1.プロローグ/接近
はじめまして、山仲奏と申します。
初投稿ですが、楽しんでいただければ幸いです。
「先生、さようなら!」
中庭の中心を通るレンガ敷きの通路で、追い越しざまにそう言いながら駆けていく女子生徒3人の背中に向かって、城ヶ崎淳一郎は、「気をつけて帰れよー」と声を張った。幼稚舎からの一貫教育を特色とし、名門と謳われるここ星風学園高等部において、1学期の中間テストは、それなりの重圧を生徒に強いていたに違いない。しかし、それも今日で最終日となると、結果はともあれ「とりあえず終わった」という安堵の空気が、学園全体にそこはかとなく漂っている。
中庭を抜けた先には新緑がまぶしい西欧の園庭風の広場があり、そこをまっすぐに抜けて校門へと続くレンガ通路を横切るように、とりどりの部活のユニフォームを着た集団がいくつも通りすぎる。自分の時もこうだったかと思い起こしながら女子生徒の背中を見送っていた淳一郎は、一人の人物が校門を抜け、こちらに向かってくるのに気づいた。すらりとした長身で、明るい紺色のスーツの上着を片手に持ち、もう片方の手には重そうな革製のトートバッグを下げて、まっすぐに歩を進めている。無造作にたくし上げられたシャツの袖から覗く肌は抜けるように白く、無駄のない筋肉で引き締まっている。目じりがやや持ち上がった切れ長の瞳、長いまつ毛、薄い唇は中性的な美形と言えたが、広い肩幅と明るい栗色の髪がオールバックにセットされていることも相まって、ひ弱な感じは一切ない。吹き抜ける風に、額に落ちた幾筋かの前髪が、陽に透けてほとんどブロンドのように輝きながらなびいている。先ほどの女子生徒たちがすれ違った後に振り返り、抑えようとしても抑えきれない嬌声を上げているのも、無理はない。まるで、映画のワンシーンから抜け出してきたかのような、完璧な風情。
――あぁ、初めて会った時も、こんなふうに目を奪われたんだっけ。
もう20年近く前の記憶が、鮮やかに蘇る。かつて、この学び舎で共に過ごした日々。当時、まだたった13年間しか生きていなかった自分たちが、想像を絶するような過去の事実を超え、未来を掴んだ軌跡。触るたびに痛々しく、それでいて何ものにも代えられない記憶。それを嚙みしめながら、淳一郎は、こちらへ歩いてくる別所奈矢に向けて、大きく片手を挙げた。
*
4月。
昨年までは幼稚舎からの幼なじみばかりと過ごしてきたが、中等部への入学を境に、少し顔触れが変わる。と言っても、1年から数年ぶりに会う帰国子女組が大半で、まったく新しい顔ぶれである中学受験組は全体の1割程度と少数派だ。だから、入学式といっても、ほとんどの生徒にとっては新学期の始業式と大差がないというのが通例であったのだが、この年は違っていた。
新入生代表の挨拶で、聞き慣れない生徒の名が呼ばれる。「別所奈矢」――返事をして立ち上がった少年は、会場後方の保護者席のすぐ手前、まだクラス発表されていない中学受験組が座っている一隅にいた。周囲の子どもたちより拳ひとつ分ほど背が高いということが、席を立つとよくわかる。均整がとれた体躯に伸びやかな手足、抜けるように色が白く、歩容に合わせて微かに揺れている長めの前髪は明るい栗色で、窓から差し込む春の陽光にきらめいている。濃紺とグレーを基調とし、ブレザーにベストを併せた制服も相まって、その場にいた多くの者に、いつか映画で見た魔法学校を思い起こさせた。会場後方から前方に向けて、細波のようにざわめきが広がっていき、驚きや羨望や好奇の視線が次々に彼に送られたが、何事も意に介さないように、滑るように優雅に、そして堂々と歩を進める。長らく該当者がいなかったスカラシップに該当した新入生であると紹介されると、彼は壇上で丁寧に一礼し、ゆっくりと会場を見渡した。濃いまつ毛に縁どられた暗灰色の瞳、目じりがやや持ち上がった切れ長の目元、まっすぐに通った鼻筋と小さめの小鼻。その薄い唇の両端が微笑みの形に持ち上がった瞬間、1組の生徒として最前列に座っていた城ヶ崎淳一郎は、その絵画のような美しさに思わず息を呑み、そして恐らくそれは、淳一郎だけの感想ではなかっただろう。
