそ、「家族」に憧れていること。梨奈の抱える「自分のルーツがない、寄る辺がない」という孤独は、「常に誰かといながら、誰も本当の自分を見てくれない」という英次郎が抱える孤独と、根の深い部分で繋がりあい、厳かに共鳴しているように思えた。孤独な者同士が出会えば、惹かれあうのが自然の摂理……つまり、理性では抗えない。とはいえ、英次郎の左手の薬指には指輪がはまっていて、既婚者であることは一目でわかる。英次郎としても、梨奈を欺こうなどという気は毛頭なかった。所詮、二人の関係は「客と嬢」。仕事として自分に関わっているのだから、当然、梨奈のほうから、一線を引いてくれる。そう思い込むことで自分の揺れ始めた気持ちに気づかないふりをして、目を逸らし続けていた。

だが、あの日。

英次郎の娘の名が「英梨奈」であると聞いて、「英次郎さんとわたしの子どもみたい」と冗談めかしながら、顔を赤らめている梨奈を見て、英次郎の中で、決して認めてはいけない気持ちが動き出してしまった。「城ヶ崎家の英次郎」ではなく、「城ヶ崎英次郎」そのものを見てくれる梨奈と、梨奈が望む家族になれたのなら。お互いが抱えている孤独感を、深い深いところから、埋めあえるかもしれない。決して叶わない、叶えてはいけない願望であることはわかっていた。だが、紛れもない「自分自身」を求められているのだという実感は、魂を揺さぶられる感動だった。今、目の前で、心から自分を求めている相手に、報いたい。その先はないことも、初めから終わりが決まっていることもわかっていたのに、衝動に突き動かされるまま、英次郎は、梨奈の手を取った。

英次郎の不審な行動に最初に気づいたのは、母の麗子だった。本当は妻の佐織も気づいていたのかもしれないが、英次郎本人に詰め寄り、事実確認をしてきたのは、麗子が先だった。

どこまで調べられているのかはわからなかったが、母の性格上、ある程度確信を得てからの行動に違いない。ごまかしは効かないだろうというのは明らかだったから、英次郎はあっさりと、すべてを認めた。

「英次郎……あなた、なんてことを」

悲痛な表情で、絞り出すように言う母を見て、英次郎の気持ちは暗く沈む。そうだ、この思いは、誰も幸せになんかしやしない。最初から、それはわかっていたはずだったのに。

「佐織さんに気づかれる前に、別れなさい。英梨奈ちゃんもまだ小さいんだから……いいこと。金輪際、店には行かないこと。後のことは、わたしがやりますから」

毅然と言う麗子に、英次郎は懇願する。

「待ってよ、母さん。自分の蒔いた種だ、おれもいい大人なんだし、自分でけりをつけるよ。大丈夫、ちゃんと別れるから」

「いい加減になさい!」

鋭い平手打ちのような麗子の言葉が、英次郎を打つ。

「英次郎、あなた、そんなことが言える立場だと思って?女の勘は鋭いの、もう、一刻の猶予もないのよ。英梨奈ちゃんが可愛いのなら、手放したくないのなら、今すぐ、ここで、相手の女の連絡先を消しなさい」

静かな怒りを含んだ麗子の言葉には、強い説得力があった。不貞を働いたことがばれて離縁されたとしたら、幼い英梨奈の親権者は、間違いなく母親の佐織になるだろう。佐織の実家の旅館は、そう遠くないうちに佐織の兄が継ぐ予定になっているが、妹のことも姪のことも溺愛しているから、すぐにでも受け入れてくれるはずだ。一方、そんな妹や姪を裏切って傷つけた自分は蛇蝎のごとくに嫌われるだろうから、面会などさせてもらえない可能性は、十分にある。物理的な距離も、心理的な距離も空いてしまえば、幼い英梨奈の記憶から、あっという間に自分は消去されてしまうだろう。

「わたしさ、ずっと一人だったから、いつか、自分の家族を作って、幸せになりたいって……でも、今、英次郎さんの家族を、壊すようなことをしてる。最低だよね」

何度目かの逢瀬のとき、梨奈が震える声でそう言ったのが思い出される。

「信じてもらえないと思うけど……英次郎さんにも、英次郎さんの家族にも、幸せでいてほしいの。本当だよ。英梨奈ちゃんのお父さんを奪うようなこと、したくなかった。それなのに、好きになってしまって……何度も、何度も諦めようとしたけど、止められなかった……」

ごめんなさいと繰り返しながら、悲痛な涙をこぼす梨奈を、ただ、抱きしめることしかできなかった。本当は、最初に自分がしっかりと選択しなくてはいけなかったのだ。感情の奔流に抗えず、年若い梨奈に決断を委ねることで、自ら選択することから逃げた。その結果、大事な人すべてを、不幸にしようとしている。もうこれ以上、そんなことを続けるわけにはいかない。今度こそ、自分が選択しなくてはならないのだ。それは、どんな公式を当てはめたとしても必ずたどり着く、たったひとつの真実だろう。

「……わかった」

一言だけ言うと、英次郎はスマートフォンを取り出し、梨奈の連絡先やこれまでのやり取りのすべてを、ありとあらゆる感情を凍らせたまま、消去した。

最後に一目、梨奈に会いたい。そんな甘ったれた感傷に浸ることは、もう許されない。人づてで、突然の酷い別れ方をすることで、梨奈を自分の呪縛から解放してやるのだ。

「あとはわたしに任せて。あなたはいつも通りでいなさい。奥さんや子どもを不安にさせてはだめよ」

今にして思えば、麗子もまた、息子である英次郎の家庭を維持させることで、自分の家族を守ろうとしたのだろう。麗子が梨奈にどんな話をしたのか、あえて確認することはしなかったが、以後、ぱったりと連絡が途絶え、その消息を聞くことは、二度となかった。



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