第535話「噴出する焦燥と、風池の一突き」
暴走する過労と焦燥の魔力をまとい、襲いかからんとする領主ルクレツィア。その極限まで凝り固まった身体を救うため、枢先生が静かに銀鍼を構えます。新大陸での最初の本格的な治療劇が、今ここから始まります。どうぞじっくりとお楽しみください。
「効率を下げ、私の成果を邪魔する者は、誰であろうとこの街から排除します……!」
ルクレツィアの叫びとともに、広大な執務室の中に目に見えるほどのドス黒い魔力が渦巻いた。
それは単なる魔力の暴走ではない。彼女の身体の中で行き場を失い、限界まで圧縮された焦燥感、恐怖、そして強迫観念が、防衛本能の決壊によって文字通り「噴出」しているのだ。あまりのプレッシャーに、部屋の豪華なベルベットのカーテンが激しく揺れ、床に散らばっていた大量の羊皮紙がバラバラと宙に舞い上がる。
部屋中の空気が一瞬にしてガチガチに凍りついたかのような錯覚さえ覚える、息苦しいほどの圧迫感だった。
「くっ、凄まじい圧迫感ね……! これ、本当にただの人間から出てる気配なの!?」
リナが飛散する書類を腕で払いながら、その場に踏み止まって声を上げる。オークの巨漢ガストンも、いつでも動けるように腰を低く落とすが、その額には大粒の汗が滲んでいた。
「おいおい、触れるだけでこっちまで胃がキリキリしてきそうな悪気だぜ。枢旦那、まともに近づくだけでも骨が折れるぞ! あの女、完全に自分の命の薪をくべて魔力を燃やしてやがる!」
「問題ありません」
吹き荒れる負の魔力の嵐の中、枢は白い医療着の裾をわずかに揺らすだけで、呼吸一つ乱さずに歩みを進めていた。
彼の白銀の瞳は、ルクレツィアの表面的な狂気ではなく、その奥にある「悲鳴を上げる肉体」を冷徹に、そして優しく見据えていた。
「彼女の『肝』の気は完全に暴走し、血液は頭部に集中して逃げ場を失っています。脳が深刻な過加熱を起こしている状態です。今、無理に力で抑え込めば、その瞬間に脳内の細い血管が破裂します。絶対に正面から衝撃を与えてはなりません。……バザルさん、彼女の背後へ回り込めますか」
「は、はい……っ! 任せてください!」
あまりの威圧感に足がすくみかけていたバザルだったが、枢の揺るぎない声に弾かれたように走り出した。かつての衛兵隊長としての確かな身のこなしで、渦巻く魔力の隙間を縫い、ルクレツィアの死角へと回り込む。
ルクレツィアは狂乱のなかで羽ペンを握りしめ、まるでそれを武器のように構えて枢を睨みつけていた。その首筋の血管は、破裂しそうなほど青く浮き上がっている。
「何をするつもりですか、バザル……! 反逆者は即座に、この場で――」
「ルクレツィア様、悪く思わないでくだせえ……ッ!」
バザルは涙を呑んで、ルクレツィアの真紅のドレスの肩口を背後からガシリと掴み、その動きを一瞬だけ完全に封じた。
いくら過労の魔力で強化されているとはいえ、生身の女性の身体だ。オークほどではないが鍛え上げられたバザルの腕力によって、ルクレツィアの姿勢がわずかに固定される。
「離しなさい……! 離しなさいと言っているのです! 私の時間が、一秒、また一秒と無駄に失われていく……! 計算が遅れる、成果が下がる、そんなことは許されない……!」
「その焦りこそが、あなたを縛る病根です」
ルクレツィアが激しく暴れようとしたその刹那、枢の身体が音もなくブレた。
次の瞬間には、枢はルクレツィアの目の前、わずか数センチの距離へと踏み込んでいた。ルクレツィアのガラス玉のような瞳に、月光のように冴え渡る白銀の鍼の光が美しく映り込む。
枢の指先は驚くほど冷徹に、しかし愛おしいものを撫でるかのように優しく、彼女の強張ったうなじへと触れた。
「まずは頭部の過熱を冷まし、脳の血流を強制的に正常化させます。――『風池』」
枢の細くしなやかな指先が、ルクレツィアのうなじのやや外側、髪の生え際の深いくぼみへと正確に添えられた。
そこは後頭骨のすぐ下、僧帽筋と胸鎖乳突筋の間にある、頭部の血流を司る最重要拠点。
そこから、一切の迷いのない速度と角度で、白銀の鍼が吸い込まれていく。
トツン、と小さな、しかし部屋全体の空気を震わせるような決定的な音が執務室に響いた。