新入生代表の挨拶自体は、取り立てて変わったものではなく、最高の環境で学べることに対する感謝と期待、そして決意を、美しく、正しい日本語で述べたものだった。しかし、淀みなく、完璧な間をとって、一度も手元を見ずにそれを述べる奈矢の声は、不思議な魅力に満ちていた。全体的に色素が薄く、中性的な美形とはギャップを感じさせる、やや低めだがよく通る声。同級生には、まだ幼い声を維持している者が少なくない中、落ち着いた声とその独特な揺らぎを聞くだけで、そこに「大人」が立っているように思える。淳一郎は、生まれてはじめて、「話を聞いていたはずなのに内容が何も残らず、印象だけが刻まれる」という体験をし、式の後に移動した教室の席に奈矢が座っているのを見て、これまでに感じたことのない、胸のざわめきを感じた。不安とも期待ともつかない。だが、確実に何かを予感させる空気。しかし、それが何なのかを深く追究する間もなく、奈矢の周りに群がるクラスメイト達に、呼ばれることになった。
「遅いよ淳一郎、こっちこっち」
昨年も同じクラスだった友人の一人に手招きされるまま、奈矢の席の近くへ行く。
「別所くんさ、すごいよな。入試の試験問題、ほぼ満点だったらしいぜ……あぁ、淳一郎は、お父さんから聞いて知ってたとか?」
淳一郎の父、城ヶ崎紘太郎は、星風学園の理事長であり、中等部の校長は叔父の英次郎。城ヶ崎家は、この学校法人創立者の家系だった。
「まさか。父さんは、ぼくにそういう話は、一切しないから」
苦笑交じりに言葉を返す間も、淳一郎は、クラス中の女子の視線を背中に感じている。癖毛の黒髪、形の良い濃い眉が印象的で、黒目勝ちな丸い瞳は、その純粋さをそのまま映しているかのようにキラキラと輝いている。小学生の頃から続けているテニスのおかげで、肌は健康的に日焼けしており、最近になって伸びてきた背は、ようやく女子たちを追い抜き始めた。そんな淳一郎は、その家柄を抜きにしたとしても、どこか人目を引く、親しみやすい魅力を持つ少年であった。だが、彼は今、女子たちの視線が自分の背中を通り抜け、向こう側にいる奈矢に注がれているのを、ひしひしと感じている。早く近づいてみたいが軽いとは思われたくない、そういう葛藤を滲ませた視線だ。男子たちにしても、奈矢と仲良くなることこそが、クラス中の女子の心を掴むための最も確実な方法であると確信し、妙な興奮状態で彼の周りに群がっているのだということが、手に取るようにわかった。
「城ヶ崎くんって……もしかして、校長先生か理事長先生の親族なの?」
淳一郎の名札を目にとめたらしい奈矢が、そう尋ねてくる。すると、淳一郎が答えるより早く、
「淳一郎は、理事長先生の息子だよ。で、校長先生は叔父さん」
「別所くんは、今年から入学だから、知らないことが多いよな。遠慮なく、おれたちに何でも聞いてくれよ」
と、周囲のクラスメイト達が我先にと応答する。奈矢は、「ありがとう」と爽やかな笑顔でそれを受けながら、
「城ヶ崎くんも、いろいろと教えてくれるかい?」
と、椅子の上からこちらをじっと見上げ、言う。
「……もちろん」
一瞬詰まった後に頷き返した淳一郎は、自分の心臓が急に強い鼓動を打ち、頬が熱を持ったのを感じて、戸惑う。そして、つい最近、ふたつ年上の従姉が、淳一郎の熱を測ろうと額に手を置き、ふいに顔を覗き込んできた時のこと。その時の彼女の瞳の色を、唐突に思い出した。
