第566話「感覚の死滅と、知覚統括の麻痺」
排泄統括ヴァルカンを撃破し、排水セクターを支配していた高圧の「湿熱」を完全に消し去った往診チーム。倒れたヴァルカンが遺した不穏な言葉に従い、彼らは地下の最深部――ホストシステム『マザー・ギガ』の中枢へと直結する「中枢回路回廊」へ進出します。しかし、そこで一行を待ち受けていたのは、精神と神経系を極限まで不感症化させ、人間の「痛み」や「悲鳴」そのものを麻痺させる、ギガワークス第三の最高幹部――『知覚統括・ノーシス』でした。
ヴァルカンの放つ湿熱の毒気が完全に引き、排水セクターには静寂と、どこまでも澄み切った冷気が戻っていた。
ジークたち地下住民の治療を終えた枢は、倒れたヴァルカンの胸元にそっと手を当て、その経絡の暴走が収まったのを確認してから静かに立ち上がった。
「ヴァルカン……。あなたの体内の水毒はすべて排泄されました。もう、自分や他者を苛む高圧の廃水を吐き出す必要はありません」
鎧の隙間から荒い息を吐いていたヴァルカンは、虚ろな目を枢へ向け、掠れた声で呟いた。
「……フッ、余計な真似を……。だが、無駄だ、聖鍼師……。私を越えたところで、お前たちを待っているのは……『痛みも苦しみも存在しない、完全な死の世界』だ……。ノーシス様が……お前たちの意識を……無に還す……」
ヴァルカンがそのまま意識を失うと同時に、背後の巨大な鉄扉が重々しい音を立てて開き、奥へと続く漆黒の回廊が姿を現した。
「ノーシス……。ヴァルカンが言っていた『知覚統括』ですね。行きましょう、皆さん。この地下の最深部で何が起きているのか、その目で見極めるために」
枢を先頭に、往診チームとジークたちは中枢回路回廊へと踏み込んだ。
回廊の内部は、これまでの工場然とした地下世界とは一変していた。
壁面には無数の結晶化した魔導神経が青白く発光しながら網の目のように張り巡らされ、床には音を吸い込む特殊な絶縁マットが敷き詰められている。足音すら響かない異常な静寂の中、空気には不気味なほど「刺激がない」。においも、風も、温もりさえも感じられない、まるで感覚が削ぎ落とされていくような異様な空間だった。
「……おい、相棒。なんだか変だぜ」
哭がふと、自分の左手を見つめながら脚を止めた。
「短剣を握ってる感触が、急速に薄れていく……。指先が痺れてるわけじゃねえ。ただ、『握っている』という感覚そのものが、脳に届かなくなってやがる」
「ええ……! 私も、自分が地面を踏んでいるのかどうか、分からなくなってきました……!」
ハクが不安そうに自らの足元を見つめる。ガストンもまた、自分の腕を強く叩いたが、ぽかんとした顔で首をひねった。
「おいおい……! 痛くねえぞ? 叩いた音は聞こえるのに、肌に痛みが全く届かねえ……!」
「――全員、その場で立ち止まってください!」
枢が静かな、しかし凛とした声を張り上げた。
「これは東洋医学における『不仁(ふじん:感覚の麻痺・麻木)』の病理です。外からの激しい邪気ではありません。私たちの感覚器官(五官)を司る『心』と『脾』の連絡回路を直接遮断し、気血の巡りを自律神経ごと『不感症』に陥れる、極めて危険な音波と魔導気の重畳攻撃です!」
「クハハハ……! 素晴らしい見立てだ、聖鍼師。やはり君の臨床経験は伊達ではないな」
回廊の天井から、幾重にも重なった機械的な合成音が降り注いだ。
光の粒子が収束し、回廊の中央に浮かび上がったのは、巨大な白い球体の形をした魔導義体に全身を包んだ、異形の男だった。球体からは数十本の超細密な触手が伸び、それらが回廊の壁のバイオ・ケーブルと接続されて怪しく明滅している。
「私の名はノーシス。ギガワークス本営・知覚統括。マザー・ギガの意思を受け、全労働者の『不要な知覚』を管理・消去する者だ」
「不要な知覚……? 痛みや疲労を感じなくさせることが、管理だというのですか!」
ジークが怒りを込めて叫ぼうとしたが、言葉の途中で喉が引きつり、声が出なくなった。自身の声帯の振動すら認識できなくなっているのだ。
「その通りだ、廃棄物ジーク。過労による悲鳴、長時間の労働による肉体の悲鳴、理不尽な搾取に対する精神の激痛……。それらはすべて、効率的な稼働を阻害するノイズ(雑音)に過ぎない。ならば、脳に至る感覚神経を麻痺させ、無痛・無感覚のまま倒れるまで動かし続ける。それこそが、我がギガワークスが到達した『究極の福祉』なのだ!」
ノーシスが球体から伸びる細密触手を一斉に展開すると、周囲の青白い光が激しく明滅した。
その瞬間、往診チームの全員の脳裏に、強烈な「無感覚の波動」が叩き込まれた。
「くっ……! 自分の……心が、思考が……遠のいていく……」
ガストンが膝をつき、そのまま呆然と空を見つめた。痛みも疲労も感じない代わりに、生きているという実感そのものが急速に失われ、肉体がただの肉の塊へと変わっていく。
「 clinical に見て……こいつは……ヤバすぎる……。痛みを感じねえってのは、ダメージを受けてることすら……気づかずに……死ぬってことだ……!」
哭も短剣を床に落とし、虚ろな目で手をかざしたが、その手が震えていることすら彼自身の脳には伝わっていない。
「どうだ、聖鍼師よ。痛みがなければ、病も存在しない。悲しみがなければ、苦しみもない。すべてを我が『無感覚の網』に委ね、マザー・ギガの安らかな永久歯車となれ!」
ノーシスの冷酷な嘲笑が、回廊に響き渡る。
仲間たちの瞳から生き生きとした光が消え、全身の気血の巡りが完全に「不仁」の闇へと没していく中、ただ一人、枢だけが自らの白い医療着の胸元を強く握りしめていた。
(痛みとは、悲鳴ではありません。生命が『ここを直してほしい』と訴える、最も尊いサイン(手当ての道標)です。それを奪うことは、生命の尊厳そのものを殺すことだ……!)