「――あ、――が、――」
ルクレツィアの動きが、嘘のようにピタリと止まった。
喉から漏れ出ていた冷酷な叱責の声が消え、彼女の全身から吹き荒れていたドス黒い魔力の嵐が、梅雨時の霧が晴れるように一瞬でかき消えていく。
「風池は、頭部に上り詰めた過剰な邪気を払い、脳の血液循環を劇的に改善する特効穴です。さらに、視神経の緊張を解き、自律神経の暴走を直接鎮める効果がある。枢先生は、彼女が限界を超えて発していた『焦りのブレーキ』を、指先一つで引き抜いたんです」
ハクが安堵の息を漏らしながら、枢の治療手順を頭の中で正確にトレースし、ノートに書き留める。
枢がゆっくりと鍼を微振動させ、深部へと響かせると、ルクレツィアの首筋を走る太い頸動脈が、ドクン、ドクンと大きく波打った。それは、これまで頭部に滞留し、脳を焼き切ろうとしていた大量の血液が、重力に従って一気に全身へと正常に流れ落ちていく確かなサインだった。
「……は、あ……っ」
ルクレツィアの口から、熱い、澱んだ吐息が深く吐き出される。
それと同時に、彼女の顔を覆っていた死人のような土気色が引き、ほんのりと赤みが差してきた。ガラス玉のようだった瞳に、じわじわと、生身の人間としての「確かな光」と「知性」が戻り始めていた。
「……私は、一体……何をして……? なぜ、こんなところで、書類を引き裂いて……」
自分の手を見つめ、信じられないといった様子で周囲を見回すルクレツィア。その声には、先ほどまでの刺すような冷酷さはなく、どこか戸惑ったような女性本来の柔らかさが含まれていた。
「ルクレツィア様……! ああ、元のルクレツィア様だ……!」
バザルがその場に崩れ落ち、男泣きに涙を流す。
しかし、往診チームのリーダーである枢の白銀の瞳はまだ、一切の警戒を解いてはいなかった。その視線は、ルクレツィアの身体ではなく、彼女の足元へと注がれている。
「臨床的に見て、第一段階の除痛と減圧は成功だ。だが、これで終わりではないな、枢。病根の『核』はまだ生きている」
哭が腕を組んだまま、冷酷に、しかし確信に満ちた声で言った。
枢は静かに頷き、ルクレツィアの背後に漂う、まだ完全に消え去っていない「黒い霧の残滓」を見つめた。
「ええ。彼女の身体をここまでガチガチに縛り付けていた、本丸の『呪縛』……そいつが、主の正気を取り戻されたことに危機感を覚え、今ようやく目を覚まします」
ルクレツィアの足元にある影が、光の向きを無視して、まるで生き物のように不気味に蠢き始めていた。ドロドロとした黒い粘液のような魔力が床から湧き上がり、再び彼女の身体を包み込もうと触手を伸ばす。
新大陸を過労の闇で染め上げんとする魔王軍の真の呪縛が、その醜悪な姿を現そうとしていた。
第535話をお読みいただき、ありがとうございました。
まずは第一手として、頭部への血流を正常化させ、脳の過加熱を抑える「風池」の一突きが見事に決まりました。ルクレツィアの本来の意識が戻りかけましたが、やはり彼女の影に深く潜む魔王軍の呪縛が、そう簡単には治療を許してくれないようです。
さて、今回は作中で枢先生が使用した、頭の熱を冷ます高名なツボ『風池』について詳しくお届けします。
場所は、首の後ろにある2本の太い筋肉の、**やや外側のくぼみ(髪の生え際あたり)**にあります。昨日ご紹介した「天柱」の、指一本分くらい外側ですね。
ここは東洋医学において「風の邪気が池のように溜まる場所」とされており、ここが凝り固まると頭痛やめまい、そして激しい焦燥感やイライラが引き起こされます。現代人の場合、スマホやPCの画面を見すぎて脳が過度に興奮している時、この風池が例外なくカチカチになっています。
ケアの仕方は、両手の親指をツボに当て、頭の中心に向かってじわーっと息を吐きながら5秒間押し込むのが効果的です。頭のコリがすうっと軽くなり、ルクレツィアのように「焦りのブレーキ」がかかるのが実感できますよ。
次なる第536話は、本日夜の【21:00】に定期更新を予定しております。ルクレツィアの影から這い出る呪縛の正体とは、そして枢先生の次なる一鍼はどう動くのか――。どうぞお楽しみに!