どうして、今、英梨奈姉さんが出てくるんだよ。
混乱の中に落とされた淳一郎の思考は、教室の扉が開く音と、「席に着きなさい!ホームルームを始めますよ」という担任教諭の言葉によって中断され、現実に引き戻された。
星風学園中等部は、ほとんどの生徒が内部進学生であるが、さらに先の高等部は偏差値70超えの、いわゆるSランク校。入学式直後だからといって、浮ついている場合ではないのだ。学年のカリキュラムや、部活動やボランティアなどの勉学以外の活動が成績にどのように反映されるかなど、担任教諭からの一通りの説明を聞き終わるころには、生徒たちの先ほどまでの熱は一気に冷め、表情が引き締まったようだった。そして別室では、これと同じか、むしろもっと詳細かつ緊張感のある説明が、保護者に向けてなされているに違いない。
「授業は明日から開始されます。各部活の練習見学もできますから、まだ入部先を決めていない人は、今週中に検討するように。入寮する生徒は、この後手続きがあります。ホームルームが終わったら、保護者と一緒に講堂に移動してください。何か質問は?」
無言の教室をぐるりと見まわすと、教諭が黒板の前に置いてあった段ボールを開け、中に入っていた教科書や参考書一式が生徒全員に配られた。そうして、出席番号1番の生徒が終了の号令をかけると、各々で星と翼をモチーフにした校章があしらわれた大きなリュックと手提げのサブバッグに大量の教材を詰め込み、三々五々、教室を出ていく。そして説明会を終えて廊下で待機していた保護者と合流すると、この後の昼食の相談などをしながら、歩き去っていった。前の席に座っていた友人がリュックを持ち上げながら振り返り、まだ教科書を詰めている淳一郎に向かって、
「淳一郎も、すぐ帰るのか?お父さんたちはまだ帰らないだろ?」
と尋ねてくる。うん、まぁ、と生返事をしながら、淳一郎は、目の端で奈矢の動きを追う。荷物を持って立ち上がった奈矢は、教室の後ろの戸口から廊下に出て、小さく手を挙げた小柄な女性と、その傍らに立っている背の高い男性のほうへ向かっていく。ややふくよかで、やわらかい雰囲気の女性と、眼鏡をかけた穏やかそうな男性は、一見、奈矢とはあまり似ていないように見えた。が、女性が両手で奈矢の肩を抱くようにポンポンと叩き、男性が奈矢の髪をかき混ぜるように撫で、少し照れたように奈矢が笑うと、「代表挨拶、最高にかっこよかったわよ!」「あぁ、大したもんだ。立派だったぞ」「やめてくれよ、父さん、母さん。みんなのいるところで」という親子の会話が、離れた教室の中にまで聞こえてきたように思えた。
「おーい、ジューン!」
ふいに愛称で呼ばれ、淳一郎の心臓が跳ね上がる。間違いない、この声は……
「もう終わったんでしょう?早く帰りましょ」
教室の前方の入り口から顔をのぞかせ、手招きしている女子生徒。すらりと背が高く、形の良いはっきりとした眉が淳一郎とよく似ていて、背中の半ほどできれいに切りそろえられた黒髪が、手の動きに合わせて揺れている。
「あぁ、そういうことね」と、前の席の友人がつぶやいたのは聞こえなかったことにして、淳一郎は重い荷物を慌てて担ぎ、女子生徒が待つ入り口へと小走りに向かった。
「英梨奈姉さん、なんでこんなところにいるのさ」
小声で、しかし鋭い口調で淳一郎がそう言うと、城ヶ崎英梨奈はわざとらしく腰に手をやって、
「ずいぶんなご挨拶じゃない。3年生は、本当は、今日休みなのよ?でも、我々生徒会役員は、きみたち新入生のために、わざわざ、朝っぱらから、登校してるんだから。感謝しなさい」
と、一言ずつ区切るように、言う。
「いや、それはわかってるよ、そうじゃあなくて……どうして、ぼくの教室にいるのかってこと!」