枢の指先が、往診鞄の奥で小さく、しかし激しく脈打つ一本の「真っ赤な光」を放つ聖鍼へと伸びた。
それは、心身の覚醒と知覚の正常な開花を司る「手少陰心経」の井穴――生命の感覚を根底から呼び覚ます『少衝』の聖鍼。
「ノーシス……! あなたが消し去ろうとした『人間の痛みと温もり』を、私が今すぐこの鍼で、彼らの魂に取り戻してみせます!」
絶対的な無感症の闇の中で、生命の知覚を巡る聖鍼師の孤独で崇高な決戦が、静かに幕を開けた。
第566話をお読みいただき、ありがとうございました。
今回は、地下世界の中枢回路回廊で待ち受けていた第三の最高幹部・知覚統括ノーシスが登場し、過労や搾取による悲鳴を消し去るために「人間の感覚・痛み(知覚)そのものを麻痺させる」という、狂気の「不仁」の病理が往診チームを襲うショッキングな展開を描写いたしました。痛みを「不要なノイズ」として切り捨てるギガワークスの冷酷なロジックに対し、枢先生が『少衝』の聖鍼によって人間の尊い感覚と魂の温もりをどのように呼び覚ますのか、これからの展開をどうぞご期待ください。
さて、今回は作中の往診チームのように「長時間のPC作業や極度のストレス、あるいは自律神経の不調によって、手指の感覚が鈍くなって痺れたり、頭がボーッとして現実感が薄れ、感情の起伏や意欲が失われて心身が完全にオーバーヒート(不感症・無気力状態)に陥ってしまった時」に、脳と心の知覚センサー(五官)を瞬時に強制覚醒させ、澄み切った意識とハッキリとした感情の巡りを取り戻してくれる指先の超重要名穴をお届けします。
今回ご紹介するのは、小指の爪のキワにある、心の働きをダイレクトに覚醒させる特効穴『少衝』です。
場所は、**手のお手元の小指にあり、爪の生え際の内側(薬指側)の角から、わずかに1ミリほど離れたところ(指で爪を立てるように押すと、ピリッと鋭い響きがあるところ)**にあります。
東洋医学において、ここは「手少陰心経」の井木穴であり、生命の主宰者である『心(こころ・脳)』の働きを最も素早く呼び覚ます、救急蘇生や意識清明の最重要拠点です。ストレスや疲労で知覚が麻痺し、心が不仁状態になっている時は、この『少衝』の気が途絶えて感覚が鈍くなっています。ここを適切に刺激することで、作中の枢先生が聖鍼『少衝』を掲げたように、脳の知覚野に強い覚醒のシグナルが送り込まれ、曇っていた意識が一瞬でシャープに冴え渡り、心に本来の情熱と温もりが蘇ります。
ケアする場合は、反対の手の親指と人差し指で小指の爪の生え際を挟み込み、ツボの角に向かって爪を立てるように、強くキュッと3秒間揉みつまむのを左右交互に5回ほど繰り返してみてください。強い刺激を与えることで、ノーシスの無感覚の波動を打ち破る枢先生たちのように、一瞬で意識の霧が晴れ、生き生きとした明晰な心身を取り戻すことができますよ。
次なる第567話は、明日**7月21日(火曜日)の【12:00】**に更新を予定しております。
ノーシスの無感覚空間を破るため、枢先生が自らの身を削って放つ「覚醒の刺鍼」とは!? どうぞお楽しみに!