英梨奈が中等部校長の一人娘であるということは内部生の中では周知の事実であった。しかし、それがなくとも、艶やかな黒髪、下まつ毛までしっかりと長い大きな目と小さな唇は、まるで名工が丹精込めたビスクドールのようだったし、さらに、全国中学校総合文化祭出場の常連としてその名を馳せている、星風学園演劇部のエース。つまり、いろんな意味で、英梨奈は有名人なのだ。周囲の同級生がちらちらとこちらを見ている気がして、淳一郎は、気が気ではない。
「どうしてって、今日は一年で一番荷物が多い日で、でも、伯父さまも伯母さまも忙しいでしょ。だから、ママの車で一緒に帰るようにって、パパから言われてるのよ。聞いてなかったの?」
淳一郎の父は理事長で、母は父の秘書をしている。母は在宅でリモートワークをしていることも割とあるのだが、大きな学校行事の前後は夫婦であちこち出歩き、多忙であることが多い。だから入学式後は、叔母……つまり、英梨奈の母が迎えに来てくれると、確かに、今朝、母からそう聞いていた。だが、そのために英梨奈が教室まで迎えに来るなんてことは、断じて、聞いていないのだ。
「わかったよ、帰ろう」
これ以上この場にとどまることがいたたまれず、そそくさと歩き始めた淳一郎に、跳ねるように軽やかに追いついた英梨奈がスイッと手を伸ばす。
「貸して、ひとつ持ってあげる」
サブバッグの持ち手を掴んだ英梨奈の手が淳一郎の手に触れるや否や、
「いいよ!」
自分でもびっくりするような大声を出して淳一郎が英梨奈の手を振り払い、不意打ちされたような形になった英梨奈が、小さな悲鳴とともに、ぐらりとよろけた。
「……大丈夫ですか」
その英梨奈の身体を後ろから抱き留めて支えたのは、ちょうどそこに立っていた奈矢だった。
「ありがとう」
すぐに体勢を立て直し、くるりとターンして奈矢に向き直った英梨奈は、朗らかに礼を言った後にまじまじと奈矢の顔を眺め、
「きみ、新入生代表の挨拶をした、別所くんね」
と微笑んだ。
「先輩は、生徒会副会長の城ヶ崎先輩、ですよね」
「すごい!壇上で1回名乗っただけなのに、覚えていてくれたんだ」
英梨奈がパチン、と胸の前で手を合わせ、嬉しそうに言う。
「先輩こそ、ぼくのことを覚えていてくださって、光栄です」
「きみのことは、たぶん、あの場にいた全員が、覚えているんじゃない?代表挨拶、堂々としていて、すごくよかったわ」
女子の中では背の高い英梨奈と向かい合っても、奈矢のほうが、はっきりと上背がある。自分と向かい合うときはほぼ平行な目線……むしろ、少し下向きになる英梨奈が、奈矢を見上げながらはしゃいだ笑顔を見せていて、それを真正面から受け止めていながら、涼しい笑顔を一切崩さない奈矢。まさに、絵に描いたような美男美女だ。淳一郎は、なぜか胸の奥にもやもやと、不快な暗雲が生まれた気がして、そんな自分にも、そして、初対面にもかかわらず親密な空気を醸している(ように見える)英梨奈にも奈矢にも、心底イライラした。
「あっ、もう、淳ってば!ちょっと待ってよ!」
無言で歩を進める淳一郎に気づいて、「じゃあ、またね」と奈矢に告げた英梨奈が、慌てて追ってくる。
またね?またねって、何なんだよ。
英梨奈と同じ車に乗って家路につくことが、こんなに憂鬱になる日が来るとは、思ってもみなかった。しかも、それがなぜなのか、自分でもよくわからないときている。
……もう、勘弁してくれよ。
淳一郎は、ごちゃまぜの感情をそのまま吐き捨てるように、だが、英梨奈には決して気づかれないように、短いため息をついた。
「ごめん、淳一郎。お待たせ」
シューズロッカーの少し手前にあるフリースペース、その一角にいくつか据えてあるテーブルで頬杖をつきながら、これといった目的もなくSNSの画面をスライドさせていた淳一郎は、呼びかけられて顔を上げ、
「外出届、大丈夫だった?」
と、急ぎ足で戻ってきた奈矢に向かって、椅子から立ち上がりながらそう返した。
「うん。帰省以外で外出するなんて初めてだったから、勝手がわからなくてさ。待たせてごめん」
改めて謝罪を繰り返す奈矢は、また少し背が伸びたように見える。淳一郎もそれなりに順調に成長しているのだが、奈矢との差は、なかなか縮まらないのだ。
「いいよ、そんな謝んなくて。急に誘ったのはぼくなんだし」
奈矢の自宅は、通学すると2時間かかる場所にあるため、平日は寮で過ごすのが常だった。そんな奈矢と放課後に過ごせるチャンスは滅多にない。だからこそ、今日は特別なのだ。
来週からの期末考査に備えて、淳一郎が所属するテニス部や奈矢が所属する水泳部はもちろん、すべての部活が活動休止となっており、さらに臨時の職員会議のため、急に4時限で放課となった。降って湧いたような、何の予定もない、真っ白な時間。誘うなら、今、このタイミングしかない。自分のテリトリーで、さらに深く奈矢と向き合ってみたいという本音に、「ぼくの家で、一緒に勉強しよう」という最も自然な、かつ、これなら断られる心配はないだろうという理由をつけて、淳一郎は、初めて奈矢を自宅に誘ったのだった。「えっ、いいの?楽しみだな」半袖の夏服を着た奈矢がそう言って微笑むと、まだ梅雨が明けきっていないどんよりとした蒸し暑さも、少し軽くなったように思えた。
出会った日の何とも言えない気まずさを、主に淳一郎がどう克服し、二人の仲が急速に近づいたきっかけは何だったのか。それはよくあるといえばよくある、些細なものだった。
飛び石連休になったゴールデンウイーク前半の、平日に挟まれた休日。親睦会の名目で、クラスのほぼ全員が駅前の大手カラオケチェーン店で集まったのだったが、マイクを握っているのは、盛り上げ役を自負する限られた数人のメンバー。他の面々は、パーティールーム内をどう行き来して、いつ、お目当ての人の隣に移動しようかとタイミングを計りつつ、おしゃべりに夢中になっている状態だった。誰もが知っている流行りの曲や、必ず盛り上がる定番曲、幼いころ夢中になったアニメソングなど、一通りのネタが終わったところで、「おまえも何か歌えよ」と、淳一郎がマイクを渡される。「え、いいよ、ぼくは」と、淳一郎は全力で断ったが、「いいから!なんか歌えって!」と、相手も引かない。押し問答が何往復かしたところで淳一郎が根負けし、軽くため息をつきながら、マイクを握る。淳一郎が選んだ曲が流れ始めると、他人の歌などただのBGM程度にしか聞いていなかった全員が顔を上げ、モニターに目をやった。
「誰これ?バンド?」「知らない、聞いたことない」というやり取りが、あちこちで起きる。彼らが生まれる前にデビューし、数年で解散してしまった『Chariot』というバンドの、ドラマ主題歌にも使われていた『Stardust』という曲。当時はそれなりに流行ったのだが、今はもう、30代後半から40代以上の大人がサビの部分を認知している程度で、フルコーラス歌える人となると、かなり限られるだろう。
そんな物珍しい曲だからと熱心に聞くわけもなく、長めのイントロが終わるころには再びおしゃべりに没頭し始めた級友を尻目に、淳一郎は、慣れた様子で淀みなく歌い上げた。曲が終わると条件反射のように拍手が沸くが、誰も真剣に賛辞を送っているわけではないというのは、先ほどまでと同じだ。ただ、元来恥ずかしがりで、人前で目立つことを好まない淳一郎にとっては、その反応の方がむしろありがたかった。早く次の誰かにマイクを渡して、上書きしてもらおう。そう思って周囲を見渡していると、女子の接近を牽制しているように見せかけて実はチャンスを待っているという、複雑な演技中の男子数人に囲まれていた奈矢が、「じゃあ次、ぼくも、歌っていい?」と、タッチパネルに手を伸ばした。
いったいどんな曲を歌うのか、そしてまた歌も上手いのだろうかと全員が見守る中、明るい曲調ながらどこか切なさを感じさせるイントロが流れ出すと再び首を傾げる者が続出し、淳一郎だけが、思わず椅子から腰を浮かせた。
「『Cherry blossoms』だ……!」
モニターに顔を向けたまま、横目で視線を送ってきた奈矢と、淳一郎の視線が合う。すると、共犯者同士が交わす合図のように、奈矢がにやりと笑って見せた。『Chariot』のデビュー曲『Cherry blossoms』は、一番流行った『Stardust』よりも、ファンの中では名曲と謳われている。それを、ひとつのミスもなく、歌うと少しハスキーになる声で、奈矢は見事に歌い上げた。
「別所くん、『Chariot』好きなんだ?」
「うん。小さいころに、よく家で流れてて……まさか、同級生に同じ趣味の人がいるとは思わなかった」
級友たちの本気の拍手が響く中、淳一郎が勢い込んで話しかけると、奈矢もまた、頬を紅潮させて答える。そこから解散までの1時間余りは、誰も割って入ることができない、まさに「二人の世界」だった。淳一郎の奈矢に対する初対面の印象は、英梨奈の介入もあって正直複雑だったのだが、話してみれば、興味関心は同じベクトルであることが多いということがよく分かった。表裏がなく正直で、自分の感情にいつも素直に従う淳一郎と、常にスマートだが、感情の起伏を見せずどこか影がある雰囲気を持つ奈矢は、誰がどう見ても正反対のタイプだったが、それがマイナスに働くこともなく、淳一郎には奈矢のすべてが新鮮に感じられた。これまで周囲にいたどの友人とも違う、肩を並べられる同輩でありながら、尊敬の対象にもなりうる存在。淳一郎の対人関係図の中で奈矢が占める割合がぐんぐん大きくなっていったのは、自明の理だった。それはまた奈矢にとっても同じであったのか、教室内でも一緒にいることが多くなり、「奈矢」「淳一郎」と呼び合うようになるまでに、そう時間はかからなかった。
色白で背が高く、暗灰色の切れ長の瞳に明るい髪色、すっきりした鼻筋は美少年と呼ぶに相応しいが、長いまつ毛や唇の薄い控えめな口元のおかげで、時に少女のようにも見える顔立ちの奈矢。健康的な肌色に少し癖のある黒髪、それと同じ色のくっきりと濃い眉、まさに「気持ちを映す鏡」のような瞳にはまだあどけなさも残っているが、近頃子どもっぽさが急速に抜け、凛々しい顔つきになってきた淳一郎。外見もまた好対照の二人がいつも一緒にいるというだけで注目は浴びやすかったのだが、同級生の一部の女子生徒の間で「星風のオスカルとアンドレ」と密かに呼ばれるようになったことで、一時期、学年内で原作が取り沙汰されるという、ちょっとしたブームも起こした。
「ねえ、せっかくだからさ、昼ご飯も途中で食べて帰ろうよ」
スマートフォンをリュックのサイドポケットにしまい、肩ひもを背負いながら、淳一郎が言う。クラスの中、いや、学年の中で、自分が一番奈矢と仲がいいという自負はある。しかし、あと一歩を踏み込ませない何かを奈矢に感じていた淳一郎にとって、自宅への招待を口にするのは、それなりの勇気と思い切りを必要とした。それを、すんなりと、しかも前向きに奈矢が受け入れてくれたことで、すっかり舞い上がってしまっていた。初めて二人で校外に出るのに、外食までというのはさすがに攻め過ぎだったかと口にしてから気づき、後悔した淳一郎だったが、
「いいよ。たまには学食以外で食べたいよな。何がいい?」
と返事が返ってきたことで心底ほっとした。屈託のない少年らしい笑顔を取り戻した淳一郎が、「何でもいい?じゃあさ」と、チキンが人気のファストフード店の名前を口にすると、「お、それいい!おれ、あそこのビスケット、めっちゃ好きやん」と奈矢が笑う。おそらく無意識に一人称が変わって、方言が出てしまったらしい奈矢との距離がぐっと近づいたような気がして、淳一郎は、いつもはうんざりさせられる自分の衝動性を、今回ばかりは自賛した。
淳一郎の家には、学校の最寄り駅から在来線に乗り、地下鉄に乗り継いで40分ほどで着く。その乗り換えのターミナル駅に目当ての店があり、そこで昼食をとった。有名私立中学校の制服を着た美少年である奈矢と淳一郎は当然のように人目を引き、特に店内の女性陣の視線を集めていたのだが、そんなことにはまったく気づかないくらい、淳一郎は奈矢との会話に夢中になっていた。奈矢もまた淳一郎との会話を掛け値なしに楽しんではいたのだが、急にふっと悪戯っぽい笑みを浮かべると、
「ほら、ついてる」
と手を伸ばして、淳一郎の口元に僅かに残っていたチキンバーガーのソースを、紙ナプキンで拭き取る。
「え?ありがとう」
ちょっと照れながら礼を言う淳一郎は、ちょうどこの時、同級生の女子生徒が3人店内に入ってきていて、この後、自分の耳には入らないところでだいぶ尾ひれのついた噂を流されることになる(そして恐らく、入り口側を向いて座っていた奈矢は3人の入店に気づいていた)ことなどは、知る由もなかった。
地下鉄の駅から10分強くらい歩いた閑静な住宅街の中に、淳一郎の自宅はあった。「最寄り」とはいえ、微妙に遠いと感じる道のりも、今日はあっという間だ。門扉から広い庭を通り抜け、背の高い玄関ドアのノブに淳一郎が手をかけると、機械音とともに電子錠が外れる。
ドアを開け、「ただいまー」と靴を脱ぎながら習慣的に声を出した淳一郎は、「おかえりなさい」と意外な声で返ってきたので、驚いて顔を上げた。
「おばあさま。来てたんだ」
「えぇ、ダニエルのお見舞いにね。もう帰るところよ」
ちょうどリビングから玄関へと出てきた老婦人は、淳一郎の祖母、城ヶ崎麗子。藤色の地に墨で描いたような花柄のワンピースをそつなく着こなして、ふわりとすそ広がりにパーマがかかったボブスタイルの髪も黒々としているため、到底、60代も半ばを迎えているとは思えない。
「ダニエルには石丸の鶏ささみ、淳にはプチラパンのシュークリームを買ってきたわ。万里さんに渡してあるから、おやつにお上がりなさいな」
淳一郎が生まれる前から城ヶ崎家で飼われているラブラドールレトリバーのダニエルは、17歳という高齢になり、最近とみに体力を落として、寝ていることが多くなった。そのダニエルが好んで食べるのが、城ヶ崎家が代々ひいきにしている精肉店の鶏肉だ。祖母が、それを時々差し入れてくれているのは知っていたが、今日はさらに、淳一郎が「世界で一番美味しい」と信じてやまないシュークリームのお土産を、母に預けてくれているという。大事な友人を招待するタイミングとして、これほど相応しい日は、ないかもしれない。
「やった、ありがとう、おばあさま!奈矢も、上がって」
玄関先で淳一郎と麗子のやり取りが始まったため、一歩下がったところで佇んでいた奈矢に向かって、淳一郎が言う。
「お邪魔します」
靴を脱いで揃えた奈矢が振り向く。吹き抜けの玄関ロビー、その天窓から降り注ぐ陽光で煌めく明るい栗色の髪と、どこか物憂げな暗灰色の瞳。それを目にした瞬間、麗子が思わず吸い込んだ息が、乾いた音を立てた。それが喉の奥で塊になったようでうまく息が継げず、麗子の手足は、急速に体温を失っていく。
「同じクラスの、別所奈矢くんだよ」
奈矢にスリッパを勧めながら、笑顔で自分にそう紹介する淳一郎の声が、遠くに聞こえる。どうして……まさか。震える麗子の手から滑り落ちたハンドバッグが床で硬い音を立て、淳一郎が驚いた様子で駆け寄ってくる。
「どうしたの、おばあさま?大丈夫?」
バッグを拾って手渡してくれる淳一郎に、「えぇ、大丈夫よ」と、かすれた声でかろうじて返事をしながら、麗子の視線は、奈矢から外すことができない。そんな麗子をじっと見つめ返しながら、奈矢は、
「初めまして。別所奈矢です」
と、礼儀正しく一礼した。
「別所、奈矢くん……って、おっしゃるのね」
何とか返事をしたが、自分の声とは思えないほど、無様に上擦っている。しかし、そんなことより、麗子には考えるべきことがあった。苗字は違う……しかし、結婚して姓が変わっているということは十分にありうる。あの女性の息子、それ以外に、こんなに似ているということがあるだろうか。
「あの、別所くん、あなた……とても、色が白くてらっしゃるのね。ご家族に、どなたか、西洋の方がいらっしゃるのかしら」
微かに震える声で、意外な質問をする祖母を淳一郎は驚いて見やったが、
「いえ、両親も、親戚も、日本人です」
と、これまでに何度もこの手の質問をされた経験がある奈矢は、淡々と答える。
「そうなのね……ご両親は……お仕事は、何を……?」
「おばあさま、ちょっと待って。急にどうしたんだよ。なんでそんな変なこと聞くの?」
相手を値踏みするような質問を畳みかける祖母に強い違和感を覚えつつ、さすがに止めようと、やや険しい声音で淳一郎が割って入る。
わかっている。およそ、初対面の相手に対してするべき質問ではないことなど、麗子にも、重々、わかっているのだ。しかし、聞かずにはいられない。奈矢は、そんな麗子の内心の葛藤を知ってか知らずか、気色ばむ淳一郎を宥めるようにそっと視線を送ったあと、麗子に向き直り、
「父は建築士です。母は、今は家にいますが、学校を出てからぼくが生まれるころまで、保育士をしていたと聞いています。仕事と、実際の子育てはずいぶん違うと、よく言っています」
と、その場の空気を変えようとするかのように、声に明るい色彩をまとわせて答えた。
「そう、なの」
麗子は、やっと少し、息をつく。
やっぱり違う。あの女性は、保育士などではなかった。そうだ、やっぱり、そんなことはあり得ない。どんな人にも三人は、そっくりな人間がいるというではないか。
「とても、しっかりしたご両親なのね」
穏やかな笑みで、一言ずつ置くように返す麗子。その冷静さを取り戻しつつある声音を聞きながら、一方、淳一郎の気持ちはまったく収まらなかった。せっかく奈矢が遊びに来てくれたのに、こんなの、台無しじゃあないか。
「どうしたんだよ、おばあさま。さっきから変なことばかり……奈矢に失礼だよ」
自分を睨みつけながら食って掛かる淳一郎に対して、心底すまなそうな表情になった麗子が、
「そうよね……ごめんなさい」
と、頭を下げる。
「昔の知り合いに、似ていたような気がしたものだから、つい、ね。でも、思い違いだったみたいだわ」
いつも穏やかではあるが、プライドは相当に高い祖母が、あっさりと非を認めて謝罪を口にしたので、淳一郎は思わず鼻白んで、
「いや、そういうことなら、さ……」
と、もごもご言う。
「別所くんも、ごめんなさいね。わたしはもう失礼するから、気を悪くせずに、ゆっくりしていってちょうだいね」
「お気遣いありがとうございます。ぼくは、本当に大丈夫ですから」
謝罪を快く受け入れて丁寧な態度で微笑む奈矢を見て、ぐ、と足裏に力を入れて地面を踏みしめ直した麗子の心中が、「やっぱり似ている」と再びざわつきはじめる。
……いいえ。そんなことが、あるはずはないわ。
あの日、涙をこらえながら、自分が差し出した封筒を握り締めていた女性の姿がありありと脳裏によみがえる。そう、あの時、すべて終わった……終わらせたのだ。麗子は、苦くせり上がってくる感情を押し殺しながら、城ヶ崎紘太郎家を後にした。




